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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第三章
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五 誰の静けさ

「……へーえ」

 博士の声からはさっきまでの軽さが抜けていた。

「静かになった、ねぇ」

 博士の視線が、わたしに向けられる。眼鏡の奥の目がひどく熱っぽかった。

「そりゃあ、どういう感覚だい?」

 博士が一歩こちらへ近づく。

 わたしは思わず後退る。

 大きな人だ。

 制御官と同じくらい背が高いのに、輪郭がまるで違う。

 制御官が一本の軸なら、博士は不均等な塊だ。

「それ、セルゲイの周波数だろ?」

 太い指が、わたしを囲む銀色の演算円を指す。

 なぜか心の深いところを指差された気がして、わたしは箒を胸の前で握り直す。

「レフ」

 制御官の声が短く飛んでくる。けれど博士は気にしない。銀色と赤銅色の波形が被さる瞬間を見ている。

「へーえ」

 博士が肩越しに振り返る。

「お前、こういうのできるんだ」

 こういうの。

 その曖昧な言葉が、胸を真っ直ぐに突き刺してくる。

 制御官の眉が少し動いた。

 それだけで博士の言葉が大きな意味を持っていると分かる。

 どういう意味ですか――早く聞かないといけない。

 唾を飲み込む。

 ――聞けない。


 許可が、出ていない。


「お嬢ちゃん」

 博士がこちらに向き直る。薄笑いのようにみえて、何かを見つけたような笑顔がわたしを見下ろしてくる。


「いま『静か』か?」


 答えようとして、息が止まった。

 静かじゃない。

 心が尖ってる。

 髪が歪んで、毛先が跳ねはじめる。さっきまで順番のついていた音が、また近づいてきている。

 白い壁の無感情な冷たさ。

 カメラの残光。

 博士の視線。

 その全てがまるで間違いだらけの数式のように押し寄せてくる。

「お嬢ちゃん」

 博士の瞬きをしない目が、わたしを囲む銀色の演算円をもう一度見る。


「位相、ずらされてんよ?」


 一瞬、世界が無音になった。

 静かになったのではない。意味も価値もない空白で、胸が塗り潰される。

「レフ」

 制御官の声がする。

「余計なことを言うな」

 余計なこと――わたしは箒を身体の前に引き寄せる。


 位相がずらされている?


 わたしの?

 誰に?


 目が乾く。

 理解が追いつくより早く、胸の奥で何かがひび割れた。

 ――違う。

 その一言だけが、意味を持たない熱の塊みたいに喉をせり上がってくる。

 でも、何が違うのかを言葉にできない。


 制御官といると世界が静かになる。

 順番がつく。遠いものと近いものが分かれる。

 それは本当だ。

 

 制御官が単一基準を示してくれたから、わたしは自分の拍を見失わずに済んだ。

 自分で魔力を起こし、箒へ流した。


 五秒間、飛んだ。

 だから、できたと思った。


 でも――足元から冷えついていく。


 ――ずらされていた?


