三 同情は業務外だ
ヴォルガリア帝国国立魔導学院の一角だけ、空気の規格が違う。
校舎とは異なる石材の廊下は音を吸い、窓もない。その奥に、魔導標準監査局の標準同期室がある。
通称、同期室。
白い扉には装飾も威圧もない。徹底的に無駄を排除したその佇まいが、帝国の理想を語っている。
ラリオーノフは端末を操作した。暗い室内に数式と波形が浮かび、各地の結界、魔導炉、基幹魔法装置の記録が帝国標準時間に沿って流れていく。
ここは標準を定義する場所ではない。
標準を、個体へ適用する場所だ。
管理不能な現象を、管理可能なものへ変える。そのための部屋だった。
投影面に規格外個体登録簿を開く。
家籍識別番号0000。暫定識別子A7D1。NO LOCK。
――そして、規格外個体制御責任者としての自分の署名。
扉の向こうから、警備の声がした。
「管理対象、入室します」
扉が開く。ラリオーノフは顔を上げなかった。先に確認すべきは姿ではなく記録だ。
小柄な影が入った瞬間、同期記録の一部が点滅し――消失した。
NO LOCK。
標準時間だけが平然と進み続ける。
ラリオーノフは記録が欠落した前後の波形を拡大した。魔力総量は高い。源泉の脈動は不規則に標準から外れ、個体魔力減衰層の波形が一瞬だけ逆走している。補正機構は対象を捕捉できない。
別の記録枠が遅れて赤く染まる。NO LOCK。
青白い波形が荒ぶり、赤い通知が並ぶ。その様子は戦争前夜に似ていた。命令はまだ下りていないのに、数列だけが先に整列していく。
検出される異常値は増えている。だが結界は、それがどの個体に属するものかを確定できない。
どこから補正を掛ければよいのか、結界には分からない。
ラリオーノフは帝国全体の匿名化統計を呼び出した。平均値に変動はなかった。
異常があるのは、この部屋の中心に立つ少女だけだ。
飛行訓練のときと同じだった。確かに目の前にいる。
だが帝国の記録は、その存在を取り落としている。
「E2-TER-0000-7F3A2C。個体名、マシュ」
ようやくラリオーノフは顔を上げる。
青白い数式の中に、赤銅色の巻き毛の少女が立っていた。豊かな髪が小さな背中を波打ち、金色の瞳に投影光が揺れている。
「私は帝国魔導軍、標準制御総監部付、特命学院駐在制御官、セルゲイ・アレクセーエヴィチ・ラリオーノフだ」
マシュの背筋が伸びる。だがその視線は、ラリオーノフへ向き直ってからも、空間を動き回る数式を追いたそうにしていた。
「貴様は本日付で規格外個体として登録され、管理対象に指定された」
台帳の制御欄を開き、管理用のコードを発行する。
「SACC-3126-04-FL-ST」
マシュの丸い目が大きくなった。
「安全制御コードだ。今後、貴様の魔導行使はこのコードの下に記録される。覚えておけ」
端末で確定すると、赤い警告の一部が消えた。すでに接続されていた監測環に、安全制御コードが紐づけられたのだ。
しかし、源泉の同定欄には依然としてNO LOCKが残っている。
管理する経路はできた。だが少女自身の魔力が、帝国の標準に収まったわけではない。
ラリオーノフはそこに視線を留め、記録だけを保存した。
マシュの学生端末へコードを送る。青白い英数字を見つめ、マシュは静かに答えた。
「はい」
予想より落ち着いた、芯のある声だった。
普通ならば、このコードの説明を受けた者は表情を変える。自由な魔導行使が制限され、監測環の記録が軍と監査局へ流れる。それを理解していないのか。あるいは理解したうえで、何か別のことを考えているのか。
「今後、貴様は私の制御下に置かれる。通常授業への出席は認める。ただし実技は私の監督下で行い、日常生活でも許可のない魔導行使を禁ずる」
マシュは頷いた。泣きもせず、抗議もしない。
端末には監測環から送られる現在位置とバイタルサイン、源泉圧の推移が表示されている。
源泉圧とは、体内の源泉が生じさせる魔力的な圧力を数値化したものだ。魔力の総量とは異なり、その時点で源泉がどれほど高まっているかを示す。
マシュの心拍数は正常。呼吸も安定している。源泉圧にも急激な上昇はない。
