一 結界が見失った少女
灰色の空に、顔のない人形が浮かんでいた。
地上三十メートル。人形の両腕は体側に揃えられ、爪先は真下を向いている。
ラリオーノフは端末で高度を確認し、左手の人差し指を下ろした。
人形が落ちる。
姿勢を崩さず地面へ突き進む。
ラリオーノフは再び人差し指で空間を切る。端末に自分の魔力署名が光る。
金属線を弾いたような音が、空気の底で一度鳴った。
地上に張られた結界の減衰層が応答する。
人形の速度が鈍る。両足が土に触れ、膝がわずかに沈む。
人形は倒れなかった。
端末に計測値が並ぶ。着地衝撃は規格内。記録の遅延もない。
ラリオーノフは試験終了の信号を送った。
間もなく、国立魔導学院の新入生たちが初めての飛行訓練に臨む。
帝国魔導軍の制御官であるラリオーノフ大尉に与えられた任務は、飛び方を教えることではない。
結界を維持し、事故を防ぐことだ。
飛行演習場の端は見えず、地平は灰色の空と溶け合っている。
冷たい風に骨を囓られる。ラリオーノフはコートの襟を少し立てた。
この国の五月は、雪解けの匂いがまだ土に染み込んでいる。冷えた空気の奥から漂ってくるそれは、ほのかに甘く生々しい。
数分後、結界の向こう側から、赤いマントを羽織った生徒達が列になって歩いてきた。初めて飛行訓練に挑む者は、学院の監督官が見分けやすいよう、男女を問わず赤を着る。
箒を抱えた生徒達が緊張した面持ちで境界をくぐる。入場と同時に、魔力署名が自動採取され、結界に紐付けられていく。
つい二ヶ月前までは初等部にいた子供達だ。魔力署名から初学者と判定され、姿勢崩れや急加速には通常より早く補正が入るよう、結界に設定される。
その補正を維持しているのが、ラリオーノフ自身の魔力だ。
生徒達が演習場の中央に整列する。箒を握りしめる指は、どれも真っ白になっていた。
ラリオーノフはその列を一瞥する。
例年ならば訓練は滞りなく進む。
だが今年は、一名だけ特別な照合を要する生徒がいる。
入学選抜時の認証記録は正常。少なくとも、提出された資料に異常はない。
監督官が点呼を開始する。幼い声が自分の魔力署名だけを高らかに名乗っていく。点呼に合わせ、入場記録の照合が進んでいく。
だが最前列右端の少女の声が響いたとき、ラリオーノフの端末が震えた。
画面に目をやる。
入場記録が少女の分だけ空白になっていた。
ラリオーノフは顔を上げる。
誰よりも小柄な少女がそこにいた。
赤いフードで目元まで隠れている。細い肩が何度も上下し、箒の穂先を握る手は震えている。
ラリオーノフは手動で署名採取を試みる。――失敗。再試行。失敗。
空白の枠だけが、記録の上で冷たく残る。
三度目の採取で、ようやく少女の署名が表示された。
E2-TER-0000-7F3×××。
中央の四桁が、0000。
(――貴様か)
家を示す識別番号が、未登録。
事前通達にあった個体だ。
だが、問題はそこではない――ラリオーノフは眉間に皺を寄せる。
7F3×××――署名の末尾が揺れている。まるで空中で足場を探すように、数字がもがいている。
入学選抜時には、暫定識別子による認証が成立していた。提出された記録に、このような揺らぎはない。
原因は不明。
結界が捕捉できていない。このままでは補正がかけられない。
ラリオーノフは端末に指を置いた。
暫定識別子の入力を有効にする。指先を結界の観測層に置く。
魔力を太く流す必要はない。細い一本で足りる。系を定義し、境界を与え、観測を始める。
――空気が一枚鳴った。金属を弾いたような音ではない。氷の表面を指で擦ったときのような低い摩擦音だ。
少女の周囲に不可視の位相格子が立ち上がる。帝国標準時間に同期した刻みが、少女の身体と周囲の空間を均等に切り分けていく。
拾ったものは即座に数字に変換される。
格子が少女の皮膚のすぐ外側を撫で、次に、皮膚の内側へ潜る。
その奥までは覗かない。
飛行に必要なのは、重心と魔力の脈動の接続だからだ。
