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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第五章
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七 飛ぶことと、帰ること――拍のあいだ

 勝手口の向こうで、馬が短く鼻を鳴らした。


 庭先に停まった馬車には、大きな布包みが積まれている。御者台には羊毛の帽子を深くかぶった男の人がいて、荷台には、煤で黒くなった外套を着た若い男の人が背を丸めて座っていた。

 

 アリサ少尉の目つきが変わった。

 軍人の視線だった。


「町の炭鉱から戻ったのでしょう」

 神父様が言う。アリサ少尉の目尻から一瞬だけ緊張が解ける。

「祝祭期間には、こうして帰ってきます。馬を休ませ、水を飲ませてから、もう一つ奥の集落まで行くのです」

 それでもアリサ少尉の視線は馬車から外れない。

「そんな目つきをしてちゃあ、馬が驚くよ」

 いつの間にか家の中に戻ってきていたアグラーヤおばあちゃんが勝手口を開ける。


 冷たい風が吹き込んできた。


「水なら裏だよ。人間のほうは入っておいで。顔が凍ってる」

「ありがてえ、アグラーヤ婆さん」


 御者が帽子を取る。

 グリゴリーさんだった。


 昔から山を行き来している御者で、何度もわたしを馬車に乗せてくれた人だ。赤い頬に髭を蓄え、笑うと目尻に深い皺が寄る。


 荷台から降りてきたのは、奥の集落のルキヤンさんだ。

 一度短く咳き込む。袖口も襟も煤で黒い。足取りはしっかりしているが、肩が重そうだった。


 この土地では、飛べる人は珍しくない。

 けれど、ルキヤンさんは今、飛ばずに帰ってきた。

 それはきっと、抱えた荷物の重さだけではなかった。


「ほら、温かいうちに飲みな」

 おばあちゃんが差し出したミルクを、グリゴリーさんが両手で包む。

 そして、わたしを見た。


「……マシュじゃねえか!」


 大きな声が台所に響いた。

「帰ってくるって聞いてたが、本当に帰ってきたのか! 大きくなったなあ!」

 グリゴリーさんはカップを食卓に置くと、駆け寄ってきた。

 ひょいと抱き上げられる。両足が床を離れた。


 アリサ少尉の靴音が、一歩近づいた。

 けれど神父様が小さく首を振ると、そこで止まる。


 わたしは思わず笑った。

 昔もこうして抱き上げられ、馬車の御者台に乗せてもらった。頬を寄せると、髭がちくちくする。

「昨日はマクシムさんに送っていただきました」

「あいつも御者らしくなっただろ?」

「はい。とても丁寧でした」

「ははっ、親父の俺には似なかったな!」

 床に下ろされると、グリゴリーさんの視線がアリサ少尉へ向いた。

「そちらのお嬢さんは?」

「アリサ・イリイーニシュナ・ヴォルコワと申します。マシュさんの付き添いです」

 少尉が一礼する。

「帝都からかい?」

「はい」

 グリゴリーさんは一瞬だけ何かを探るような顔をした。

 けれど、それ以上は尋ねなかった。

「帝都かあ」

 髭を撫でる。

「二回行ったが、もういいかな」

「どうしてですか?」

 わたしは顔を上げた。


「道が真っ直ぐすぎる。時計が正しすぎる。火も水も、妙に行儀がいい」

 グリゴリーさんは肩を回した。


「便利なんだろうがな。どうにも肩が凝っちまって」

「肩ですか?」

「肩だけじゃねえ。息まで凝る」

 温かいタオルで顔を拭きながら、胸のあたりを指で叩く。


「源泉がな、こう……奥へ引っ込むんだ」


「奥へ?」

「暴れるんじゃねえ。逆だ。縮こまる。薪に火を入れても、こっちみたいに返事をしねえ」

「お返事……」

「反応はある。けど、よそよそしいんだ」

 わたしは黙った。


 帝都の火。

 帝都の水。

 帝都の風。

 どれも正確で、規則正しい。


 それなのに、わたしはいつも、どこかで拍を取り損ねていた。


「もちろん、テルベリアの者が皆そうとは限りませんよ」

 神父様が穏やかに口を挟んだ。

「帝都の方が暮らしやすいという者もいます。寒さも、山道も、風の向きも気にせずに済みますから」

「そりゃそうだ。ここの冬に比べりゃ天国さ」

 グリゴリーさんが笑う。

 その視線が、食卓に広げたわたしのノートに止まった。

「飛行の勉強かい?」

「はい」


「俺も帝都じゃあ、どうにもうまく飛べなかったな」

 

