六 未報告の操作
レフが退室したあとも、ラリオーノフはしばらく動かなかった。
白い演習場には、赤銅色の波形の残像だけが薄く漂っていた。
マシュは俯いたまま箒を抱えている。
耳の裏まで赤くなっているのが、白い光の下ではっきり見えた。
「……退出しろ」
短く命じる。
それ以上でも、それ以下でもない声音を選んだつもりだった。
「はい」
マシュの返事は小さい。だが崩れてはいない。
マシュは扉の前で一度立ち止まり、振り返って一礼した。そのまま静かに出ていく。
扉が閉じた。
それに安堵した自分を、ラリオーノフは即座に切り捨てる。だが胸の奥に沈んだ濁りの重みは、変わらなかった。
端末には、先ほどの源泉跳躍と制御介入の記録が残っている。
報告は避けられない。
問題は、何を事実として切り出すかだ。
帝国標準時間、午後五時三十分。
ラリオーノフはマリーニン大佐への緊急面会を申請した。
◇
帝国標準時間、午後五時五十五分。
マリーニンの執務机には、学院全域の同期指数と結界負荷が展開されていた。
執務机の前に座るマリーニンは、椅子の背にもたれかからない。手掛にも触れず、机の上で組んだ指すら動かさない。
ラリオーノフの傍らには、ヴァイマン少尉が立っている。その顔には、いつもの柔らかな笑みすら乗っていなかった。
「開始しろ」
ラリオーノフは投影面に訓練記録を展開した。
「本日午後の個別訓練において、研究院所属のティモシェンコ主任研究員が観測を実施。フィルム記録時に顕著な異常は認められませんでしたが、帝国製記録カメラへの切り替え後、管理個体の源泉圧上昇と補助認識の不安定化を確認しました」
ヴァイマンの眉がわずかに動く。
マリーニンは反応を示さない。
「装置の異常か」
「個体の反応が先行しています。装置側の認識不安定は、その後に発生しました」
マリーニンが波形を拡大する。
「どう収束させた」
「研究員の入室以前から、本官の主周波数を単一基準として提示していました」
ラリオーノフは次の記録を開いた。
「源泉圧の上昇を確認したため、個体の応答状態に応じて調整を行いました」
銀色の波形に沿って、赤銅色の応答が緩やかに変化していた。
「この時点で、管理個体の応答位相に微調整を加えました」
ヴァイマンが顔を上げた。
マリーニンの視線が、初めて投影面から離れる。
「……位相を動かしたのか」
「はい」
「単一基準の提示とは別の操作だな」
「そのとおりです」
「いつからだ」
「本官による単一基準下の個別訓練を開始した当初からです。個体の応答状態に応じ、必要な範囲で調整してきました」
マリーニンの眉が動く。
「今回もか」
「はい。ただし、研究員の入室時には単一基準の提示のみで、位相調整は行っていません。帝国製記録カメラへの切り替え後、源泉圧の上昇を確認した時点で実施しました」
「結果は」
「源泉圧は安定。高度二十センチ、保持五秒の浮上が成立しました。記録装置の補助認識も安定しています」
マリーニンの目が細くなった。
「報告を受けていない」
「操作ログには残っています。ですが、位相調整として明示的に報告するのは今回が初めてです」
「その調整について、個体には説明したのか」
見えない銃口の重みが全身にのしかかる。
「……位相調整については、明示していません」
窓の向こう側に見える空は、鉛に押し潰された色をしていた。
「なぜだ」
「制御官による補助調整の範囲と判断しました。訓練中に個体が意識すべきなのは、提示された基準と自身の応答であり、操作の詳細ではありません」
喉の奥が刃で削れていくように痛んだ。
自分の説明は、技術的には間違っていない。
だが、それで十分だったのか。
マシュは、自分で飛んだと思っていた。
実際に魔力を起こし、維持したのは彼女自身だ。その事実に偽りはない。
しかし、彼女は知らなかった。
自分がどのような調整を受けていたのかを。
「続けろ」
ラリオーノフは次の記録を展開した。
「浮上成立後、研究員は管理個体に対し、本官の周波数を指摘したうえで、位相をずらされている旨を発言しました」
投影面に音声記録が表示される。
――それ、セルゲイの周波数だろ?
――位相、ずらされてんよ?
