二 署名
帝国標準時間、午後一時二十六分。
窓から見える世界に色はない。
濁った雲が空を塞ぎ、室内に差し込む光は、壁や床の輪郭と埃だけを浮かび上がらせている。
ラリオーノフの前には、魔導標準監査局の結界運用統制官、アンドレイ・ペトロヴィチ・マリーニン大佐が座っていた。
黒い執務机の奥で、背もたれに身体を預けることもなく、正確な角度で腰を据えている。その目は、冷えた鉄のように温度がなかった。
「報告」
マリーニンの命令に、ラリオーノフは姿勢を正す。
「本日午前十時三十分、国立魔導学院中等部一年の初回飛行訓練を開始。入場時、事前通達のあった生徒一名の魔力署名が自動採取されず、手動採取も二度失敗。三度目に取得した署名には、不安定な変動が認められました」
マリーニンは眉一つ動かさない。その目はただラリオーノフを見る。
「署名中央の四桁は0000。家籍未登録を示す番号です」
窓の向こう側で、葉の落ちた枝が揺れる。
「零籍個体です」
ラリオーノフは続ける。
「位相格子を展開し、暫定識別子A7D1を付与。初学者補正への接続成立、および介入応答が規格内であることを確認しました」
姿勢は崩さない。
「午前十時五十二分、当該生徒が規定高度を超えて急上昇。直後に姿勢を崩し、箒が回転を開始しました。同時に魔力署名の捕捉が途絶。暫定識別子による追跡も失敗し、結界は対象を同定できなくなりました」
マリーニンの視線はラリオーノフから外れない。
「補正は」
「作動しませんでした。監督官による制止魔導も、対象を捕捉できませんでした」
灰色の雲の隙間から、わずかに光が滲み出す。
「続けろ」
マリーニンの低く乾いた声が、部屋に落ちる。
「緊急介入により、箒の回転を減衰。拘束面を展開し、当該生徒の姿勢を保持しました。さらに一拍のみ標準同期を成立させ、落下速度を安定化。地上で本官が直接確保しました」
マリーニンの影が机に伸びる。
「救出時の衝撃は地上減衰層によって分散。致命傷はなく、当該生徒の意識および四肢の動作に異常は認められていません」
感情も推測も挟まない。記録に残せる事実だけを述べる。
「標準時間」
マリーニンの短い言葉が空気を裂いた。
「……緊急介入時、当該生徒の標準同期記録に乖離を確認。最大偏差0.34ラジアン。正常範囲への復帰まで1.2秒です」
「貴様はそれを問題ないと判断するのか?」
マリーニンの視線が初めてラリオーノフから外れた。同時に、黒い机上に膨大な数値と波形が展開する。
すべて、帝国標準時間に同期した記録だった。
結界情報、魔導演算、飛行制御、軍事、行政。この帝国のあらゆる機能は、同一の時間基準によって束ねられている。
魔導も例外ではない。
人の体内で脈打つ、結界の補正を受ける前の生身の魔力。それを源泉と呼ぶ。
帝国では、その行使を個人の感覚だけに委ねない。国民の魔力署名は出生時に登録され、魔導行使は標準結界の同期と補正の下に置かれる。
許可のない魔導行使は認められず、その挙動も、逸脱も、すべて記録される。
その仕組みが、今朝、一人の少女を見失った。
「零籍も、暫定識別子の付与も、想定の範囲内だ。だが結界は対象を見失った」
マリーニンの指が、机上に展開された波形をなぞる。
「加えて、当該個体の標準同期に規格外の偏差が生じている」
一際大きく跳ねた波形が拡大される。その頂点に、赤い文字が浮かび上がった。
NO LOCK
対象同定不能。
結界が、少女を「個体」として捕捉できなかった痕跡だ。
そこに人間が存在しているにもかかわらず、結界には補正すべき対象が存在しない。
「当該生徒の浮上直後、呼吸と源泉脈動の位相ジッタが急増している。標準の拍に対し、わずかな進みと遅れが不規則に繰り返され、同時に暫定識別子による追跡が途絶えた」
マリーニンが指を離す。
「両者の因果関係は未確定だ」
投影面には、NO LOCKの赤い文字だけが残った。
「セルゲイ・アレクセーエヴィチ・ラリオーノフ大尉」
マリーニンの視線が、再びラリオーノフに戻った。
「だが、貴様の介入は成立している」
ラリオーノフは投影面を見る。
「緊急介入プロトコルによるものです」
「それは記録を見れば分かる」