 博士を見上げる。

 眼鏡の奥の目は、わたしではなく、わたしの周囲にある波形を見ていた。


 ずらされていた――なら、自分で飛んだと思っていた五秒間は何だったのだろう。


 あの静けさは――


 胸の奥にあった足場が、ふっと消える。


「ちが——」

 声が出かけた瞬間、手のひらの熱が跳ねた。

 赤銅色の波形が鋭く尖る。

 銀色の演算円の縁が、細く震えた。

 抱えた箒が持ち上がる。

 ほんのわずか、ではない。

 足裏が床から離れ、重心が遅れて追いつこうとする。胸の中の熱が、箒の柄を通って一気に前へ抜ける。

「……っ!」

 視界が白く流れる。演習場の壁の線が斜めにずれた。

 息が詰まる。

 肩と背中のあいだで行き場を失った熱が、暴れる。

 髪が逆立つ。耳元で火花が裂けるような音がする。

 博士がカメラを構える。

 補助灯が光った。

 識別窓の光が不規則に瞬き、認識枠がわたしの輪郭から外れた。

 カメラの焦点音が高く、短く震える。

「やめて!!」

 思わず叫んだ。

 博士の手が止まった。

 補助灯がわたしから逸れる。

「お嬢ちゃ――」

「撮影を止めろ」

 制御官の声が落ちてきた。

 低い。

 けれど今までとは違う。

「個体」

 胸が潰れる。息苦しい。

「止まれ」

 その一言で、身体の奥を強く掴まれる。

 世界が静かになるのとは違う。

 逃げかけた何かを、外側から押し潰される。

 源泉の熱が、胸の内側へ押し込められた。箒がぎくりと震える。

 反発したい。

 けれどそれより先に身体が従う。強く制される感覚が、容赦なく身体の内側に入ってくる。

「見るな」

 視線が博士に集中していたことに、その一言で初めて気づく。

 首の筋が反射で硬くなり、視界が正面に戻される。

「切れ」

 胸の奥で、熱がもう一度跳ねる。

 けれど今度は広がりきる前に、その縁だけを薄く押さえられた。

 息が乱れる。

 浅い。速い。喉が焼ける。

「呼吸」

 今度は、少しだけ低さが戻る。

 強い。けれど崩れない。

 吸う。

 止める。

 吐く。

 吐いた息がうまく続かない。

 もう一度。

 赤銅色の波形が細く震えながら、少しずつ角を失っていく。

 抱えた箒の先端が右へ流れかける。その軌道を、制御官の銀色の波が最小限に押し戻す。

 それで止まった。


 ――止められた。


 足裏に、床の硬さが戻ってくる。

 白い演習場に沈黙が落ちた。

 博士がカメラを下ろした。

 もうシャッターを切る気配はない。

 眼鏡の奥の目が、わたしと、周囲に残った波形とを交互に見ていた。

 箒を握る指先が冷たい。

 顔だけが熱い。

 胸の奥はまだ遅れて脈打っている。

「……申し訳、ありません」

 声が掠れた。

 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。

 博士にだろうか。

 制御官にだろうか。

 それとも、感情で叫んで、乱れて、止められた自分自身に対してだろうか。

 顔を上げられない。

「レフ」

 制御官の声が落ちる。

 短く、硬い。

 名前を呼んだだけなのに、これ以上何もさせない音だった。

 博士が大きく息を吐く。

「……悪い」

 軽くはなかった。

 けれど、その言葉が誰に向けられたものかは曖昧なままだった。

 機材を肩へ戻す音がする。帝国製カメラの補助灯が消えた。

「今日はここまでにしとく。データは持ち帰る。今のも含めて見る」  

 制御官は眉一つ動かさず、博士の背中を見る。

「そうしろ」

 それだけだった。

 責めるでもなく、追うでもなく、ただここで終わらせる声だった。

 博士の足音が遠ざかる。

 扉の重い開閉音が鳴り、すぐに白い壁へ吸われた。

 静かだ。

 でも、さっきの静けさではない。

 整えられた静けさ。

 わたしはまだ俯いている。

 顔が熱い。耳の裏も熱い。

 叫んでしまった。源泉を跳ね上げた。そして――止められた。

「……失礼いたしました」

 今度こそ、はっきり言おうとした。

 けれど最後の音がまた少しだけ揺れた。

 返事はすぐには来なかった。

 白い演習場の空気が、薄く張ったまま動かない。

 やがて、制御官の声が落ちてくる。

「今日は終了だ」

 それだけだった。

 責める言葉も、分析も、問いの続きもない。

 それが余計に苦しい。

 頷く。

 顔は上げられないまま、箒の柄を抱えるように持ち直す。

 途中で切れたままになってしまった制御官の問いが、胸の奥にそのまま残っていた。


 ——世界が静かになるとは、どういう意味だ。


 聞かれていたのに、答えられなかった。

 もう、用意していた言葉を同じ意味では使えなかった。

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