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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第四章
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33/44

二 成立条件、承認せず。

 貴女の中で、何が違いましたか――その言葉は、わたしの中に重く沈み込んだ。

 制御官と少尉の違い……昨日からずっと考えていた。あのときの自分の感覚を、何度も思い返して、言葉にしようとした。

「……少尉から頂けるお言葉は……とても分かりやすいです」

 けれど――できなかった。言葉ではどうしても届かなくて、受け止めきれなかった。

「少尉の基準も……柔らかく整っていました」

 琥珀色の光が、白い床に薄く落ちている。今も、ちゃんとわたしの答えを待ってくれている。

「少尉が何かを間違えたとは……思いません」

 足元が覚束ない。言えない。言えるわけがない。

 ――この人の説明は分かる。

 ――でも、制御官じゃない。

 わたしは唇を噛み締める。

 言ってはならない。少尉に失礼だ。何より現象の説明になっていない。

「……分かることと、戻れることは違います」

 少尉の目が少し細くなった。

「少尉の基準に合わせようとすると、わたしの中にある場所が遠くなります。足場はあると分かっているのに、そこへ戻る道だけが見えなくなるような……」

 言葉にするほど、自分の感覚がおかしなものに思えてくる。

 けれど、言わなければ記録にならない。

「制御官のときは、探さなくても分かります」

 その瞬間、制御官の視線が固くなった気がした。

「制御官が何かをしてくださるから、というのではありません。制御官がそこにいらっしゃると、わたしの中で、ばらばらになったものが戻る向きを思い出します」

 少尉は外から基準を示してくださる。

 収束するべき点を、正確に教えてくださる。

「でも、制御官は……」

 ――違う。

 準備していた言葉では届かない。

 基準ではない。

 目印でもない。

 命令でもない。

 もっと、内側に近い。


「――制御官は、わたしが自分の中へ戻るときの、向きに近いです」


 言い終えた瞬間、息が止まった。

 あまりに変な言葉だった。

 でも、それ以外に言えなかった。

「すみません。まだ比喩です」

 慌てて付け足す。

「でも、いまのところ、これ以上は正確に言えません」

 そう言って頭を下げる。赤くなった耳までさらけだした。

 間違えてはいない、はずだった。

 頭を下げてしまったから、お二人の顔は見えなかった。

 だからお二人の沈黙の、本当の意味を、わたしは読み取れなかった。


 白い床に浮かぶ少尉の影が少しだけ動いた。

 わたしは顔を上げる。

 少尉と目が合った。

 何かを言いかけたように唇が動く。けれど、言葉にはならなかった。

 やがて、少尉はぎこちなく微笑んだ。

 わたしを見つめるその顔は、息苦しさを堪えているようだった。

 演習場の空気が固くなる。

 少尉は一度、制御官の方を見た。

 制御官は動かなかった。

 その沈黙が、妙に長かった。

「……ありがとうございます」

 少尉がようやく口を開く。

「十分です。とても重要な申告です」

 少尉の口の端が、ようやく位置を整えた。

 けれど、いつもと少し違う。

 わたしを安心させるために、そういう顔をしてくださったように見えた。

 何が重要なのだろう。

 正確に言えたわけでもないのに。


「では、始めましょう」

 少尉が端末に視線を落とした。琥珀色の演算円は、まだ待機したままだ。

「第一段階。外部基準排除。自律呼吸同期、三十秒」

 制御官の声が落ちる。

「はい」

 吸う。四拍。保持。放出。

 十秒を過ぎたあたりから、足裏が薄くなった。

 白い床に立っているはずなのに、自分の重さがどこかへ逃げていく。

「申告」

「足裏の位置が……薄くなります」

「感情か、現象か」

「現象です」

「継続」

 呼吸を続ける。

 二十六秒。胸の奥に、小さな空白が生まれた。

「胸郭奥に空白。少し……外へ引かれます」

 三十秒。

「第一段階、終了」

 息を吐いた瞬間、膝から力が抜けそうになった。

 でも崩れなかった。

 嬉しい。口元が緩む。

 昨日より、自分の感覚を言葉にできている。

「第二段階。ヴァイマン少尉基準提示」