鉛の目が眉間に突きつけられる。
「当該零籍個体の源泉について、貴様はどう評価する」
ラリオーノフの腕に、少女を受け止めたときの感触が蘇った。
小さな身体の奥で、絶え間なく繰り返されていた脈動。
それは脈より早く、血よりも熱く、生まれたばかりの星の核を思わせる熱だった。
その熱を思い出した瞬間、ラリオーノフ自身の源泉が、かすかに脈打った。
呼吸を整える。
あの少女の源泉には、現行の観測体系では説明できない何かがある。
だが――……喉が強張る。
説明できないことと、制御できないことは同じではない。
「……現行規格が、個体差を取りこぼしている兆候だと判断します」
口にした言葉は決して虚偽ではなかった。だが、それだけで説明できるとも思えなかった。
マリーニンの目が細くなる。
「当該個体はすでに規格外個体登録簿に登録済みだ」
マリーニンの指が空中を滑る。NO LOCKの文字が歪み、千切れ、粒子となって散った。そして現れたのは、赤い巻き毛の少女の顔写真だった。
魔力署名の下には、監測環の接続完了を示す表示がある。現在位置を示す座標も更新されていた。
それを見た瞬間、ラリオーノフの胸に冷たいものが広がる。
監査局はすでに少女の身体を管理系へ接続している。
結界が存在を見失った少女。今度は帝国がその居場所を把握している。
窓の外の灰色の雲は動きを止めていた。切れ目も塞がり、光はその奥で押し潰されていた。
「――まだ十二歳です」
喉が先に鳴った。言葉が出てから、ラリオーノフはそれが自分の声だと気がついた。マリーニンは顔色一つ変えない。
「憐れみか」
銃殺刑を宣言するような口調だった。
「源泉も発達途上という意味です。現段階で危険性を断定するのは早計です」
ラリオーノフは言葉を整える。
「もちろん観測下に置く必要はあります。しかし資源としての利用価値は高い」
冷ややかな空気が執務室に満ちる。無数の波形と数列だけが常に更新され続ける。
「当該個体は零籍であり、稀有な源泉を持つ存在です。結界の標準から逸脱し、規格外の偏差を生じさせ、既存の捕捉機構では追跡できない挙動を示しています」
空白の記録こそが規格外の証だった。しかしそこには空白以上の価値がある。
「当該個体の源泉を分析することは、現行規格の進化と拡張にも繋がると思われます」
マリーニンは無言だ。しかしその目は先を促していた。
「当該個体の源泉には、通信、医療、そして軍事への応用可能性があると判断します」
マリーニンの視線が少女の映像に移される。
赤毛の少女の緊張した顔が、少し歪みながら浮かんでいた。
「当該個体の名は」
「マシュ。姓はありません」
「よろしい。当該個体は、以後『観測対象』から『管理対象』へ移行する」
マリーニンが、空間に浮かぶマシュの顔を横へ滑らせる。
かわりに現れたのは、規格外個体登録簿だった。
帝国の標準から逸脱した存在を管理するための台帳だ。出自、危険度、行動制限、監視範囲が記録される。
生きているかどうかよりも先に、管理可能かどうかが記される。
それは犯罪者名簿とは違う。
罪を犯す前に、制度から外れた者のための帳簿だった。
マリーニンの指が動く。管理区分の表示が切り替わった。
観測対象から、管理対象へ。
「管理責任は貴様だ」
マリーニンが空中に浮いた台帳を回転させる。空白の署名欄がラリオーノフの眼前に展開された。
「以後、当該零籍個体に起因するすべての誤差、逸脱、再同期は、貴様の名で記録される」
「承知しました」
ラリオーノフは署名する。
規格外個体制御責任者――セルゲイ・アレクセーエヴィチ・ラリオーノフ
マリーニンが確認し、投影面が閉じられる。
「標準に忠実たれ」
マリーニンが顎をわずかにひく。
「標準に忠実たれ」
ラリオーノフは繰り返す。
「帝国に栄光あれ」
「帝国に栄光あれ」
ラリオーノフは敬礼する。
窓の向こう側には、人の沈黙の重みを塗り固めたような灰色の空が広がる。しかし沈黙とは静寂を意味するものではなかった。
零籍個体。
姓を持たぬ赤い巻き毛の少女。
あらゆるものが統制され、標準化された世界で、確かに何かが軋み始めていた。
その音は軍靴の音によく似ていた。




