七 飛ぶことと、帰ること――拍のあいだ
勝手口の向こうで、馬が短く鼻を鳴らした。
庭先に停まった馬車には、大きな布包みが積まれている。御者台には羊毛の帽子を深くかぶった男の人がいて、荷台には、煤で黒くなった外套を着た若い男の人が背を丸めて座っていた。
アリサ少尉の目つきが変わった。
軍人の視線だった。
「町の炭鉱から戻ったのでしょう」
神父様が言う。アリサ少尉の目尻から一瞬だけ緊張が解ける。
「祝祭期間には、こうして帰ってきます。馬を休ませ、水を飲ませてから、もう一つ奥の集落まで行くのです」
それでもアリサ少尉の視線は馬車から外れない。
「そんな目つきをしてちゃあ、馬が驚くよ」
いつの間にか家の中に戻ってきていたアグラーヤおばあちゃんが勝手口を開ける。
冷たい風が吹き込んできた。
「水なら裏だよ。人間のほうは入っておいで。顔が凍ってる」
「ありがてえ、アグラーヤ婆さん」
御者が帽子を取る。
グリゴリーさんだった。
昔から山を行き来している御者で、何度もわたしを馬車に乗せてくれた人だ。赤い頬に髭を蓄え、笑うと目尻に深い皺が寄る。
荷台から降りてきたのは、奥の集落のルキヤンさんだ。
一度短く咳き込む。袖口も襟も煤で黒い。足取りはしっかりしているが、肩が重そうだった。
この土地では、飛べる人は珍しくない。
けれど、ルキヤンさんは今、飛ばずに帰ってきた。
それはきっと、抱えた荷物の重さだけではなかった。
「ほら、温かいうちに飲みな」
おばあちゃんが差し出したミルクを、グリゴリーさんが両手で包む。
そして、わたしを見た。
「……マシュじゃねえか!」
大きな声が台所に響いた。
「帰ってくるって聞いてたが、本当に帰ってきたのか! 大きくなったなあ!」
グリゴリーさんはカップを食卓に置くと、駆け寄ってきた。
ひょいと抱き上げられる。両足が床を離れた。
アリサ少尉の靴音が、一歩近づいた。
けれど神父様が小さく首を振ると、そこで止まる。
わたしは思わず笑った。
昔もこうして抱き上げられ、馬車の御者台に乗せてもらった。頬を寄せると、髭がちくちくする。
「昨日はマクシムさんに送っていただきました」
「あいつも御者らしくなっただろ?」
「はい。とても丁寧でした」
「ははっ、親父の俺には似なかったな!」
床に下ろされると、グリゴリーさんの視線がアリサ少尉へ向いた。
「そちらのお嬢さんは?」
「アリサ・イリイーニシュナ・ヴォルコワと申します。マシュさんの付き添いです」
少尉が一礼する。
「帝都からかい?」
「はい」
グリゴリーさんは一瞬だけ何かを探るような顔をした。
けれど、それ以上は尋ねなかった。
「帝都かあ」
髭を撫でる。
「二回行ったが、もういいかな」
「どうしてですか?」
わたしは顔を上げた。
「道が真っ直ぐすぎる。時計が正しすぎる。火も水も、妙に行儀がいい」
グリゴリーさんは肩を回した。
「便利なんだろうがな。どうにも肩が凝っちまって」
「肩ですか?」
「肩だけじゃねえ。息まで凝る」
温かいタオルで顔を拭きながら、胸のあたりを指で叩く。
「源泉がな、こう……奥へ引っ込むんだ」
「奥へ?」
「暴れるんじゃねえ。逆だ。縮こまる。薪に火を入れても、こっちみたいに返事をしねえ」
「お返事……」
「反応はある。けど、よそよそしいんだ」
わたしは黙った。
帝都の火。
帝都の水。
帝都の風。
どれも正確で、規則正しい。
それなのに、わたしはいつも、どこかで拍を取り損ねていた。
「もちろん、テルベリアの者が皆そうとは限りませんよ」
神父様が穏やかに口を挟んだ。
「帝都の方が暮らしやすいという者もいます。寒さも、山道も、風の向きも気にせずに済みますから」
「そりゃそうだ。ここの冬に比べりゃ天国さ」
グリゴリーさんが笑う。
その視線が、食卓に広げたわたしのノートに止まった。
「飛行の勉強かい?」
「はい」
「俺も帝都じゃあ、どうにもうまく飛べなかったな」
わたしは思わず身を乗り出した。
グリゴリーさんは、飛ぶのが上手な人だ。
音もなく浮き上がり、向かい風の中でも身体を傾けて進んでいく。わたしは子供の頃、その姿を何度も見ていた。
「……どうしてですか」
「なんかこう、風も道も行儀が良すぎるんだよ」
指が宙をかき混ぜる。
