Riverside
帝国標準時間、午後八時十六分。
学院区を外れた運河沿いの石畳は、夜になると急に広く感じられる。
昼間は人々が行き交う道も、今は人影がまばらだ。水面は黒く沈み、等間隔に立つ街灯の光だけを縦に引き伸ばしている。
風は冷たい。
遠くに見える同期塔の先端が、白く光っていた。
ヴァイマンは外套の襟をわずかに立てた。
私用回線に通信が入ったのは、四十分前だ。差出人は帝国魔導理学研究院所属、主任研究員レフ・ミハイロヴィチ・ティモシェンコ。
通信文には場所と時刻だけがあった。
それで十分だった。
運河沿いのベンチに黒い塊が見える。案の定、そこにいたのは研究者というより夜更けに追い出された居候のような男だった。
黒縁眼鏡。寝癖の残る髪。皺だらけのコートの下から覗く服もくたびれきっている。片手には紙コップのコーフェ。もう片方には端末。
足を止めれば、レフがこちらを見上げてくる。目が合えば片眉だけが上げられた。
「まさか貴方から連絡を取ってくるとは思いませんでした」
そう言いながら、ヴァイマンはレフの隣に腰を下ろした。
「僕の私用回線、どこで入手したんです?」
「調べりゃ出る」
「出ませんよ、普通は」
「普通じゃないからな」
レフが紙コップを揺らして笑う。笑い方は軽い。だが目の下には、疲労が色濃く溜まっている。あの人形の解析から、演習場での不用意な発言、そして今日の再現試験まで、殆ど寝ていないのだろう。
風が運河の水面を撫でる。波は立たない。代わりに街灯の反射が歪んだ。
先に口を開いたのはレフだった。
「悪かったな」
唐突だった。
ヴァイマンは答えなかった。続きを待つ。
「俺が余計なことを言った」
視線は運河の向こうへ向いたままだ。
紙コップの飲み口を親指で押し潰しながら、レフは続ける。
「“セルゲイの周波数だろう”“位相、ずらされてんよ”――あれであの子の自己認識が割れた。少なくとも、混乱を早めた」
ヴァイマンは静かに息を吐く。
「自覚はおありだったんですね」
「あるに決まってるだろ」
返ってきた声は低く、重かった。
「でも、あんたも見ただろ。あれはもう誤魔化しきかねぇよ」
レフが眼鏡を押し上げる。だが位置はずれていない。
「だから呼んだ。あんたが今日、何を見たか聞きてぇ」
ヴァイマンはしばらく目の前の水面を見ていた。
黒い運河の上に、夜の光が揺れている。同期しない自然な揺れだ。いつもより感情の軸が整う。
「……見たままを言えば、僕では成立しませんでした」
レフは黙って聞いている。
「手順は揃えました。外部基準は切断し、単一基準を提示した。位相調整も規定どおりです。確認できる操作上の異常はありません」
「でも駄目だった」
「ええ」
膝の上で手を組む。
「かろうじてではありますが……同期はできるんです。引っ張れないわけではない。呼吸も、拍も、浮遊への移行も、技術としては破綻していない」
夜気が少しだけ肺に沁みた。
「でも、成立しない」
その言葉に、レフの目が細められるのを感じた。
「あの子が整わないのか」
ヴァイマンは横目でレフを見る。
「……よくご存知で」
「顔見りゃ分かる」
「それは研究ではなく勘ですね」
「勘で拾ったものを、あとで解析で証明すんのが仕事だ」
レフがようやくこちらを見る。腫れぼったい目の奥に、今は妙に澄んだ光があった。
「それで?」
「大尉が観測位置を離れた直後、変わりました」
自分の声は驚くほど平板だった。
整理が済んでいる時ほど、声は熱を失う。
「大尉からの追加制御入力はありませんでした。演算円も切り替えていない。僕の基準も残っていた」
「それでも戻った」
「ええ」
言葉を探す。
「正確には……彼女の側で、戻った」
レフは何も言わない。黒い波の狭間に星が一つ瞬いた。
「こちらが与えた条件に従ったという感じではありませんでした。むしろ逆です。彼女の内部に、戻る位置があって、そこへ再捕捉されたように見えた」
運河の風が、自分とレフの間を通り抜けていく。
