七 曖昧になった基準点
帝国標準時間、午後九時十分。
管理区はまだ消灯前だった。
わたしはベッドに潜り込み、目を閉じる。壁の向こうでは帝国標準結界が規則正しい拍を刻んでいた。誤差のない、均された静けさだ。
けれど、わたしの心はずっと波打っている。
瞑った目に力を込める。――眠れない。
瞼の裏に、白い演習場が残っている。
制御官の声。
銀色の波形。
足元から床が離れ、姿勢を保持できた五秒間。あのとき確かに呼吸が整った。
――位相、ずらされてんよ?
博士の声を思い出した途端、喉が鳴った。
わたしは、自分で合わせられていたのではない。
合わせられるように、調整されていた。
胸の裏まで冷たくなって、目の奥が熱くなる。
魔力を起こしたのは自分だ。箒に流したのも、保持しようとしたのも自分だ。
それでも、うまくいった理由は、自分の外側にあった。
なら、あの五秒間は、何だったのだろう。
布団の中で手を握りしめる。
制御官に合わせると、世界が静かになった。
音が消えたわけではない。呼吸も鼓動も、全部聞こえていた。それでも、遠いものと近いものが分かれて、自分のいる場所が分かった。
均された静けさではない。
その感覚だけは、間違いだと思えない。
正しいと思いたい。
正しいはずなのに。
静けさだけが、消えない。
◇
帝国標準時間、午前九時四十分。
心配そうな顔をする友人に手を振って、わたしは第三屋内演習場に向かう。
みんなはこれから音楽室に行く。火曜日第二課程は拍同期適性確認訓練だ。
一人きりになってしまった廊下で窓の外を見る。灰色の雲の割れ目から微かな光が見えた。
今日は、晴れるかもしれない。
火曜日の学院の空気は少しだけざらついている。わたしの赤毛の毛先もいつも以上に纏まらない。
週次の結界基底調整が入るからだ。
音ではない。振動でもない。けれど、空気の並び順が変わっているのが分かる。
足裏の接地が、半拍だけ遅れる。
それだけのことなのに、胸の奥はどうしても落ち着かなかった。
演習場は、いつもと何も変わらなかった。壁も床も境界を持たず、光は均一に散る。
外部の音は届かない。
中央に制御官が立っていた。
その真っ直ぐな姿を見ただけで胸が痛いくらい苦しくなる。昨日の逸脱の記憶が押し寄せてきて、感情が皺になる。
制御官がこちらに気がつく。
線が均等に移動するように、首がわたしの方に向いた。
視線が合う。
「よろしくお願いいたします」
背筋を伸ばして、ゆっくりと頭を下げる。語尾は震えなかった。それでも耳の裏が熱くなった。
顔を上げれば、制御官がわたしを見下ろしていた。整いすぎていて、感情を解釈する余白のない顔だ。
けれど、いつもより少しだけ、端末を支える長い指に力が入っているような気がした。
「――……」
制御官の胸が僅かに膨らみ、そしてゆっくりと戻っていく。その動きに合わせて、わたしの呼吸も少し楽になった。
「……昨日の件について、説明する」
いつもの低い声。けれど胸の深いところまで染み込んでくる。
「昨日の浮上時、私は貴様の応答位相に微調整を加えた」
胸が痛んだ。無意識に足元を探ってしまう。
「外部基準を切り、私の主周波数を単一基準として提示していた。記録カメラへの切り替え後、貴様の源泉圧が上昇したため、調整を加えた」
――やっぱり、そうだった。
箒を握りしめる。
「それ以前の個別訓練でも、必要に応じて同様の調整を実施していた」
必要な操作だった――それは分かる。けれど、心にできた皺がなくならない。
「その操作について、私は貴様に明示していなかった」
制御官の声は平坦だった。
「補助調整の範囲と判断し、明示する必要はないと考えた。だが、その判断は誤りだった」
わたしは何も言えなかった。昨日の自分の叫び声がずっと心の中に響いている。
「確認する」
制御官が少しだけ顎を引いた。
「今の説明を、どう理解した」
喉が詰まった。
何と答えればいいのか分からない。
何も知らない昨日までなら、できました、と答えられた。
五秒間、飛べました。
そう言えたのに。
「……わたしは」
声が細くなる。
「自分で合わせられたのだと思っていました」
制御官は何も答えない。だからわたしは続けざるをえない。
「……でも……そうではありませんでした」
絞り出した言葉に、自分で息苦しくなる。
「制御官が……合わせられるようにしてくださっていたのですよね」
言い終えた途端、胸の奥が冷えた。
「だから、わたしは……」
言葉が出ない。
制御官は黙ったままだ。
沈黙が引き延ばされていく。
このまま白い部屋の中心に消えてしまいたい――そう思った瞬間だった。
「そうだ」
返事は短かった。
思わず顔を上げた。
「私は貴様の位相を調整した。その補助がなければ五秒間の浮上が成立しなかった可能性はある」
制御官の目は、わたしから逸れなかった。
「現時点では、切り分けられていない」
胸の奥が、もう一度冷たくなる。
やっぱり――
