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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第四章
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一 嘘の代償

 帝国標準時間、午前五時五十分。

 ラリオーノフは端末を起動した。

 自室の机上に、マシュのバイタルサインが表示される。まだ眠っている。

 ラリオーノフは額に落ちる髪をかきあげた。

 仮眠は取った。心拍、呼吸、筋緊張、いずれも基準値内。標準からの逸脱なし。

 身体は正常だった。

 正常であることが、いまや空疎だった。

 眼前には夜間処理済みの文書群が展開されている。


 再現試験一次報告、再提出分――受理。

 訓練工程変更案――承認。

 研究院への解析依頼――受理。


 承認は早すぎた。


 嘘は提出され、受理され、運用になった。

 ラリオーノフは通知を閉じず、管理区の個体記録を開く。


 起床待機。

 対象個体――E2-TER-0000-7F3A2C。

 覚醒予測時刻――午前六時。

 その表示を見た瞬間、ひとつの数値が脳裏を過ぎった。


 〇・〇九八秒。


 意識覚醒承認より先行する源泉活性。制度上は誤差範囲内。逸脱アラートも発生しない。

 だが、その僅かな先行は、帝国初期から未証明のまま残されてきた仮説を想起させる。


 世界応答仮説。

 源泉が周囲の場に応答し、意識の覚醒に先立って動き始める可能性。


 ラリオーノフは制御階層を開いた。

 静穏化処置――管理区の防護結界と緊急停止系統は維持される。担当制御官の認証があれば、自動補正だけを遠隔停止できる。

 覚醒中の基礎魔導では、既に用いた処置だ。だが、覚醒へ移る瞬間を、この条件で記録したことはない。

 

 起床直前の、最も無防備な源泉を――観測できてしまう。


 最終認証欄が開いた。だが指の置き場所が定まらない。

 もし先行活性が〇・一秒に達し、それが補正のない状態でも再現されたなら。


 世界応答仮説は、もはや無視できないものになる。


 覚醒の承認時刻は、意識が生じた瞬間そのものではない。先行したというだけで、意志の介在まで否定はできない。

 だが、その応答が、選択そのものを形づくっていたなら――

 命令、服従、選択。人が自らの意志によって行使していると信じるものが、源泉の応答より後に成立している可能性。

 ラリオーノフの喉が鳴った。

 いまの自分には、まだ確証がない。

 だから兆候を疑い、仮説を退け、検証不足を理由に時間を稼ぐことができる。

 だが、この処置を実行し、そのうえで閾値を満たす応答が記録されたなら。


 以後に伏せるものは、もはや解釈でも判断でもない。


 ――隠蔽だ。

 昨夜の返答を、その言葉から除く理由はない。


 押せば、真実に近づく。

 記憶の中で、マシュの赤銅色の波形が広がる。

 

 補正を外しても、先行応答が閾値を満たした場合。

 その記録を得てなお、「兆候はない」と答えられるか。


 そして――

 そのとき、自分の意思はどちら側に記録される。


 帝国標準時間、午前五時五十九分。

 起床時刻が近づく。


 ラリオーノフの指は動かなかった。

 静穏化処置――未実行。

 制御コード――正常稼働。


 ――源泉活性、05:59:59.902


 その〇・〇九八秒後。


 ――意識覚醒承認。


 また、同じ数値だった。

 アラートは鳴らない。

 制度は沈黙したままだった。


 ラリオーノフは、制御階層の表示を閉じた。

 まだ確かめていない。

 確かめられなかったのではない。

 認証欄に触れなかった指だけが、冷えていた。


 ◇


 帝国標準時間、午前九時二十五分。

 休日の第三屋内演習場は、いっそう白く見えた。

 学院全体の結界負荷は低い。他生徒の移動も少なく、外乱の少ない観測環境が整っている。

 ――観測には、適している。

 ラリオーノフは制御卓の前に立ち、演習場の位相を確認した。

 すべて規格内だった。

 背後で扉が開く。音は減衰層に吸われ、金属音はすぐに消える。

「おはようございます、大尉」

 ヴァイマンだった。軍服に乱れはない。顔つきも柔らかいが、目元には夜の運河をそのまま染み込ませたような静けさがあった。ラリオーノフは一瞬だけ顔をあげて、すぐにまた制御盤に視線を戻す。