 わたしは思わず身を乗り出した。

 グリゴリーさんは、飛ぶのが上手な人だ。

 音もなく浮き上がり、向かい風の中でも身体を傾けて進んでいく。わたしは子供の頃、その姿を何度も見ていた。


「……どうしてですか」

「なんかこう、風も道も行儀が良すぎるんだよ」

 指が宙をかき混ぜる。

「うまく言えねえけどな」

 一度、アリサ少尉を見る。


「そこに何もねえ感じがして、やりづらかった」


 胸が、どくりと鳴った。


 ――標準には、誰もいません。


 あの日の自分の声が蘇った。


 白い演習場。


 あのひとの銀色の波形。


 標準振動へ切り替えた瞬間、身体の内側から失われていった静けさ。


 正確だった。

 何も間違っていなかった。

 それなのに、戻れなかった。


 わたしは胸の前で手を握りしめた。


「向こうとこっちじゃ、飛び方も違うんだろうな」

 グリゴリーさんは気づかずに続けた。

「俺にとっちゃ、飛ぶのは風を読む余裕がある、身軽な日の技だ。荷を背負って、腹が減って、肺に煤を入れて帰る日にゃ、馬車の方がいい」

 ルキヤンさんが気まずそうに笑い、布包みを抱え直した。

「瓶詰めもあるんで。割ると母ちゃんが……」

「当たり前だよ。冬の分だろう」

 アグラーヤおばあちゃんがミルクを注ぎ足す。

 グリゴリーさんは、窓の向こうの馬を親指で示した。

「それに、馬は道を覚えてる。人間は風を読み違えるが、馬は泥の深さを忘れねえ。こいつは吹雪の日でも、橋の手前で止まる。俺より賢い」

 ルキヤンさんが小さく笑った。

 わたしは、煤のついた袖と、大きな布包みを見る。


 飛べることと、無事に帰ってくること――


 神父様の言葉が、今度は泥だらけの靴を履いて、目の前に現れたようだった。


 やがて二人はミルクを飲み干し、帽子をかぶり直した。

「ありがとよ。今度、マクシムに干し肉を届けさせる」

「そんなことより、ちゃんと飯を食べるんだよ」

 おばあちゃんがルキヤンさんに、レモンの酢漬けを持たせる。

 わたしも神父様と一緒に庭へ出た。

 馬の背から白い湯気が立っている。

 グリゴリーさんが手綱を引くと、馬車はゆっくりと動き出した。

 車輪が泥を押し分ける。

 深い轍を残しながら、岩場の向こうへ消えていった。


 ◇


「……源泉が、縮こまる」

 わたしは口の中で呟いた。

 帝都に行くと、源泉が暴れる人ばかりではない。


 小さくなる人もいる。


 教会に戻ると、アリサ少尉が食卓の前に立っていた。

「あの、少尉」

「はい」

「テルベリアの人が帝都へ行ったとき、源泉に不調を起こした記録はありますか?」

 少尉はすぐに頷いた。

「先ほどのグリゴリー氏の話ですね。軽度の同期不適応に近い反応です。低負荷結界圏からの旅行者に見られることがあります」

 わたしは足首の監測環に目を落とした。

「……その人たちも、管理されるのですか」

「通常は該当しません。休息と環境調整で対応します。ただし、高出力魔導行使時に急性逸脱が発生した場合は別です」

 少尉は一拍置いた。

「マシュさんの場合は、飛行訓練中に標準同期から外れています。日常的な不調ではなく、急性逸脱として記録されています」


 急性逸脱。


 聞き慣れた言葉だった。

 それでも、前とは少し違って聞こえた。


 わたしは、何もないところから壊れたのではない。


 ここにあるものと、帝都にあるもののあいだで、裂けたのだ。


 その考えが、胸の奥に静かに沈んだ。

 ふと、少尉を見る。


 真っ直ぐな背筋。

 乱れのない呼吸。

 いつも端末を確認している、冷静な横顔。


 帝都の人だ。


 わたしはここへ戻って、息が楽になった。

 では、この人は……どうなのだろう。


「あの……少尉は、ここにいてお疲れではありませんか」

 少尉が瞬きをした。

「疲労、ですか」

「はい。テルベリアは帝都と拍が違います。わたしにはこちらの方が楽ですけれど、少尉には逆なのではないかと思って」

 口にしてから、少し恥ずかしくなった。

 少尉は任務で来ている。わたしが心配する必要などないのかもしれない。

 けれど、聞かずにはいられなかった。

「身体疲労は通常範囲内です」

 いつもの、正確な答えだった。

 しかし、少尉はそこで終わらなかった。

「ただし、帝都より環境音が多いのです」

 窓の外へ視線が向く。

「風、木、動物、水、建物の軋み。帝都では多くが減衰されていますが、ここでは残ります」

 少尉が耳に落ちた髪を払った。

「最初は、情報量が多いと感じました」

「……苦しいですか」

「苦しい、とは違います」

 少尉は少し考えてから、答えた。