少女の脈動は予想よりも深かった。小さな体の内側で減衰することなく、熱を帯びた波が繰り返されている。
まるで恒星の核を思わせる、持続する熱だ。
ラリオーノフは、格子の中心を少女の脊柱に合わせる。
体幹の揺れ、呼吸の周期、魔力の脈動。
その三つを一つの座標系に束ねる。
束ねられた瞬間、少女は「個体」になる。
制御枠が形成される。少女の重心と魔力の脈動が数値へ変換され、端末の奥で一つの制御モデルに組み上がっていく。
結界内の識別枠に、暫定識別子を割り当てる。
E2-TER-A7D1-7F3A2C。
原簿の0000は変わらない。A7D1は緊急用の暫定識別子だ。これで結界は、少女を補正対象の個体として認識する。
端末に確認結果が並んだ。
暫定認証、成立。
初学者補正、接続。
介入応答、規格内。
暫定ではあるが、訓練参加に必要な条件は満たしている。
ラリオーノフは端末を閉じなかった。
演習場の中央で、監督官が声を張り上げる。
「本日は初回訓練だ。規格を守れ。高度を上げるな。急旋回をするな。落ちるな」
最後の一語だけ、脅しのように重く響いた。
「箒を地面に置け。跨れ。握れ。呼吸を合わせろ」
子供達が一斉に命令に従う。
箒に跨った瞬間、結界が彼らの姿勢を走査した。関節の角度と重心に、補正の糸が張られていく。
呼吸の周期さえ測られていることを、生徒達は知っている。だからこそ、呼吸が浅くなる。
「浮上」
監督官の声と同時に、演習場の空気が一斉に持ち上がった。
箒がぎこちなく離陸していく。
高度は低い。土の匂いがまだ届く高さだ。
一人の女子生徒の身体が右へ大きく傾く。だが転覆に至る前に、姿勢が水平へ戻された。勢いよく前進した男子生徒が、見えない手に押さえられたように減速する。
補正が働いている。
規格どおりの安全な浮上が、想定どおりの恐怖を伴って始まった。
だが、小柄な少女はまだ地面にいた。
箒を握る手が細かく震えている。
フードから覗く口元が何かを唱えるように動いている。
大丈夫。大丈夫。
そう言っているのか。
少女が息を吸い、吐く。
だが吸うのが早い。吐くのが遅い。
帝国標準の拍と噛み合っていない。
ラリオーノフの肩が強張った。
少女の箒の穂先が、ほんのわずか、左右に揺れる。
不規則な動きだ。恐怖による推力の乱れか。
――待て。
ラリオーノフが中断を命じようとした、そのときだった。
少女の足裏が地面を離れた。
箒が遅れて浮かび上がる。
次の瞬間、空気が張り詰め――
そして破れた。
箒が急上昇する。少女は規定高度を一瞬で越えた。灰色の空に赤いマントが大きく膨らみ、生徒たちの悲鳴が演習場に響き渡る。
補正が入らない。
端末が震えた。
ラリオーノフは即座に確認する。
少女の署名が空白になっていた。
暫定識別子を与えたにもかかわらず、少女はこの場に「いない」ことになっている。
ラリオーノフは端末を握ったまま、演習場の中央へ駆け出した。
上空で少女の重心が崩れた。膝が折れ、つま先が宙をもがく。箒が前に出るが、少女の体はその勢いについていけない。
遅れた身体が慌てて箒にしがみつき、肩と腰がねじれた。
「止まれ!」
監督官の声が飛ぶ。だが遅い。
監督官の制止魔導が結界へ流れる。
だが、対象識別欄は空白のままだ。
少女の箒が回転を始めた。
赤いマントが風を孕んで膨らみ、次の瞬間、真下へ裂けるように落ちる。
減衰層はある。
だが回転とねじれまで吸収できない。
足は守れても首が守れない。
端末の介入項目は開かない。
開いている時間はない。
ラリオーノフは端末を握ったまま、視線と呼吸だけで対象を括った。
少女と箒を一つの系として捉える。
回転軸。角速度。重心のずれ。魔力の脈動。
結界が拾えないなら、自分が拾う。
緊急注入。
心の中で一語だけ選ぶ。
――減衰。
空気が硬く鳴った。箒の回転が嘘のように鈍る。
だがまだ足りない。
少女自身の身体にまだ自由が残っている。
ラリオーノフは再び別の一語を選ぶ。
――拘束。
細い帯では、力が集中する。骨がもたない。
だから「面」を展開させる。