「うまく言えねえけどな」
一度、アリサ少尉を見る。
「そこに何もねえ感じがして、やりづらかった」
胸が、どくりと鳴った。
――標準には、誰もいません。
あの日の自分の声が蘇った。
白い演習場。
あのひとの銀色の波形。
標準振動へ切り替えた瞬間、身体の内側から失われていった静けさ。
正確だった。
何も間違っていなかった。
それなのに、戻れなかった。
わたしは胸の前で手を握りしめた。
「向こうとこっちじゃ、飛び方も違うんだろうな」
グリゴリーさんは気づかずに続けた。
「俺にとっちゃ、飛ぶのは風を読む余裕がある、身軽な日の技だ。荷を背負って、腹が減って、肺に煤を入れて帰る日にゃ、馬車の方がいい」
ルキヤンさんが気まずそうに笑い、布包みを抱え直した。
「瓶詰めもあるんで。割ると母ちゃんが……」
「当たり前だよ。冬の分だろう」
アグラーヤおばあちゃんがミルクを注ぎ足す。
グリゴリーさんは、窓の向こうの馬を親指で示した。
「それに、馬は道を覚えてる。人間は風を読み違えるが、馬は泥の深さを忘れねえ。こいつは吹雪の日でも、橋の手前で止まる。俺より賢い」
ルキヤンさんが小さく笑った。
わたしは、煤のついた袖と、大きな布包みを見る。
飛べることと、無事に帰ってくること――
神父様の言葉が、今度は泥だらけの靴を履いて、目の前に現れたようだった。
やがて二人はミルクを飲み干し、帽子をかぶり直した。
「ありがとよ。今度、マクシムに干し肉を届けさせる」
「そんなことより、ちゃんと飯を食べるんだよ」
おばあちゃんがルキヤンさんに、レモンの酢漬けを持たせる。
わたしも神父様と一緒に庭へ出た。
馬の背から白い湯気が立っている。
グリゴリーさんが手綱を引くと、馬車はゆっくりと動き出した。
車輪が泥を押し分ける。
深い轍を残しながら、岩場の向こうへ消えていった。
◇
「……源泉が、縮こまる」
わたしは口の中で呟いた。
帝都に行くと、源泉が暴れる人ばかりではない。
小さくなる人もいる。
教会に戻ると、アリサ少尉が食卓の前に立っていた。
「あの、少尉」
「はい」
「テルベリアの人が帝都へ行ったとき、源泉に不調を起こした記録はありますか?」
少尉はすぐに頷いた。
「先ほどのグリゴリー氏の話ですね。軽度の同期不適応に近い反応です。低負荷結界圏からの旅行者に見られることがあります」
わたしは足首の監測環に目を落とした。
「……その人たちも、管理されるのですか」
「通常は該当しません。休息と環境調整で対応します。ただし、高出力魔導行使時に急性逸脱が発生した場合は別です」
少尉は一拍置いた。
「マシュさんの場合は、飛行訓練中に標準同期から外れています。日常的な不調ではなく、急性逸脱として記録されています」
急性逸脱。
聞き慣れた言葉だった。
それでも、前とは少し違って聞こえた。
わたしは、何もないところから壊れたのではない。
ここにあるものと、帝都にあるもののあいだで、裂けたのだ。
その考えが、胸の奥に静かに沈んだ。
ふと、少尉を見る。
真っ直ぐな背筋。
乱れのない呼吸。
いつも端末を確認している、冷静な横顔。
帝都の人だ。
わたしはここへ戻って、息が楽になった。
では、この人は……どうなのだろう。
「あの……少尉は、ここにいてお疲れではありませんか」
少尉が瞬きをした。
「疲労、ですか」
「はい。テルベリアは帝都と拍が違います。わたしにはこちらの方が楽ですけれど、少尉には逆なのではないかと思って」
口にしてから、少し恥ずかしくなった。
少尉は任務で来ている。わたしが心配する必要などないのかもしれない。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「身体疲労は通常範囲内です」
いつもの、正確な答えだった。
しかし、少尉はそこで終わらなかった。
「ただし、帝都より環境音が多いのです」
窓の外へ視線が向く。
「風、木、動物、水、建物の軋み。帝都では多くが減衰されていますが、ここでは残ります」
少尉が耳に落ちた髪を払った。
「最初は、情報量が多いと感じました」
「……苦しいですか」
「苦しい、とは違います」
少尉は少し考えてから、答えた。
「整理に時間がかかります。ですが、不快ではありません」