「整理に時間がかかります。ですが、不快ではありません」

 わたしは少尉を見つめた。

「不快では、ない」

「帝都では環境は管理されています。ここでは、風も、水も、建物さえも、こちらの都合とは関係なく動いています。私はまだ、その差を処理している途中です」

 処理している途中。


 相変わらず軍人らしい言葉だった。


 けれど、少しも冷たくはなかった。


「そりゃあ帝都の人にはうるさいだろうよ」

 台所でミルク鍋を洗っていたアグラーヤおばあちゃんが言う。

「この辺の家は、夜でも鳴る。床も鳴る。風も鳴る。時計は信用ならん。最初の晩は眠れなかっただろう」

「私は眠れました」

 アリサ少尉が答えた。

「そりゃあ大物だ」

「睡眠時間は六時間四十二分です」

「そういうことじゃないよ」

 おばあちゃんが笑った。

 わたしも、つられて笑った。

 少尉は少しだけ首を傾げた。


 この人は、テルベリアに馴染んでいるわけではない。

 けれど、拒んでもいない。


 わたしが帝都で苦しかったように、少尉もここで、自分とは違う拍を受け取ろうとしている。

 監視のために。

 安全に帰すために。

 その両方を、任務として引き受けている。


 わたしはもう一度、少尉に頭を下げた。


「ありがとうございます」


 少尉は、何についての礼なのか尋ねなかった。


 ◇


 ノートの上に、三つの記録を並べた。

 神父様の飛行。

 グリゴリーさんの話。

 そして、アリサ少尉の言葉。


 帝国標準は、複数の飛行者を同じ基準で管理できる。

 遠くまで飛ぶときや、大勢で移動するときには、安全性を予測しやすい。


 それは確かに、優れた技術だった。


「けれど、低出力で周囲の変化に合わせるなら、テルベリアの方法にも利点があるのだと思います」

 わたしがそう言えば、向かいに座るアリサ少尉が、頷いた。

「現地観測から、その可能性は示されています。ただし、比較にはまだ資料が足りません」

 アリサ少尉は慎重だった。

 

「ペロフスキー神父の帝国標準への同期率は低い。ですが、本日確認した飛行は安定していました。その両方を、記録する必要があります」

 

 窓の外には、雪を残す山の尾根が羽のように広がっていた。

 

 きっとわたしがこの土地で生きるだけなら、神父様のように飛べばよいのだろう。

 けれど、わたしは帝国標準を無視することはできない。


 七月の飛行適性試験に合格しなければ、魔導物理学者になる夢が根本から断ち切られる。


「――わたしに必要なのは……どちらか一方を選ぶことではない気がします」

 アリサ少尉の視線はわたしから外されなかった。

 わたしも少尉を見つめ返す。

「わたしに必要なのは、テルベリアの拍を失わずに、帝国標準へ接続する手順です」

 アリサ少尉の眦が少し緩んだ。

「その整理は、訓練計画として有効です」

 その一言にわたしは微笑んだ。



 二つの間を、翻訳する方法。


 縮こまらない。

 逸脱もしない。

 そして、わたしを見失わない。


 そこまで考えた瞬間、ふと、あのひとのことが頭によぎった。

 

 あのひとが、ここに来たら、どうなるのだろう。


 同期不安定区域。

 地脈干渉過多。

 低負荷結界。

 標準結界網末端。


 きっと、そういう言葉でここを分類する。


 けれど、それだけで終わるのだろうか。

 あのひとの波形は、ここで乱れるのだろうか。 

 それとも、いつものように振動の少ないまま、冷たい銀色で立っているのだろうか。

 テルベリアの風は、あのひとを嫌がるだろうか。


 それとも、少しだけ道を空けるだろうか。


 考えてはいけない気がした。

 けれど、考えてしまう。


 あのひとがここに来たら、きっと最初に空を見る。

 次に地面を見る。

 それから、風の向きと、わたしの足首の監測環と、アリサ少尉の端末を見る。

 

 そして最後に、わたしを見る。


 その順番まで想像できてしまって、わたしは鉛筆を握りしめた。


 来てほしい、とは思っていない。

 来てはいけないとも思っている。


 けれど、この風の中で、あのひとが何を黙ってしまうのかを、わたしは知りたいと思ってしまった。

 

 アリサ少尉は何かを察したようだが、何も言ってこなかった。

 今は、あのひとのことを考えるためではなく、自分の飛び方を考えるためにここにいる。

 わたしはノートに目を戻した。


 ――まず、テルベリアで飛ぶ。


 ――そして、帝国標準でも飛ぶ。


 ――そのあいだを、翻訳する。

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