四 少なくとも、測定できる範囲では。
第三屋内演習場は、学院の地下に埋め込まれている。
広さは外の演習場の半分にも満たず、外界と繋がる出入口は一つだけだ。観覧席も風もない。
だが、飛行に必要な高さだけは確保されている。
ラリオーノフは制御卓を操作する。外界遮断完了。多層結界、第一層から第五層まで位相を確認。誤差なし。応答遅延なし。
黒い合金の床は足音すら吸い、壁の衝撃吸収層が墜落や魔力の暴走に備える。
設定を終え、時刻表示を確認する。
帝国標準時間、午前六時五十八分。
他の訓練生はいない。ここで起きる事象は、最初から最後まですべて一人分として記録される。
ここは訓練場であると同時に、異常の原因を特定するための検査室だ。
魔導炉安定値と制御コード応答もすべて基準内。
何も曖昧ではない。
――曖昧にさせてはならない。
ラリオーノフの確認が終わった瞬間、入口の金具が軋んだ。
顔を上げると、重い扉がゆっくりと開き、その隙間から小柄な少女が顔を覗かせた。
「おはようございます」
少女はまだ全身を使って扉を押している。けれど澄んだ声は、まっすぐにラリオーノフへ届いた。
帝国標準時間、午前七時。
「制御官!」
マシュが制御卓の前に駆けよってくる。
「本日は宜しくお願いいたします!」
音が聞こえるくらい勢いよく、頭が下げられる。背中の三つあみが大きく跳ねた。
再び上げられた顔は、昨日泣きじゃくったとは思えないほど明るかった。口の端まで喜びが滲み、紅潮した頬に金色の瞳が輝いている。
ラリオーノフはマシュの情動波形を確認した。安定した基線の上で、波形がスキップするように跳ねている。
PSY-STATE
情動基線:安定
期待傾向:+0.82
異常判定はない。だが、期待の高まりに伴う魔力出力の変動が予測されていた。
「服装はこれでいいですか? ローブは屋外用と聞いたので、体操着にしました」
マシュがくるりと回る。学院指定の臙脂色の体操着だ。
MAGIC OUTPUT PREDICTION
予測出力変動:+18%
安定余裕:平常時比-9%
ラリオーノフは腕を組んだ。
「……服装は問題ない」
「よかったです!」
マシュが歯を見せて笑った。自分の未来に世界が応えてくれると、疑っていないような笑顔だった。
眩しく、そして危うい。
ラリオーノフは目の前で跳ねる情動波形を指で払いのけた。
「……訓練の前に、貴様の源泉について再評価試験を行う」
「はいっ!」
間髪入れず返事が返る。試験への不安は見られない。肝が据わっているのか、底抜けに素直なだけなのか――判断は保留とした。
「対象者は中央へ」
マシュが箒を抱え、演習場の中心へ小走りで向かう。浮き立つ様子とは裏腹に、足さばきは同年代の平均より少し遅い。
「ここでいいですかー?」
振り返ったマシュが、大きく手を振ってくる。ラリオーノフは頷き、マシュの台帳データを呼び出した。
安全制御コード、SACC-3126-04-FL-ST。
制御欄を開き、瞳孔認証と自身の魔力署名による承認を行う。
青白いコード式が展開された。
ラリオーノフは設定を切り替える。
制御コード静穏化処置だ。
解除でも無効化でもない。監測環を介した個体への自動補正のみを停止し、源泉の挙動を未補正のまま記録する。外側の五層結界と緊急停止機構は維持される。
観測優先モードを選択。警告が表示された。
CONTROL MODE: SILENT
自動補正:停止
生データ記録:継続
緊急停止:待機
ラリオーノフは実行を承認した。
補正なし。記録されるのは、少女自身の源泉の挙動だ。
復帰の権限も、処置中の責任も、すべて自分にある。
もはや言い訳はきかない。
演習場の中央で、マシュが不思議そうに足元を見た。腰をひねり、手を握っては開く。
「お、お、お~?」
無意識に感じていた抵抗が抜けたらしい。間の抜けた声と共にマシュがぴょんぴょん跳ね始める。三つ編みから零れた赤銅色の巻き毛が、白い光を弾いた。
「静止」
ラリオーノフは短く命じる。マシュが即座に姿勢を正した。演習場の空気が一瞬で張り詰める。
「箒は置け。まずは基礎発現試験だ」
「はいっ!」
情動波形は依然として高い振幅を示している。予測出力変動は+20%。安定余裕も低い。
浮き足立っている――ラリオーノフはそう判断する。
十二歳という年齢を考慮すれば、魔導行使によって源泉が暴走する危険もある。
ラリオーノフは制御卓に指を置いた。
「点火」
マシュの呼吸が深くなった。
右の人差し指が、ゆっくりと空間を掬い上げる。その小さな指を追って、一筋の光が軌跡を描いた。
指先に炎が灯る。
「十秒保持」
マシュの長い睫が静かに震え、瞼が光を閉じ込めるように薄く落とされた。指先は微動だにしない。
十秒後、炎が細くなり、消えた。
保持時間に誤差はない。
「次、送風」
ラリオーノフは薄い紙片を取り出した。
マシュの指が空を滑る。紙片の端が揺れ、ふわりと浮いた。そのまま穏やかな波に乗るように、天井へ向かっていく。
ラリオーノフの指先には、一切風が触れない。紙片だけを選び取り、すくい上げている。
風量は最小限で安定し、指示方向と完全に一致している。余剰出力なし。
マシュがゆっくりと指を下ろす。紙片もその動きに合わせて下降し、ラリオーノフの手元に戻ってきた。
