一 嘘の代償
帝国標準時間、午前五時五十分。
ラリオーノフは端末を起動した。
自室の机上に、マシュのバイタルサインが表示される。まだ眠っている。
ラリオーノフは額に落ちる髪をかきあげた。
仮眠は取った。心拍、呼吸、筋緊張、いずれも基準値内。標準からの逸脱なし。
身体は正常だった。
正常であることが、いまや空疎だった。
眼前には夜間処理済みの文書群が展開されている。
再現試験一次報告、再提出分――受理。
訓練工程変更案――承認。
研究院への解析依頼――受理。
承認は早すぎた。
嘘は提出され、受理され、運用になった。
ラリオーノフは通知を閉じず、管理区の個体記録を開く。
起床待機。
対象個体――E2-TER-0000-7F3A2C。
覚醒予測時刻――午前六時。
その表示を見た瞬間、ひとつの数値が脳裏を過ぎった。
〇・〇九八秒。
意識覚醒承認より先行する源泉活性。制度上は誤差範囲内。逸脱アラートも発生しない。
だが、その僅かな先行は、帝国初期から未証明のまま残されてきた仮説を想起させる。
世界応答仮説。
源泉が周囲の場に応答し、意識の覚醒に先立って動き始める可能性。
ラリオーノフは制御階層を開いた。
静穏化処置――管理区の防護結界と緊急停止系統は維持される。担当制御官の認証があれば、自動補正だけを遠隔停止できる。
覚醒中の基礎魔導では、既に用いた処置だ。だが、覚醒へ移る瞬間を、この条件で記録したことはない。
起床直前の、最も無防備な源泉を――観測できてしまう。
最終認証欄が開いた。だが指の置き場所が定まらない。
もし先行活性が〇・一秒に達し、それが補正のない状態でも再現されたなら。
世界応答仮説は、もはや無視できないものになる。
覚醒の承認時刻は、意識が生じた瞬間そのものではない。先行したというだけで、意志の介在まで否定はできない。
だが、その応答が、選択そのものを形づくっていたなら――
命令、服従、選択。人が自らの意志によって行使していると信じるものが、源泉の応答より後に成立している可能性。
ラリオーノフの喉が鳴った。
いまの自分には、まだ確証がない。
だから兆候を疑い、仮説を退け、検証不足を理由に時間を稼ぐことができる。
だが、この処置を実行し、そのうえで閾値を満たす応答が記録されたなら。
以後に伏せるものは、もはや解釈でも判断でもない。
――隠蔽だ。
昨夜の返答を、その言葉から除く理由はない。
押せば、真実に近づく。
記憶の中で、マシュの赤銅色の波形が広がる。
補正を外しても、先行応答が閾値を満たした場合。
その記録を得てなお、「兆候はない」と答えられるか。
そして――
そのとき、自分の意思はどちら側に記録される。
帝国標準時間、午前五時五十九分。
起床時刻が近づく。
ラリオーノフの指は動かなかった。
静穏化処置――未実行。
制御コード――正常稼働。
――源泉活性、05:59:59.902
その〇・〇九八秒後。
――意識覚醒承認。
また、同じ数値だった。
アラートは鳴らない。
制度は沈黙したままだった。
ラリオーノフは、制御階層の表示を閉じた。
まだ確かめていない。
確かめられなかったのではない。
認証欄に触れなかった指だけが、冷えていた。
◇
帝国標準時間、午前九時二十五分。
休日の第三屋内演習場は、いっそう白く見えた。
学院全体の結界負荷は低い。他生徒の移動も少なく、外乱の少ない観測環境が整っている。
――観測には、適している。
ラリオーノフは制御卓の前に立ち、演習場の位相を確認した。
すべて規格内だった。
背後で扉が開く。音は減衰層に吸われ、金属音はすぐに消える。
「おはようございます、大尉」
ヴァイマンだった。軍服に乱れはない。顔つきも柔らかいが、目元には夜の運河をそのまま染み込ませたような静けさがあった。ラリオーノフは一瞬だけ顔をあげて、すぐにまた制御盤に視線を戻す。
「遅延なし」
「はい。九時三十分集合、五分前到着です」
「準備は」
「完了しています」
ヴァイマンは制御卓の脇に立ち、自分の端末を展開させた。琥珀色の演算円が薄く浮かび、すぐに待機状態へ落ちる。
その手順は正確だった。昨日も正確だった。
「通達通り、本日は貴様を前面に置く」
「承知しています」
返答は早い。ヴァイマンの視線は、投影面ではなくラリオーノフに向いていた。
「ですが昨日、僕では成立しませんでした」
「だから行う。どの段階で基準捕捉が外れるかを切り分ける」
「……彼女がどこで僕を拒むのかを測るわけですね」
「拒む、とは記録しない」
一拍、白い空間が沈む。ヴァイマンが小さく顎を上げた。
「では、どこで戻れなくなるかを見る」
ラリオーノフは制御卓の縁に指を添えた。
戻れない。
その言葉は、もうマシュだけのものではなかった。
「……そうだ」
ヴァイマンは工程表へ視線を落とす。
「第一段階は外部基準排除。第二段階から僕が単一基準を提示する」
「提示のみだ。引くな。押すな。合わせに行くな」
「彼女が不安定化した場合の介入閾値は?」
「開始時比で振幅が一八パーセント拡大するまでは観測を継続。超えたら貴様が提示を止めろ。なお収束せず、三二パーセントに達した場合は本官が介入する」
「高いですね」
「緊急停止系統は武装済みだ」
「そういう意味ではありません」
ヴァイマンの声は柔らかかった。だが退かなかった。