空気が一枚、たわむ。少女の背から腰にかけて、薄い膜が張られた。
ハンモックのように四点へ張力が逃げ、身体はその上で初めて「形」を得る。
腕が暴れない。膝が跳ねない。肩と腰のねじれが、膜の張りの中へ吸い込まれていく。
だが、少女の呼吸が合っていない。魔力の脈が飛び、箒との結合が切れかけている。
無理に停止させれば、身体がもたない。
落下は止めない。
止めずに、生かす。
次の、一語。
――同期。
一拍だけ、呼吸と脈動を標準に合わせる。完全に揃えない。揃えれば過制御になる。
少女の小さな体では到底耐えきれない。
だがその一拍で、箒の前後の揺れが収束した。落下速度が安定する。
落下は続いた。赤いマントが風を切って細く鳴る。
ラリオーノフは最後の一歩を踏み込む。
両腕を空に向けて開いた。
次の瞬間――
軽い重みがラリオーノフの胸へ落ちた。
反射ではない。支える位置も、受け止める角度も、最初から決めていた。
ラリオーノフは両腕を少女の背に回す。これは落下の残りを受け止めるための、ただの拘束だ。
それでも、胸元に伝わる震えだけは規格に収まらなかった。
そのまま減衰層に倒れ込む。衝撃が薄く延ばされ、全身に散った。
地上に転がった端末が鳴る。記録が表示されるのを目の端で捉えた。
落下。介入。減衰。拘束。同期。すべてが記録になっている。
一拍だけ成立させた同期の記録にも、少女の脈動のずれが残っていた。
標準の拍から外れ、すぐに戻っている。
戻ったからこそ、見逃せない。
同期誤差が、許容範囲を越えたのだ。
自分の心拍が一瞬あがるのをラリオーノフは感じた。
だが転がる端末に手を伸ばすより早く、胸の上の少女が顔をあげる。
風が吹いた。
赤いフードがふわりと浮き、少女の頭から滑り落ちる。
赤銅色の髪が溢れ出した。
陽光など差していない。
だが灰色の空の下で、わずかな光を拾った房が朱と金に輝く。
ラリオーノフは一瞬、息を止めた。
少女の瞳は、金色だった。
「……」
ラリオーノフが口を開くより早く、監督官が訓練の一時中断を命じた。
別の監督官が駆け寄ってくる。少女の肩に手が置かれた。
「署名は」
少女の視線がラリオーノフから外れる。
胸の先で細い喉が喘ぐように鳴るのを、ラリオーノフは無言で見つめた。
「E2-TER-0000-7F3A2C……です」
少女が吐くように告げた署名に、監督官が苛立ちを隠さず舌を打つ。
「名を言え」
「……マシュ、です」
「姓は」
「ありません」
その一言で、周囲の空気が変わる。赤いマントの列が、ほんのわずかたじろいだ。
ラリオーノフは少女の背に回した手を緩める。胸から重みが抜け、熱が解けた。
待機していた医官が少女を引き取り、意識と四肢の動きを確認した。
ラリオーノフは結界の補正機能を再検証する。
他の生徒への補正に異常はなかった。
少女は監督官に促され、演習場の隅へ移動する。去り際にラリオーノフへ一礼した。その律儀さは、余裕のなさの裏返しのようにも思えた。
姓がない。
署名が取れない。
暫定識別子を与えても、結界は対象を見失った。
同期誤差も許容範囲を超えている。
これは偶然ではない。
偶然という言葉は記録に書けない。
ラリオーノフは端末を伏せる。目を背けたわけではない。思考するためだ。
やがて、訓練再開の号令がかかる。
ただ一人、少女だけは地上に残された。
結界の隅で膝を抱えている。
空では、初めこそ怯えていた生徒達が、今では地上を歩くように箒を進めている。
だが、少女は顔を伏せなかった。
金色の瞳は、飛び続ける同級生達の身体を一つ残らず追っている。
なぜ彼らは飛べて、自分は落ちたのか。
その眼差しは、そう問いかけているように見えた。
ラリオーノフの握りしめた端末が冷たく光る。
そこでは空を飛び続ける生徒達の署名が表示され、すべてが最適化されている。
だが少女はそのどこにもいない。
揃えた世界の中に、揃えられないものが来た。――来てしまった。
演習場に子供の笑い声が響く。
その声が、ひどく遠く聞こえた。