「遅延なし」

「はい。九時三十分集合、五分前到着です」

「準備は」

「完了しています」

 ヴァイマンは制御卓の脇に立ち、自分の端末を展開させた。琥珀色の演算円が薄く浮かび、すぐに待機状態へ落ちる。

 その手順は正確だった。昨日も正確だった。

「通達通り、本日は貴様を前面に置く」

「承知しています」

 返答は早い。ヴァイマンの視線は、投影面ではなくラリオーノフに向いていた。

「ですが昨日、僕では成立しませんでした」

「だから行う。どの段階で基準捕捉が外れるかを切り分ける」

「……彼女がどこで僕を拒むのかを測るわけですね」

「拒む、とは記録しない」

 一拍、白い空間が沈む。ヴァイマンが小さく顎を上げた。

「では、どこで戻れなくなるかを見る」

 ラリオーノフは制御卓の縁に指を添えた。

 戻れない。

 その言葉は、もうマシュだけのものではなかった。

「……そうだ」

 ヴァイマンは工程表へ視線を落とす。

「第一段階は外部基準排除。第二段階から僕が単一基準を提示する」

「提示のみだ。引くな。押すな。合わせに行くな」

「彼女が不安定化した場合の介入閾値は?」

「開始時比で振幅が一八パーセント拡大するまでは観測を継続。超えたら貴様が提示を止めろ。なお収束せず、三二パーセントに達した場合は本官が介入する」

「高いですね」

「緊急停止系統は武装済みだ」

「そういう意味ではありません」

 ヴァイマンの声は柔らかかった。だが退かなかった。

「大尉が遅れて介入するほど、その前後の違いが彼女にもはっきりします」

 ラリオーノフは答えなかった。

「彼女は賢い。昨日の結果も理解しています。僕がまた前に出れば、その理由を考えるでしょう」

「……分かっている」

 返事は低くなった。白い演習場には風がない。空もない。朝の光すら入ってこない。すべてが計算され、切り取られ、外部から遮断されている。

 ラリオーノフは投影面を一つ閉じる。

「貴様は私を見なくていい。彼女を見ろ」

「もちろんです」

「戻り方ではない。戻れなくなる前に何が起きるかを記録しろ」

 ヴァイマンが端末を握り直した。

「承知しました。ただ、一つ確認を」

「何だ」

「彼女が大尉を見た場合は?」

 答えられなかった。

 ヴァイマンも答えを急いでこなかった。

 その沈黙の中で、扉の認証音が小さく鳴った。

 帝国標準時間、午前九時三十分。

「おはようございます!」

 減衰層が音を飲み込む前に、明るい声が白い空間へ飛び込んできた。

 マシュだった。

 学院指定の体操着を着て、髪はいつもよりきつい三つ編みに結ばれている。それでも収まりきらない赤銅色の巻き毛が、肩の上で火花のように跳ねていた。

「今日は朝から訓練なんですね。土曜日にまで演習場を使わせていただけるとは思いませんでした」

 マシュが小走りで駆け寄ってくる。そして勢いよく頭を下げた。

「よろしくお願いいたします!」

 情動波形が跳ねる。

 期待。集中。前向き負荷。

 そのどれもが危険値ではない。

 純粋に訓練を楽しみにしている。未来を信じ切っている。


 何も、知らない。


「――本日は」

 僅かに息が詰まった。ヴァイマンの視線が一瞬だけこちらを見たのを感じた。マシュは何も気がついていない。

「……本日は追加訓練工程を実施する」

「はい」

 マシュの返事は明るい。その明るさが、ラリオーノフの胸の奥に沈む硬いものを照らしてくる。

「試行回数が増えるのはありがたいです。昨日は途中まで分かりかけた気がしたので_!!_」

 マシュが照れたように笑う。

「今日はもっと細かく記録できるようにいたします」