「単に、大尉がいないと何もできないという話ではありません」
吐いた息は冷たかった。
「僕の基準でも、呼吸、起動、出力維持までは成立しています」
できることは増えている。
「でも、今日戻ったのはセルゲイが近づいたときだ」
「ええ。そこが説明できません」
その返事にレフが短く笑う。乾いた音だった。
「綺麗に言うな」
「綺麗じゃありませんよ。厄介です」
そう言って、ようやく自分の言葉に重さを感じた。
「大尉は……自分が彼女を守ろうとしているとは、認めないでしょうね」
レフは返事をしない。
「あの人はすべてを制御官としての職業意識と、規格と合理に基づく判断だと説明するでしょう」
ヴァイマンは膝の上で指を組み直した。
「――そう説明できると信じているところが、厄介なんです」
ヴァイマンは目を細める。けれど対岸にある同期塔の光が弱くなることはなかった。
「結果として、大尉自身が成立条件に含まれてしまった可能性がある」
髪が風に揺れる。
「観測する側にいたはずなのに、今は観測される側でもある」
夜の運河が静かに流れる。
黒い水面では、同期塔の白い光さえ不揃いに揺れていた。
「混ざっちまってるんだよ、あいつが」
レフがぽつりと言った。
「最初は制御のつもりだったろうさ。位相をずらして、安定させて、落とさないようにした。そこまでは軍人として正しい。あいつならやる」
紙コップがまた少し潰れる。
「でも正しすぎるんだよ。あいつは」
レフの視線は水面に落ちたままだった。
「自分が何を混ぜたかより先に、成立したことの方を優先する。制御するなら制御する。安定するなら安定させる。切り分けるべきだと思えば、自分から試験も提案する」
レフの底にあるものに、ヴァイマンはようやく触れた気がした。
苛立ちではない。
もっと乾いた、後悔に近いもの。
「俺が余計なことを言わなきゃ、再現試験はもう少し遅れたかもしれない」
レフの指先にある紙コップは、とっくに空だった。
「セルゲイは、あの後に決めたんだろ。切り分けるって」
「恐らくは」
「なら責任の一端は俺にもある」
レフは端末を膝に置いた。
「だから解析はやる。源泉側からでも、成立条件側からでも、あの子の反応は全部追う。手を抜かない」
それは謝罪ではなかった。
研究者としての責任の取り方だった。
ヴァイマンは小さく頷く。
「――でも」
その言葉は、息を吐いただけのように聞こえたかもしれなかった。
「それでも、大尉は自分が条件に含まれていることを、最後まで技術として処理しようとするでしょうね」
「分かってんだろ、あいつも」
「ええ。分かってはいるでしょう」
一拍置く。
「認めたくないだけで」
レフが鼻で笑う。
「認めたら、あいつ自身も調べられる側だからな」
しばらくは二人とも黙った。
運河がゆっくりと流れていく。
学院の方角には白い光が滲んでいる。だがここまでは届かない。届いても、均されない。
ヴァイマンは指先でベンチの木肌をなぞった。夜露で少し湿っている。
「――ひとつだけ」
口を開けば、レフが視線を上げた。
「分からないことがあります」
「まだあんのかよ」
「大きいものが一つ」
水面に伸びる街灯の光が揺れる。
「手順を揃えても、僕の基準では戻らなかった。大尉が近づいたときだけ、収束へ転じた」
レフの返事はない。
その沈黙の中でヴァイマンが思い出すのは、演習場で起こった現象だった。
琥珀色の演算円。
赤銅色の波の乱れ。
そして、ラリオーノフが一歩踏み出した直後に起きた、あまりに静かな変化。
「最初に固定点になったからなのか。それとも、大尉自身に別の条件があるのか。今の記録だけでは分けられません」
今日、マシュは自分の基準にも応答した。同期も、浮上への移行も成立した。
それでも、保持できなかった。
「なぜ」
そこで言葉が一度止まる。
運河を渡る風の音すらもう聞こえなかった。
「なぜ、あの子の源泉は大尉にだけ戻ったのでしょう」
運河の水面が、夜の光を静かに引き伸ばしていた。