 琥珀色の演算円が立ち上がる。

 滑らかで、柔らかな光だ。

 少尉は引っ張らない。ただ、そこに基準を置く。

 だから追える。

 追えるのに――戻れない。

「申告」

「少尉基準、三拍目で……外へ引かれる感覚があります」

 自分で口にして、驚いた。

 昨日は、そんな言葉を使えなかった。

「継続」

 琥珀色の光は崩れない。

 けれど、わたしの源泉は次第に尖り始めた。

「振幅拡大、一八パーセント」

 少尉の演算円が収束した。

 制御官の介入はない。

 胸の熱が引く。振幅が開始時の値まで戻ったことを確認して、少尉が次の試行を告げた。

 再び琥珀色の光が広がる。

 足場が遠くなる。

 戻りたい。

 そう思ったとき、視線が銀色を探していた。

「視線。申告しろ」

「……制御官を、探しました」

「なぜ」

「戻る向きを……探したからです」

 制御官は答えなかった。

 少尉の端末を持つ指が、ほんの一拍止まった。


 試行は続いた。

 わたしは感じたことを申告し、少尉が計測値と照合していく。

 外部基準排除、十秒過ぎから足裏の定位感低下。二十六秒で胸郭奥に空白感。

 少尉基準、三拍目で外部へ引かれる感覚。

 制御官視認時、帰還方向自覚。

 制御官の命令前間隔想起時、源泉尖度低下。

 言葉が増える。

 曖昧だった感覚に、少しずつ輪郭が生まれていく。

 怖い、ではない。

 不安、でもない。

 位置を失う。外へ引かれる。戻る向きが消える。

 そして、制御官の拍を思い出すと、その向きだけが戻ってくる。


 わたしは、少しずつ嬉しくなった。


 できないことが分かるのは、できるようになることの始まりだからだ。


 ある試行で、制御官は何も仰らなかった。

 わたしは、命令の前にある短い沈黙を思い出した。

 吸う。保持。放出。

 胸の奥で、遠ざかっていた足場が少しだけ近づく。

 少尉の端末が短く鳴った。

「源泉尖度、低下。外部制御入力なし」

 わたしは顔を上げた。

 制御官は、何も仰っていなかった。

 それでも、戻れた。

「少し、分かりました」

 額に汗が滲んでいる。喉も乾いている。

 けれど、胸は最初より明るかった。

「少尉の基準で崩れそうになっても、制御官の拍を思い出せば、少し戻れます」

 制御官の指が止まった。

「声ではなく、拍です。歩かれるときの間隔や、命令の前の沈黙の長さに近いと思います」

 思い出すだけでいい。

 制御官に何かをしていただく必要はない。

 それが分かった。

「今日の試行でも、何度か確認できました」

 やっと言えた。

 ずっと探していたものの一部を、ようやく掴めた気がした。

 まだ飛べない。

 でも、昨日より分かる。

 自然と顔が綻んだ。

 なのに――


「それは使うな」


 笑顔が強張る。

「……なぜですか」

「単独成立ではない」

「でも……」

 箒を握り直す。

「わたしの中で起きています」

 少尉の端末を持つ手が止まった。

「思い出しているだけです。制御官に何かをしていただいているわけではありません」

 言えば、きっと分かってくださる――そう信じて次の言葉を探したとき、制御官の視線がそれを遮った。

「だが外部依存だ」

 制御官の声はどうしようもなく平坦だった。


「特定個体の想起を必要とする手順は、標準への単独移行と区別する。以後の訓練でも、成立条件として採用しない」


 胸の奥にあった明るさが、消えた。


 自分の中で見つけたものなのに。

 源泉が暴れないための方法だ。

 力が迷わずに戻るための道だ。

 それでも、使ってはいけないのだろうか。


「大尉」

 少尉の声が入った。

「彼女の内部手順です」

 その臆することのない声は怖いほど冷静だった。

「外部個体の想起だ」

「ですが、制御入力はありません。彼女自身の源泉が収束しています」

「成立条件の起点が私なら同じことだ」

 少尉が口を閉じた。

 一拍置いて、静かに尋ねる。

「……記録には、そう残しますか」

「事実だけを記録しろ。解釈を混ぜるな」

 少尉は端末へ視線を落とした。

「外部制御入力なし。特定制御官想起時、源泉尖度低下。自律収束傾向あり」

 読み上げてから、制御官を見る。

「これは観測事実です」

 制御官は答えなかった。


 わたしは、お二人を見比べた。


 少尉も制御官も、嘘は仰っていないように思える。

 なのに、同じものを見ているはずのお二人が、違うことを言っている。

 