わたしは少尉を見つめた。
「不快では、ない」
「帝都では環境は管理されています。ここでは、風も、水も、建物さえも、こちらの都合とは関係なく動いています。私はまだ、その差を処理している途中です」
処理している途中。
相変わらず軍人らしい言葉だった。
けれど、少しも冷たくはなかった。
「そりゃあ帝都の人にはうるさいだろうよ」
台所でミルク鍋を洗っていたアグラーヤおばあちゃんが言う。
「この辺の家は、夜でも鳴る。床も鳴る。風も鳴る。時計は信用ならん。最初の晩は眠れなかっただろう」
「私は眠れました」
アリサ少尉が答えた。
「そりゃあ大物だ」
「睡眠時間は六時間四十二分です」
「そういうことじゃないよ」
おばあちゃんが笑った。
わたしも、つられて笑った。
少尉は少しだけ首を傾げた。
この人は、テルベリアに馴染んでいるわけではない。
けれど、拒んでもいない。
わたしが帝都で苦しかったように、少尉もここで、自分とは違う拍を受け取ろうとしている。
監視のために。
安全に帰すために。
その両方を、任務として引き受けている。
わたしはもう一度、少尉に頭を下げた。
「ありがとうございます」
少尉は、何についての礼なのか尋ねなかった。
◇
ノートの上に、三つの記録を並べた。
神父様の飛行。
グリゴリーさんの話。
そして、アリサ少尉の言葉。
帝国標準は、複数の飛行者を同じ基準で管理できる。
遠くまで飛ぶときや、大勢で移動するときには、安全性を予測しやすい。
それは確かに、優れた技術だった。
「けれど、低出力で周囲の変化に合わせるなら、テルベリアの方法にも利点があるのだと思います」
わたしがそう言えば、向かいに座るアリサ少尉が、頷いた。
「現地観測から、その可能性は示されています。ただし、比較にはまだ資料が足りません」
アリサ少尉は慎重だった。
「ペロフスキー神父の帝国標準への同期率は低い。ですが、本日確認した飛行は安定していました。その両方を、記録する必要があります」
窓の外には、雪を残す山の尾根が羽のように広がっていた。
きっとわたしがこの土地で生きるだけなら、神父様のように飛べばよいのだろう。
けれど、わたしは帝国標準を無視することはできない。
七月の飛行適性試験に合格しなければ、魔導物理学者になる夢が根本から断ち切られる。
「――わたしに必要なのは……どちらか一方を選ぶことではない気がします」
アリサ少尉の視線はわたしから外されなかった。
わたしも少尉を見つめ返す。
「わたしに必要なのは、テルベリアの拍を失わずに、帝国標準へ接続する手順です」
アリサ少尉の眦が少し緩んだ。
「その整理は、訓練計画として有効です」
その一言にわたしは微笑んだ。
二つの間を、翻訳する方法。
縮こまらない。
逸脱もしない。
そして、わたしを見失わない。
そこまで考えた瞬間、ふと、あのひとのことが頭によぎった。
あのひとが、ここに来たら、どうなるのだろう。
同期不安定区域。
地脈干渉過多。
低負荷結界。
標準結界網末端。
きっと、そういう言葉でここを分類する。
けれど、それだけで終わるのだろうか。
あのひとの波形は、ここで乱れるのだろうか。
それとも、いつものように振動の少ないまま、冷たい銀色で立っているのだろうか。
テルベリアの風は、あのひとを嫌がるだろうか。
それとも、少しだけ道を空けるだろうか。
考えてはいけない気がした。
けれど、考えてしまう。
あのひとがここに来たら、きっと最初に空を見る。
次に地面を見る。
それから、風の向きと、わたしの足首の監測環と、アリサ少尉の端末を見る。
そして最後に、わたしを見る。
その順番まで想像できてしまって、わたしは鉛筆を握りしめた。
来てほしい、とは思っていない。
来てはいけないとも思っている。
けれど、この風の中で、あのひとが何を黙ってしまうのかを、わたしは知りたいと思ってしまった。
アリサ少尉は何かを察したようだが、何も言ってこなかった。
今は、あのひとのことを考えるためではなく、自分の飛び方を考えるためにここにいる。
わたしはノートに目を戻した。
――まず、テルベリアで飛ぶ。
――そして、帝国標準でも飛ぶ。
――そのあいだを、翻訳する。




