↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第三章
PR
25/39

四 切れないシャッター

 箒にまたがる。

 その瞬間に切られたシャッター音は、思ったよりも乾いていた。

 帝国製の端末が立てる記録音よりも軽く、けれど曖昧ではない。

 一瞬を切り取られているのが分かる。

 博士はときどき位置を変え、たまに膝を折り、また立ち上がる。動きは雑に見えるのに、レンズの向く先だけはぶれない。

 写真は、あまり好きではない。

 撮られる瞬間に身体が固くなるし、正しく立とうとしたぶんだけ余計に不自然になる。集合写真でも、だいたい自分だけ少し遅れているような顔で写る。

 銀色の演算円から自分の波形が少し外れた。慌てて呼吸を整え直す。

 博士がカメラを下ろした。

「……へえ」

 独り言みたいな声だ。

「お嬢ちゃん、整ってんじゃん」

 それが立ち姿のことなのか、周囲の波形のことなのか分からない。

 整っている。

 けれど、その言葉が胸の中を小さく打つ。

 いまは制御官の基準があるから安定している。


 それでも、魔力を起こし、保っているのは自分だ。

 ――わたしは箒を握る手の位置を少し変える。


 博士がフィルムカメラを肩へ戻し、機材鞄に手を入れる。

 取り出したのは、学院や管理区で見慣れた帝国製の記録カメラだ。薄く平たい本体に、補助灯と識別窓。レンズの縁には位相補正用の細い環が埋め込まれている。

「こっち見て」

 博士の声は軽いままだ。 

 構えられた瞬間に補助灯が点灯した。

 識別窓に文字列が走る。輪郭認識。露光補正。標準参照。位相補助。

 視界の端で、光がちらつく。

 胸がひやりと冷える。

 赤銅色の波形がスキップする。小さい振動が繰り返され始めた。

 さっきまでは、ちゃんと順番のついていた音が、もう一度ばらけていく。

 耳の裏が熱くなる。手のひらに力が入る。振動が走り、箒が震えた。

「源泉圧上昇」

 制御官の低い声が、胸の深いところに落ちてきた。その声だけは、他と混ざらなかった。世界がまた少しだけ整列する。

 シャッターが切れない。

 切れかけて、止まる。

 識別窓の光が細かく点滅し、輪郭補正の枠が体の線をなぞってくる。焦点を探る駆動音が小さく震え続けていた。

「ん?」

 博士が片目をファインダーから離す。

 もう一度構える。

 補助光がこちらの輪郭をなぞろうとして、また迷う。まるで、自分の形だけがうまく決めきられていないみたいに。

 喉が鳴る。

 読まれようとしている。認識されようとしている。なのに、噛み合わない。

 そのずれが、そのまま胸の内側へ返ってくる。

 呼吸が浅くなる。肩が上がる。箒へ力を流す拍まで見失う。

「余計なものを拾うな」

 低い声がざわめきを横切った。

 制御官の方を見るより先に、その声だけが耳のすぐ内側へ入ってくる。

「今は私の声だけを追え」

 集中しろ、ではない。

 もっと狭く、もっと厳しい命令だ。

「……はい」

 答えたつもりの声が、少し揺れた。

「高度二十センチ。保持五秒。合図まで浮上するな」

「はい」

 博士の視線も、帝国製カメラの補助光も、まだこちらを捉えようとしている。気にしないようにしたいのに、視界の端でちらつく。

「見るな」

 短い一語が飛んでくる。反射的に目を閉じる。

「呼吸」

 吸って、止めて、吐く。

 息が胸の奥まで届かない。

 もう一度繰り返す。

 肩がゆっくり下がった。

 博士も、カメラも、演習場も、消えたわけではない。

 けれど、制御官の声だけは崩れない。

 銀色の周波数が、変わらずそこにある。


 胸の奥で引っかかっていた拍が、ほんのわずかに動いた。


 合わせようとしなくていい。

 見失わなければいい。


 耳の裏に貼りついていたざわめきが、少しずつ遠のいていく。

 手のひらの熱が落ち着いた。

 箒へ、ゆっくりと力を流す。

 銀色の波を目印に、自分の内側の拍へ耳を澄ませる。

 重心が定まる。

 指先から伝わっていた箒の柄の硬さが、身体の内側へ続いていくような感覚がした。


 箒が、自分の一部になった。


「今」

 その合図で体を緩めた。

 熱が走る。けれど散らない。

 足が床から離れる。

 目をゆっくり開く。

 同時に、カメラの駆動音が変わった。

 さっきまで細かく迷っていた焦点音が、すっと一つにまとまる。識別窓の点滅が止まり、補正枠が初めて安定した線でこちらの輪郭をなぞった。

 シャッターが切られる。

 今度は、止まらなかった。

 博士は何も言わない。

 その沈黙が、さっきまでの軽口よりずっと大きく聞こえた。

 もう一枚。

 また一枚。

 帝国製カメラは今度は迷わない。赤銅色の波はまだときどき小さくスキップする。けれど銀色の波は演算円の内側で崩れずに保たれていた。


 遠いものと近いものが、またきちんと分かれる。

 胸の中で言葉が、ちゃんと並ぶ。


 五秒が経過した。静かに下降する。

 足が床につく。

 一度だけ瞬きをした。

「……静かになりました」

 そう言ったあとで、ほんの少しだけ頬の力が抜けていることに気づく。

 博士がゆっくりとカメラを下ろした。

 ファインダーから現れた目は、もう笑っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。