 わたしは何かを間違えたのだろうか。


 それとも、ずっと間違い続けていたのだろうか。


 制御官がこちらを見た。

「次。帝国標準振動へ切り替える」

 心臓が跳ねた。

 帝国標準。

 最終的に、わたしが合わせなければならないもの。

 わたしは足に力を込める。その下から響く振動を感じる。

 制御官の周波数は帝国標準に近い。

 なら、移ればいいはずだ。

 いまだって少尉の基準から、制御官の拍を思い出して戻れるのなら、標準にも移れる。

 そうでなければ、おかしい。

 少尉が端末を操作する。

 琥珀色の演算円が薄くなり、代わりに演習場全体の白さが深くなる。


 外部基準が、帝国標準振動へ切り替わる。

 その瞬間だった。

 身体の奥が、拒んだ。

 合わせられない、ではなかった。

 分からない、でもなかった。


 拒んだ。


 胸郭の奥が一瞬で冷える。

 背骨の内側が後ろへ下がる。

 足裏の位置が消える。

 体温が末端から引いていく。

「あ……」

 声が漏れる。

 白い空間が急に広がった気がした。

 誰もいない。

 なのに拍がある。

 正確な拍。

 揺らぎのない、けれど誰のものでもない拍。


 制御官の周波数と、似ているはずなのに違う。

 まったく違う。

 そこには、誰もいない。

 なのに引きずられる。

 内臓がひっくり返りそうになる。お腹の中の源泉がもがいている。


 ――嫌だ。


 こみあげてきた感情は、確かな恐怖だった。


「申告」

 制御官の声が遠くから聞こえた。

 その瞬間、胸の奥に小さな向きが生まれた。

 白い空間は変わらない。標準振動も止まっていない。

 なのに、わたしの呼吸だけが少し楽になる。

 戻れる。

 そう思ったことが、かえって怖かった。

「標準に……切り替わった瞬間……」

 顔を伏せたまま声を絞り出す。制御官の姿を見たいのに見てはいけない気がする。

「身体が拒みました」

「拒絶か」

「はい」

 そう答えた瞬間、間違えたと思った。

「……いいえ、分かりません」

 呼吸が浅くなる。

「拒絶というより……そこには、戻る場所がありません」

 少尉の息を呑む気配がした。

 制御官は何も言わない。

「制御官の周波数と、標準振動は近い……のですよね」

「そうだ」

 その答えすら、もう痛い。

「でも」

 声が震えそうになる。


「標準には、誰もいません」


 言ってから、自分でもぞっとした。

 あまりに変な言葉だった。

 でも、そうとしか言えなかった。

 標準には、誰もいない。

 正確で、清潔で、滑らかで、完全に近い。

 だからこそ、そこには戻る向きがない。

 制御官には、沈黙の間隔がある。

 拍の前に、わずかな圧がある。

 命令の裏に、ためらいとも違う硬さがある。

 そこに、わたしの中の何かが反応している。

 標準には、それがない。

「記録しろ」

 制御官が言った。

「戻る場所がない、ではなく、帝国標準振動切替時、内的帰還感覚消失」

「……はい」

 わたしはなんとか返事をする。

 けれど、わたしが言いたかったのは、そんな言葉ではなかった。


 標準の中には、最初から戻る場所を見つけられなかったのだ。

 

 そう言いたかった。

 でも、言えなかった。


 制御官の顔が、あまりに冷たく見えたから。


 少尉が小さく口を開いた。

「大尉」

「記録だけを取れ」

「これは遷移ではありません」

 少尉の声は、静かだった。

 静かなのに、白い演習場の奥まで届く。

「標準同期率は上がっていない。それなのに、大尉の音声に対して帰還反応が生じています」

 制御官の表情は動かない。

「記録だけを取れ」

 少尉は端末に視線を落とした。

 指が動かない。

 けれど、やがて短い操作音が鳴った。

 記録が確定したのだろう。

「……承知しました」

 少尉は、それ以上何も言わなかった。

 けれど、その沈黙の中に、焦りがあった。

 わたしにも分かるほどの、細く押し殺された焦りだった。


 でも、なぜなのかは分からない。


 わたしはただ、箒を抱えて立っていた。

 訓練は進んでいる。

 言葉も増えている。

 昨日より、自分の中で何が起きているのか分かるようになっている。


 制御官に何もしていただかなくても、少し戻れるようになった。


 それが駄目なことなのだろうか。


 この白い演習場のどこかで、何かが決定的にずれていく。

 わたしは、自分の中へ戻ろうとしている。

 制御官は、わたしを標準へ戻そうとしている。


 その二つは、同じ方向ではない。


 胸よりも低いところで、源泉が小さくうずくまった気がした。

 落ち着いたのではない。

 まるで、泣くことも許されない子供が膝を抱えるような姿勢だった。


「――ぁ」

 口を開く。

 けれど制御官が次の工程を表示した。

「再開する」

 短い命令。

 わたしは言葉を飲み干す。

「はい」

 返事は崩れなかった。

 崩さなかった。

 だって、まだ分からない。

 分からないなら、記録しなくてはいけない。

 白い演習場の中央で、わたしは自分の内側にうずくまる源泉を、そっと抱きしめた。

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