「大尉が遅れて介入するほど、その前後の違いが彼女にもはっきりします」
ラリオーノフは答えなかった。
「彼女は賢い。昨日の結果も理解しています。僕がまた前に出れば、その理由を考えるでしょう」
「……分かっている」
返事は低くなった。白い演習場には風がない。空もない。朝の光すら入ってこない。すべてが計算され、切り取られ、外部から遮断されている。
ラリオーノフは投影面を一つ閉じる。
「貴様は私を見なくていい。彼女を見ろ」
「もちろんです」
「戻り方ではない。戻れなくなる前に何が起きるかを記録しろ」
ヴァイマンが端末を握り直した。
「承知しました。ただ、一つ確認を」
「何だ」
「彼女が大尉を見た場合は?」
答えられなかった。
ヴァイマンも答えを急いでこなかった。
その沈黙の中で、扉の認証音が小さく鳴った。
帝国標準時間、午前九時三十分。
「おはようございます!」
減衰層が音を飲み込む前に、明るい声が白い空間へ飛び込んできた。
マシュだった。
学院指定の体操着を着て、髪はいつもよりきつい三つ編みに結ばれている。それでも収まりきらない赤銅色の巻き毛が、肩の上で火花のように跳ねていた。
「今日は朝から訓練なんですね。土曜日にまで演習場を使わせていただけるとは思いませんでした」
マシュが小走りで駆け寄ってくる。そして勢いよく頭を下げた。
「よろしくお願いいたします!」
情動波形が跳ねる。
期待。集中。前向き負荷。
そのどれもが危険値ではない。
純粋に訓練を楽しみにしている。未来を信じ切っている。
何も、知らない。
「――本日は」
僅かに息が詰まった。ヴァイマンの視線が一瞬だけこちらを見たのを感じた。マシュは何も気がついていない。
「……本日は追加訓練工程を実施する」
「はい」
マシュの返事は明るい。その明るさが、ラリオーノフの胸の奥に沈む硬いものを照らしてくる。
「試行回数が増えるのはありがたいです。昨日は途中まで分かりかけた気がしたので_!!_」
マシュが照れたように笑う。
「今日はもっと細かく記録できるようにいたします」
ラリオーノフは何も言わなかった。
言えば、その明るさを折る。
言わなければ、その明るさを利用する。
どちらも正しくない。
マシュの視線がヴァイマンへ向けられる。
その途端、笑顔が僅かに引いた。代わって、何かを考え始めたときの静かな光が、金色の瞳に宿る。
「本日も、ヴァイマン少尉が基準をとってくださるのですか?」
「そうだ」
マシュが少し首を傾げる。
「昨日、少尉では成立しませんでした。なのになぜでしょう」
責めているわけでも、怯えているわけでもない。純粋な確認だった。
「昨日は成立性の確認だ。今日は成立条件を分解する」
ラリオーノフは投影面に本日の工程を表示させる。
外部基準排除。
自律呼吸同期。
単一基準提示。
帰還感覚申告。
マシュは目を走らせ、頷いた。
「成立しなかった理由を、もっと細かく調べるのですね」
ヴァイマンの端末を持つ手がわずかに止まる。
ラリオーノフは頷かない。
「昨日の不成立だけではない。どこまでは成立していたかも記録する」
「はい」
マシュは素直に返事をした。そしてもう一度、工程表を見る。
「――では、昨日より細かく、自分の感覚を残します」
顔つきが変わっていた。訓練を喜ぶ少女ではない。問題の構造を掴もうとする者の目だった。
「どこで怖くなるか。どこで分からなくなるか。どこで戻れそうになるか。言葉にします」
戻れそうになる。
その言葉に、ラリオーノフの喉の奥が熱くなった。
「不要な比喩は避けろ」
「はい。ですが、まだ比喩でしか掴めないところもあります」
マシュはまっすぐに答える。
「その場合は、比喩で残してから、あとで言い換えます」
ヴァイマンがわずかに目を伏せた。
ラリオーノフは個体申告欄を開く。
「分類できないものは自由記述でいい。ただし、感情と現象は分けろ」
「はい」
「恐怖を感じた、だけでは不十分だ。何に対して生じたのか。高度か。基準か。身体感覚か。位置喪失か」
位置喪失。
自分で口にしたその言葉に、呼吸が一拍遅れた。
「分かりました」
マシュは静かに頷いた。
午前九時三十八分。
「中央へ」
「はい」
マシュは箒を抱え、白い床を歩き出した。
朝の訓練を喜んでいた足取りは、少しだけ落ち着いていた。
先へ進もうとしている。
それが何より、ラリオーノフの胸に刺さってきた。
マシュが演習場の中央に立つ。
ラリオーノフは制御卓に手を置いた。
訓練工程、開始準備。
外部基準排除、待機。
大尉介入、手動。
「――大尉」
開始を告げようとしたところで、ヴァイマンが振り返った。
「ひとつだけ、対象個体に質問をしてもよろしいですか?」
柔らかく穏やかに緩められた目尻には、かすかな切なさが滲んでいた。
ラリオーノフは一拍置いた。
「許可する」
ヴァイマンが微笑む。そのままマシュへ向き直った。
「マシュさん。今日もよろしくお願いいたしますね」
「はい。よろしくお願いいたします」
琥珀色の演算円は、まだ待機状態にある。
「昨日、僕では成立しませんでしたね」
マシュの肩がわずかに強張った。
「はい」
「――では、一つだけ」
ヴァイマンの微笑から、ほんの少しだけ柔らかさが失われた。
「貴女の中で、何が違いましたか」
白い空間の中に一拍の沈黙が落ちる。
「――僕と、大尉で」
その問いは、深い運河の底を覗いているようだった。