国家による監視を承知しているはずなのに、金色の目には奇妙な落ち着きがあった。何を恐れるべきか分かっていないのか。それとも精神面においても規格外なのか――ラリオーノフは判断を保留にする。
「本日の墜落事故について、軍の見解を伝える」
青白い光がマシュの髪に反射する。
「規格外の源泉出力と、標準結界による対象同定の失敗が重なった可能性が高い」
マシュはラリオーノフから目を逸らさない。
「帝国標準は、魔導を安全に行使するための共通基準だ。個々の魔力を結界と同期させ、事故が発生した際には自動補正と緊急介入を可能にする」
一度、言葉を切る。相手の中に意味が落ちるのを待つ。
「だが今朝、結界は貴様を見失った。補正も作動しなかった」
マシュの口元が引き結ばれる。
「原因はまだ特定できていない。今後は本官の監督下で源泉の挙動を記録し、帝国標準との同期および安全介入の成立条件を検証する」
ラリオーノフは端末の画面を見る。マシュの源泉圧は平常範囲に収まっていた。
「貴様自身にも、己の源泉の挙動を把握してもらう。求められるのは、源泉を制御し、帝国の資源として価値を示すことだ」
そこで初めてマシュの口が動いた。
「要は、己自身を飼い慣らせというわけですね」
「端的に言えばそうだ」
ラリオーノフは台帳を閉じた。
「貴様は、帝国の脅威ではないと証明せねばならん」
正面から見ると、マシュは想像以上に小さかった。ローブは肩に合わず、袖口は二重に折られ、細糸で縫い留められている。歪んだ縫い目が妙に目についた。
仕立て直したのだろう。袖口から覗く手首は折れそうなくらい細かった。
ラリオーノフはそれ以上見ないことにした。
無彩色の波形が空間を流れていく。
「わたしは飛べますか?」
不意に震える声が飛んできた。ラリオーノフは思わず瞬きをする。
「飛ばなきゃだめなんです」
マシュが拳を握る。手の甲に骨が浮き出た。
「特待、外されちゃうんです」
端末が心拍数の上昇を知らせてくる。数列と波形のホログラムを越え、マシュが一歩前に出てくる。記録の画像が歪み、慌てたように元に戻った。だがマシュは気にも留めない。
「わたし、魔導物理学者になりたいんです!」
瞬きを堪えた瞳が、まっすぐにラリオーノフを見上げてきた。
管理区分の変更にも動じなかった少女が、将来の夢について声を上擦らせてくる。ラリオーノフは眉間に皺を寄せる。優先順位が理解できない。
「特待を外されたら、テルベリアに帰されちゃうんです!」
その言葉に、ラリオーノフは監査局から受け取ったマシュの個人記録を思い出した。
出身は北方テルベリア。首都ノヴァグラードから千キロ以上離れた、国境に近い山間の村だ。
マシュは遺棄児として村の教会に保護され、そのまま育てられた。
居所と養育の記録は残されている。身元が完全に不明なわけではなかった。
だが、出生記録はなく、魔力署名も家籍に紐づいていない。
家籍識別番号、0000。
帝国の家籍に彼女はいない。
零籍とは、そうした家籍未登録者を指す制度上の区分だ。
しかし入学試験では、魔力総量が測定上限に達し、応答速度も極めて速く、筆記は満点だった。帝国が学費を全額免除したのは慈善ではない。彼女の才能に、将来の投資価値を認めたからだ。
ただし、特待の維持には学年上位五%以内の成績と、全必修科目の修得が必要となる。飛行実技に合格できなければ資格を失い、学費を払えなければ出身管区へ戻される。
だが今のマシュは軍の管理対象だ。帰還が認められる保証はない。
空間に浮かぶ波形を挟み、ラリオーノフはマシュと向き合う。金色の瞳には白い数列が映っていた。
もう一つ、説明のつかない点がある。
飛行訓練以前のマシュの記録には、今日のような事故がない。源泉の出力は大きいが、暴走や自己崩壊の兆候も見当たらない。
零籍であるため、入学試験の際も別の暫定識別子による捕捉と同期が成立していた。署名消失の記録もない。
ではなぜ、今朝の飛行訓練では、結界は彼女を見失ったのか。
「頑張ったんです……」
か細い声にラリオーノフは我に返る。
「どうしても、ここへ来たかったんです」
マシュの握りしめた拳が震えていた。