マシュの表情は、凪いだ湖面のように静かだった。得意気にすることもなければ、不安気にこちらを見上げてくることもない。先ほどまで跳ねていた情動波形も、安定した基線に戻っている。
ラリオーノフは眉を寄せた。
未成熟の理性は暴走や過失を招く。まして人より強大な源泉を持つ者は、その力を誇示したがるものだ。
だがマシュは違う。魔導行使に際して恐ろしく慎重で、局所制御の精度も高い。
飛行訓練で墜落事故を起こした個体とは思えない。
ラリオーノフは無言で制御卓を操作した。
演習場全体へ、ごく微量の魔力刺激を流す。
微小魔力刺激応答試験だ。
外部から与えた刺激を検知し、源泉が応答するまでの遅延と精度を測定する。地方の選抜試験でも実施される、帝国の基礎検査だった。
マシュの眉がわずかに動く。
ラリオーノフは内部応答ログを展開した。
刺激の検知、源泉の初動。二つの波形が同じ時間軸に並ぶ。
この試験で測るのは、外部刺激に対する個体側の応答だ。
応答遅延、12〜15ミリ秒。
標準範囲は12〜35ミリ秒。選抜試験でのマシュの記録も12ミリ秒だった。
速い。だが、異常ではない。
ラリオーノフは刺激を十回繰り返した。
応答速度にばらつきはない。過剰出力も余波もなく、刺激を止めれば源泉の反応も収束する。
静穏化処置下でも、高い再現性を維持していた。
理想的な挙動だ。
少なくとも、この試験で測定できる範囲では。
「以上ですか?」
マシュが間髪入れずに尋ねてきた。
情動波形が再び跳ね上がる。次こそ飛行訓練だと思っているらしい。
「本日の演習はこれで終了だ」
そう告げれば、マシュが明らかに狼狽えた。
「あの……飛行は?」
床に置いた箒を拾い上げ、ラリオーノフに駆け寄ってくる。空間に投射した記録を掻き分けてくるものだから、映像が逐一乱される。
「……静止」
ラリオーノフが命じれば、マシュはすぐに止まる。姿勢も即座に整えるが、その顔は納得していない。
「今日の試験結果を解析し、貴様の源泉特性と制御能力を判定する。それを基に、飛行を含む実技の訓練計画を調整する」
そう言えば、マシュの顔がぱっと明るくなった。
「つまり、わたし自身の特性に合った飛び方を学べるということですね!」
金色の瞳が光を弾き、赤銅色の巻き毛も眩さを増す。
全身で感情を表現してくる個体だ。
ラリオーノフは、先ほどの基礎試験で見せた波形と今の反応を比較記録として保存した。
「誤解するな」
端末を操作しながら告げる。
「私は教員ではない。貴様の魔導行使を監督し、帝国標準からの逸脱による事故を防ぐ。それが任務だ」
一息に言いきる。マシュが目を瞬かせた。
「でも――」
マシュが微笑む。
「考えてはくださるのでしょう?」
一瞬にして大人になったような顔つきだった。まだ誰もなんの過ちを犯していない。けれど何かを許されたような、そんな落ち着かない気持ちにさせられる顔だ。
ラリオーノフは気がつかれない程度に、端末を握る手に力を込める。
「それで十分です」
マシュが膝に両手を添える。
「ありがとうございます」
丁寧に頭が下げられる。あまりに自然で、計算の入り込む余地などどこにもなかった。
礼を言われる筋合いなどない。
その言葉を飲み込み、ラリオーノフは端末に視線を戻した。マシュが興味深そうに投影面を覗き込んでくる。視線を向けると、悪戯を見つかった子供のような中途半端な笑顔が返ってきた。
自制心はある。だが好奇心も規格外だ。
ラリオーノフは静穏化処置を終了し、監測環を介した自動補正を復帰させた。
「むぅ……」
詰まりを感じたのだろう。マシュが分かりやすく頬を膨らませる。だがすぐに姿勢を正し、次の指示を待った。
ラリオーノフは試験記録を保存し、学院の時間割を確認した。今日は教員研修のため、午後の授業がない。
「本日十六時三十分。ここに集合。解析結果を伝える」
そう告げた瞬間、端末が短く震えた。
軍からの優先通知だ。
件名「管理対象個体 居住区分変更に伴う立会指示」
嫌な予感を覚えながら、ラリオーノフは本文を眼前に開いた。
対象個体:E2-TER-0000-7F3A2C/マシュ
当該個体の居住区分変更を承認。
制御責任者は移動に実地立会し、居住先への引き渡し完了まで対象個体の安全管理責任を負うこと。
移動日時・経路・居住先は別添データを参照のこと。
手続完了後、端末にて引き渡し確認ログを送信せよ。
代理者の設定は認められない。
本件は訓練工程に含まれない。
通知の画面下部には自動付記の一文が挿入されている。
本指示は標準管理規程 第七章 第三項に基づき発行されています。
異議申立ては受理されません。
ラリオーノフは眉間に皺を寄せた。
予想はしていた。管理対象に指定された以上、マシュの監督責任や安全管理は、学院から軍へ移行する。そしてその責任者は自分だ。
異議を申し立てる余地はない。
ただ、添付された移動計画を開くまでの数秒が、妙に長く感じられた。
「……端末を確認しろ」
マシュは目を瞬かせたが、すぐにポケットから学生端末を取り出した。小さな指が画面を滑る。
最後まで読み終えると、ぱっと顔を上げた。
「制御官!」
端末をこちらへ向け、楽しそうに笑う。
「今日の午後はお引っ越しになりました!」
あらゆる現象を数値に置き換える地下でも、あどけなく笑う少女を制御できる数式などなかった。