直後、赤銅色の波形が鋭く跳ね上がった。
「研究員の発話後、情動反応と源泉圧が急上昇。意図しない浮上が発生。本官が緊急制御介入を実施し、源泉出力を減衰させました。身体損傷および結界損傷はありません」
「暴走には至っていないな」
「はい」
「発話が誘因か」
「時系列上、その可能性が高いと判断します」
白い光が一段、強くなる。マリーニンが指を組み直した。
「単一基準については理解していた。だが、位相調整を知らされたことで跳ねた」
「はい」
「……面倒な個体だな」
ヴァイマンが投影面に半歩近づいた。
「少し異なるかもしれません」
マリーニンの視線がヴァイマンに向く。
「述べろ」
ヴァイマンの目は、その奥の光まで引き締められていた。
「単一基準で訓練されていることは理解していた。しかし、その基準の下で自分が何をしていたのかについては、別の理解を持っていた可能性があります」
ヴァイマンの指が、マシュの浮上記録と研究員の発話時刻を結んだ。
「研究員の言葉で変わったのは、制御条件ではありません。本人による成立条件の解釈です」
「自己認識への干渉か」
ヴァイマンはすぐには頷かなかった。ただ深いものを滲ませた瞳のまま、マリーニンを見つめた。
「その可能性があります。ただし、本人の感覚報告が必要です」
マリーニンは数秒だけ沈黙した。
「研究院の観測許可は維持する。ただし、次回以降、研究員の接近距離、発話内容、個体への直接質問を制限対象に加える」
「承知しました」
ラリオーノフは胸の底が抜けるのを感じた。
――これで、終わる。
外部刺激を管理し、同様の事象が起きないようにする。
軍の判断としては合理的だ。
だが――頭に幼い声が蘇る。
『世界が静かになりました』
冷たいものが全身に流れ落ちてくる。
――言う必要はない。
それでも、身体の奥に鈍い抵抗が残る。
発話を制限しても、マシュが抱いた疑問は消えない。
単一基準と位相調整。
いずれも、五秒間の浮上時にラリオーノフが与えていた条件だ。
だが、同じ手順を別の制御官が実施しても、彼女は飛べるのか。
必要なのは制御手順なのか。
それとも、自分自身なのか。
その切り分けは、まだ済んでいない。
そして、それを確かめるには――
「補足させてください」
マリーニンが視線を上げた。
「なんだ」
「今回の事象を研究員の発話のみに帰着させるべきではないと考えます」
拳を握りしめる。
「理由は」
「管理個体の飛行は、本官の単一基準下で成立しています。しかし、同等の条件を別の制御官が提示した場合の再現性は、確認されていません」
口にした瞬間、自分の身体の中で何かが強張った。
この先を言えば、自分の運用も検証対象になる。
「貴様の基準下では成立する。それは事実だ」
「はい」
「しかし、位相調整まで含めて、他者が同等の条件を成立させられるかは未確認ということか」
「そのとおりです」
沈黙が落ちる。それは処刑前の一瞬のように思えた。
マリーニンが投影面に視線を戻した。
「それを今、持ち出すのか」
「成立条件が未特定のままでは、長期運用上の危険を排除できません」
嘘は言っていない。
だが、全ても言っていない。
世界応答仮説。静的均衡。
その可能性を、この場で口にすることはできなかった。
ラリオーノフは姿勢を正した。
「提案があります」
「言え」
「本官の単一基準運用を継続したうえで、代替制御官による再現試験を実施すべきです」
ヴァイマンがこちらを向いた。
「目的は制御官の交代ではありません。基準提示と位相調整の手順を可能な限り統一し、制御官を変更した場合にも管理個体の飛行が成立するかを検証します」
全身から体温が剥がれ落ちていく。
「条件が一致しなければ」
「差異を記録し、結果の評価に反映します。安全上、強制的な同期は行いません」
マリーニンが何かを考えるように黙る。
「条件設定による成立なのか、特定基準に固有の応答なのか。現時点では判断できません」
投影面には、五秒間の浮上記録が残っている。
銀色と赤銅色。
二つの波形は重なりながら、同じ形にはなっていなかった。
「再現試験が必要です」
長い沈黙が落ちた。
「うまく言い換えたな、大尉」
マリーニンの声は均されていた。そこに温度はなかった。
「いいだろう。再現試験を許可する」
マリーニンがヴァイマンへ視線を向ける。
「担当はヴァイマン少尉。現行の単一基準運用は継続。ただし、試験結果に応じて再評価する」
「承知しました」
ヴァイマンが敬礼した。
「研究院観測は条件付きで継続許可する。加えて、今後は制御官の発話もすべて記録対象とする」
マリーニンの視線がラリオーノフに戻った。
銃口の重みが再び眉間に押しつけられる。
「何を補助したか明示し、本人がどう理解したか確認せよ」
その言葉は、ラリオーノフの中で確かな形を持って固まった。
「……承知しました」
「以上だ」
敬礼をする。
その動作だけは乱れなかった。
◇
執務室を出ると、廊下の減衰層が足音を吸い込んだ。
「大尉」
ヴァイマンが口を開く。
「次は、何をしていたのか、対象にきちんと伝える必要がありますね」
その声にいつもの軽やかさはなかった。
「分かっている」
「ええ」
ヴァイマンはそれ以上追及しなかった。
ラリオーノフは歩みを緩めなかった。
再現試験は行われる。
必要な検証だ。
その条件には、自分自身も含まれている。