 ラリオーノフは何も言わなかった。

 言えば、その明るさを折る。

 言わなければ、その明るさを利用する。

 どちらも正しくない。

 マシュの視線がヴァイマンへ向けられる。

 その途端、笑顔が僅かに引いた。代わって、何かを考え始めたときの静かな光が、金色の瞳に宿る。

「本日も、ヴァイマン少尉が基準をとってくださるのですか?」

「そうだ」

 マシュが少し首を傾げる。

「昨日、少尉では成立しませんでした。なのになぜでしょう」

 責めているわけでも、怯えているわけでもない。純粋な確認だった。

「昨日は成立性の確認だ。今日は成立条件を分解する」

 ラリオーノフは投影面に本日の工程を表示させる。

 外部基準排除。

 自律呼吸同期。

 単一基準提示。

 帰還感覚申告。

 マシュは目を走らせ、頷いた。

「成立しなかった理由を、もっと細かく調べるのですね」

 ヴァイマンの端末を持つ手がわずかに止まる。

 ラリオーノフは頷かない。

「昨日の不成立だけではない。どこまでは成立していたかも記録する」

「はい」

 マシュは素直に返事をした。そしてもう一度、工程表を見る。

「――では、昨日より細かく、自分の感覚を残します」

 顔つきが変わっていた。訓練を喜ぶ少女ではない。問題の構造を掴もうとする者の目だった。

「どこで怖くなるか。どこで分からなくなるか。どこで戻れそうになるか。言葉にします」

 戻れそうになる。

 その言葉に、ラリオーノフの喉の奥が熱くなった。

「不要な比喩は避けろ」

「はい。ですが、まだ比喩でしか掴めないところもあります」

 マシュはまっすぐに答える。

「その場合は、比喩で残してから、あとで言い換えます」

 ヴァイマンがわずかに目を伏せた。

 ラリオーノフは個体申告欄を開く。

「分類できないものは自由記述でいい。ただし、感情と現象は分けろ」

「はい」

「恐怖を感じた、だけでは不十分だ。何に対して生じたのか。高度か。基準か。身体感覚か。位置喪失か」

 位置喪失。

 自分で口にしたその言葉に、呼吸が一拍遅れた。

「分かりました」

 マシュは静かに頷いた。

 午前九時三十八分。

「中央へ」

「はい」

 マシュは箒を抱え、白い床を歩き出した。

 朝の訓練を喜んでいた足取りは、少しだけ落ち着いていた。

 先へ進もうとしている。

 それが何より、ラリオーノフの胸に刺さってきた。


 マシュが演習場の中央に立つ。

 ラリオーノフは制御卓に手を置いた。


 訓練工程、開始準備。


 外部基準排除、待機。


 大尉介入、手動。


「――大尉」

 開始を告げようとしたところで、ヴァイマンが振り返った。

「ひとつだけ、対象個体に質問をしてもよろしいですか?」

 柔らかく穏やかに緩められた目尻には、かすかな切なさが滲んでいた。

 ラリオーノフは一拍置いた。

「許可する」

 ヴァイマンが微笑む。そのままマシュへ向き直った。

「マシュさん。今日もよろしくお願いいたしますね」

「はい。よろしくお願いいたします」

 琥珀色の演算円は、まだ待機状態にある。

「昨日、僕では成立しませんでしたね」

 マシュの肩がわずかに強張った。

「はい」

「――では、一つだけ」

 ヴァイマンの微笑から、ほんの少しだけ柔らかさが失われた。

「貴女の中で、何が違いましたか」

 白い空間の中に一拍の沈黙が落ちる。

「――僕と、大尉で」

 その問いは、深い運河の底を覗いているようだった。

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