「わたし、ちゃんと答えました。特待通知をいただいたとき、すごく嬉しかったんです」
声がさらに細くなった。唇が噛みしめられる。
それでもマシュは顔を上げていた。数式の白い光が頬を横切った。
「飛行さえできれば、ちゃんと卒業できます。勉強だって、もっと頑張ります」
言葉を重ねるほど、声が持ちこたえられなくなっていく。
「こんなところで諦めたくないんです!」
ついに涙がこぼれた。
ラリオーノフの端末が情動変化を知らせる。心拍上昇。体温上昇。
「どうしても! どうしても!」
嗚咽の中で言葉が繰り返される。
ラリオーノフは一歩後退りたいのを堪える。手にした端末が重い。
数値を見れば状態は分かる。
だが、この泣き声をどう扱えばよいのかは分からない。
二十七歳のラリオーノフが受けてきた訓練に、泣く子供への対処手順はない。
墜落事故なら救出すればよい。異常な源泉なら監測し、補正する。だが、彼女がここへ来るために積み重ねてきた時間を、どの項目へ記録すればよいのか。
それを考えてしまう自分に、さらに苛立つ。
「どうしても飛ばなくちゃだめなんです!」
マシュがもう一歩近づいてくる。涙でくしゃくしゃになった顔がラリオーノフを見上げてくる。
「制御官!」
声が張り上げられる。
「わたしを飛べるようにしてください!」
ラリオーノフは端末を握り直した。
マシュの顔が歪んでいる。それを見ていると胸の奥にざらついた痛みが生じる。
なんと言えばいいのか分からない。声が硬くなる。
「同情は業務外だ」
マシュの顔がさらに崩れた。
「貴様は勘違いしている。私は規格外個体である貴様を管理し、制御する任にある」
言葉が鋭くなった。ラリオーノフ自身の源泉が揺れ、同期室の自動補正が作動する。
眼前に映し出された表示が正常範囲へ戻る。
腹の底が煮えるように熱くなる。自分の源泉に校正を要したことが、屈辱だった。
少女の源泉を管理すると宣言したばかりの男が、自分の源泉を制御するために、室内の補正に頼っている。
「飛べるようにしてくれ、だと? それは私の役割ではない」
言い切った瞬間、マシュの表情が変わった。
涙は残っている。だが、先ほどまでの懇願が消えていた。
マシュが息を整える。涙は拭わない。
「……制御官は、わたしを制御するのがお仕事なんですよね」
「そうだ」
「ならば、わたしの源泉が暴走したときに責任を負わされるのは、制御官では?」
ラリオーノフのこめかみが引き攣った。
「脅すつもりか」
自分の声は低く、そして硬かった。
「貴様の魔導行使は、私の監督下にある」
「事実をお伝えしているだけです」
マシュの声は落ち着いていた。心拍もすでに正常域へ戻っている。
「わたしは特待生として入学しました。わたしを管理しながら、特待枠を維持させ、卒業させることは、人民を資源とする帝国理念にも合致するはずです」
真っ直ぐな視線がラリオーノフに向けられる。
疑いのない、しかし挑むような強さを秘めた顔が、こちらを見上げてくる。
「帝国に損をさせるおつもりですか?」
沈黙が落ちた。
帝国標準時間の更新音だけが響く。
「個体」
そう呼べばマシュが姿勢を正した。
「どう言い繕おうと、貴様は危険因子だ。その源泉が制御を受けつけなくなったとき、帝国は容赦なく貴様を排除する」
マシュは動じない。
「貴様は最期まで、有能な資源たれ」
喉の奥にわずかな湿り気が残る。それ以上に相応しい命令は、選べなかった。
沈黙が一拍、標準時間に遅れて落ちた。
「――まずは基礎訓練からだ」
マシュの瞳がぱっと輝いた。
「明朝七時、第三屋内演習場に集合。遅刻は認めん」
「はい!」
年相応に明るい返事だった。
何かに負けたような、納得のいかない感情が胸に残る。
専任制御官として妥当な判断をした。それだけのはずだった。
「標準に忠実たれ」
マシュが慌てて背筋を伸ばす。
「標準に忠実たれ」
「帝国に栄光あれ」
「帝国に栄光あれ」
ラリオーノフは敬礼した。
端末が自身の心拍の上昇を知らせる。
マシュの敬礼は、手が逆だった。
――だが、それを指摘するべきか迷う程度には、こちらの呼吸も乱れていた。