心臓が小さくなっていく。
わたしは一人では、飛べなかったのかもしれない。
「だが」
制御官の声が続いた。
「補助を行ったことと、動作を代行したことは別だ」
制御官が端末を操作する。
銀色と赤銅色の波形が、わたしたちの間に現れた。
「私は貴様の魔力を起動させていない。箒へ流してもいない。浮上状態を保持するための出力も、代行していない」
赤銅色の波形が、五秒間だけ緩やかに続いている。
「これが貴様自身の出力だ」
金色の光を帯びた数値が、波形の下に並んだ。
「調整が不要だったとは言わん」
一拍の空白が落ちる。
「だが、貴様が何もしていなかったことにはならない」
――一瞬で目の奥が熱くなった。
嬉しい。
心の底からそう思った。
わたしは何もしていないわけではなかった。
制御官はできたことをちゃんと言葉にしてくれた。
……けれど、何故か鼓動だけが整列しない。
首を横に振りたくなる。満たされないものが、まだある。
制御官が何をしたかは分かった。
自分が何をしたかも、少し分かった。
それでも、あの静けさが何だったのかは、まだ分からない。
「確認する。今の説明で、貴様が実行した操作は何だ」
低い声が落ちてくる。
「……魔力を起こして、箒へ流し、浮上を維持しました」
「では、未確認の事項は」
「制御官の位相調整がなくても、同じように飛べたかどうかです」
「そうだ」
演習場の白さの中に、ほんの少しだけ整理がついたものができた。
「貴様は応答していた」
制御官の声が、もう一度わたしの中に落ちた。
「合わせるな」
まっすぐな視線が、わたしを捉える。
「応答しろ」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
そうだった。
制御官は、合わせろとは言わなかった。
『私を見失うな』
初めて言われたときには、ただ制御官の声を追えばいいのだと思っていた。
それは、同じになることではなかった。
けれど、ではどうすればよいのか。
まだ、分からない。
制御官の呼吸が、静かに繰り返されている。
その間隔を、無意識に追っている自分に気がついた。
――合わせるな。
分かっている。
けれど、どこからが自分の拍なのか――それが、分からない。
制御官はゆっくりと肩を落とした。
「金曜日に再現試験を実施する」
その声はいつも以上に平坦だったけれど、痛みをこらえているように聞こえた。
「別の制御官が、可能な限り同じ手順で単一基準を提示し、必要な調整を行う」
制御官は淡々と続ける。
「私以外の基準で、貴様の飛行が成立するかを確認する」
胸の奥が冷たくなる。
「……制御官は、いらっしゃらないのですか」
「立ち会う。ただし、試験中は観測位置に退く。私からの基準提示も位相調整も行わない」
わたしは小さく頷いた。
当然だ。
そうしなければ、条件を切り分けられない。
理解していないわけではない。けれど、何かが切り離されるようで、胸の奥が落ち着かなかった。
「訓練を強化する。身体基礎訓練、拍同期訓練の時間も私との演習となる」
「分かりました」
声の奥に緊張が残る。制御官はそれを見ている。けれど指摘はない。
「本日の訓練では、単一基準のみを提示する。位相調整は必要が生じるまで行わん」
「はい」
演算円が立ち上がる。
銀色の波形が、わたしの前に現れた。
昨日までと同じ色だ。
けれど、わたしはもう知っている。
制御官の波形がそこにあることと、自分の位相が調整されていることは、同じではない。
少しだけ怖い。心細い。曖昧になった基準点が自分の正しさを揺るがしてくる。
「――制御官」
震える気持ちの中に、黒い影のようなものが忍び込んできた。
「……もし、再現できなかったら」
「結果は結果として記録する」
その返答にわたしは思わず首を横に振った。足元がぐらつく。
制御官以外の方が同じ方法を試して、それでも飛べなかったら。
それは、制御官の指導や判断まで疑われることになるのではないだろうか。
「……制御官のお立場は悪くなりませんか」
制御官の銀色の波形がかすかに揺らいだ。規則正しく動いていた指先の拍が、遅延する。
「貴様が考慮する事項ではない」
「ですが……」
「必要な検証だ」
声は揺らがなかった。
「結果を予測して、試験の意味を変えるな」
「……はい」
制御官の言葉はどこまでも正しかった。
それでも――どこか堪えるものがあるようにも思えて……
制御官の瞼が少しだけ落とされる。それだけで、どうしようもなく不安になる。
けれど再びあげられた瞳は、確かな静寂に満たされていた。
「私を見失うな」
ああ――……
結局、その言葉が聞きたかっただけなのかもしれない。
手のひらが熱くなる。抑えきれない熱がそこに集まっている。
制御官の手が操作を再開する。
銀色の波が、わたしの前で規則正しい拍を刻んでいる。
それを見ているだけで、鼓動の乱れが整っていく。
それが正しいことなのかどうか、まだ分からないまま。




