四 切れないシャッター
箒にまたがる。
その瞬間に切られたシャッター音は、思ったよりも乾いていた。
帝国製の端末が立てる記録音よりも軽く、けれど曖昧ではない。
一瞬を切り取られているのが分かる。
博士はときどき位置を変え、たまに膝を折り、また立ち上がる。動きは雑に見えるのに、レンズの向く先だけはぶれない。
写真は、あまり好きではない。
撮られる瞬間に身体が固くなるし、正しく立とうとしたぶんだけ余計に不自然になる。集合写真でも、だいたい自分だけ少し遅れているような顔で写る。
銀色の演算円から自分の波形が少し外れた。慌てて呼吸を整え直す。
博士がカメラを下ろした。
「……へえ」
独り言みたいな声だ。
「お嬢ちゃん、整ってんじゃん」
それが立ち姿のことなのか、周囲の波形のことなのか分からない。
整っている。
けれど、その言葉が胸の中を小さく打つ。
いまは制御官の基準があるから安定している。
それでも、魔力を起こし、保っているのは自分だ。
――わたしは箒を握る手の位置を少し変える。
博士がフィルムカメラを肩へ戻し、機材鞄に手を入れる。
取り出したのは、学院や管理区で見慣れた帝国製の記録カメラだ。薄く平たい本体に、補助灯と識別窓。レンズの縁には位相補正用の細い環が埋め込まれている。
「こっち見て」
博士の声は軽いままだ。
構えられた瞬間に補助灯が点灯した。
識別窓に文字列が走る。輪郭認識。露光補正。標準参照。位相補助。
視界の端で、光がちらつく。
胸がひやりと冷える。
赤銅色の波形がスキップする。小さい振動が繰り返され始めた。
さっきまでは、ちゃんと順番のついていた音が、もう一度ばらけていく。
耳の裏が熱くなる。手のひらに力が入る。振動が走り、箒が震えた。
「源泉圧上昇」
制御官の低い声が、胸の深いところに落ちてきた。その声だけは、他と混ざらなかった。世界がまた少しだけ整列する。
シャッターが切れない。
切れかけて、止まる。
識別窓の光が細かく点滅し、輪郭補正の枠が体の線をなぞってくる。焦点を探る駆動音が小さく震え続けていた。
「ん?」
博士が片目をファインダーから離す。
もう一度構える。
補助光がこちらの輪郭をなぞろうとして、また迷う。まるで、自分の形だけがうまく決めきられていないみたいに。
喉が鳴る。
読まれようとしている。認識されようとしている。なのに、噛み合わない。
そのずれが、そのまま胸の内側へ返ってくる。
呼吸が浅くなる。肩が上がる。箒へ力を流す拍まで見失う。
「余計なものを拾うな」
低い声がざわめきを横切った。
制御官の方を見るより先に、その声だけが耳のすぐ内側へ入ってくる。
「今は私の声だけを追え」
集中しろ、ではない。
もっと狭く、もっと厳しい命令だ。
「……はい」
答えたつもりの声が、少し揺れた。
「高度二十センチ。保持五秒。合図まで浮上するな」
「はい」
博士の視線も、帝国製カメラの補助光も、まだこちらを捉えようとしている。気にしないようにしたいのに、視界の端でちらつく。
「見るな」
短い一語が飛んでくる。反射的に目を閉じる。
「呼吸」
吸って、止めて、吐く。
息が胸の奥まで届かない。
もう一度繰り返す。
肩がゆっくり下がった。
博士も、カメラも、演習場も、消えたわけではない。
けれど、制御官の声だけは崩れない。
銀色の周波数が、変わらずそこにある。
胸の奥で引っかかっていた拍が、ほんのわずかに動いた。
合わせようとしなくていい。
見失わなければいい。
耳の裏に貼りついていたざわめきが、少しずつ遠のいていく。
手のひらの熱が落ち着いた。
箒へ、ゆっくりと力を流す。
銀色の波を目印に、自分の内側の拍へ耳を澄ませる。
重心が定まる。
指先から伝わっていた箒の柄の硬さが、身体の内側へ続いていくような感覚がした。
箒が、自分の一部になった。
「今」
その合図で体を緩めた。
熱が走る。けれど散らない。
足が床から離れる。
目をゆっくり開く。
同時に、カメラの駆動音が変わった。
さっきまで細かく迷っていた焦点音が、すっと一つにまとまる。識別窓の点滅が止まり、補正枠が初めて安定した線でこちらの輪郭をなぞった。
シャッターが切られる。
今度は、止まらなかった。
博士は何も言わない。
その沈黙が、さっきまでの軽口よりずっと大きく聞こえた。
もう一枚。
また一枚。
帝国製カメラは今度は迷わない。赤銅色の波はまだときどき小さくスキップする。けれど銀色の波は演算円の内側で崩れずに保たれていた。
遠いものと近いものが、またきちんと分かれる。
胸の中で言葉が、ちゃんと並ぶ。
五秒が経過した。静かに下降する。
足が床につく。
一度だけ瞬きをした。
「……静かになりました」
そう言ったあとで、ほんの少しだけ頬の力が抜けていることに気づく。
博士がゆっくりとカメラを下ろした。
ファインダーから現れた目は、もう笑っていなかった。




