三 闖入者
わたしの心の中に一滴だけ、まだ名前も知らない感情が落ちた。
目の前の制御官の表情は変わらない。ただ問いだけがそこにある。
まさか質問されるなんて思わなかった。
制御官にとって、わたしは管理対象だ。だからこれは個人的な興味ではない。制御に必要なことなのだろう。
答えなければならない。
でも、どう言えばいいのか分からない。
音が消えるわけではない。風が止むわけでもない。ただ、順番がつく。棘だったものが遠のく。
胸の中で言葉がほどけかける。
「え……と」
口を開いた瞬間、扉の重い開閉音が響いた。
肩が反射的に揺れる。
制御官の周波数は動かない。
振り返ると、知らない男の人が立っていた。
制御官のような整った軍人や、学院の教官とはまるで違う。黒縁眼鏡、無精髭、寝癖のついた黒髪。くたびれたスウェットの上には、作業着が雑に羽織られている。
少なくとも人前に出る姿ではない。
男の人は大きな黒い機材鞄を片手に持っている。肩には見慣れない黒い機械が提げられていた。丸いガラスの目をつけたそれは、魔導端末とは全然違う。
「お、いたいた」
男の人の声は軽かった。場の温度をまるで読んでいない。
「セルゲイ。ちょっと生データもらいにきた」
思わず瞬きをする。
セルゲイ。
制御官を、そう呼ぶ人が来た。
制御官の顔つきが、目に見えない厚さを増す。怒っているわけではない。だが歓迎していないことだけは、分かる。
「連絡は受けていない」
「今送った」
男の人が顎で端末を示す。 制御官の前に通信画面が展開した。
制御官の顔つきは変わらない。けれど纏う空気が明らかにひきつった。
「学院にも軍にも話は通してある。問題ねぇ」
男の人はそう言って肩をすくめた。
「預かってる人形、分析してんだけどな。記録だけじゃ足りねぇんだ。持ち主本人の生の記録が欲しい」
胸がひとつ跳ねた。
制御官にお預けしたあのお人形を、この人が解析してくれている。
男の人がこちらを振り返る。片頬だけを歪ませる、癖のある笑顔が浮かんだ。
男の人の両手が広がる。
「お嬢ちゃん。あんた、すっげえいいモン持ってたな!?」
肩が強張った。
いいモン――あのお人形が?
口の中が一瞬で乾く。何か普通でないものが見つかったのだろうか。
「あの――」
「レフ」
制御官の声が割り込んだ。空気が痺れる。男の人の手が止まる。
「悪い悪い」
男の人の両手が肩の高さまで上がる。けれど、笑った目の奥は、少しも緩まなかった。
いまは、まだ。
そう言われたような気がした。
「セルゲイ」
男の人が制御官へ向き直った。
「立位でも反応中でもいい。本人の記録、取らせろ。人形の解析結果と比較してぇ」
肩から提げた機械を軽く持ち上げる。黒い金属の塊は、演習場の白い光を鈍く吸っている。
「趣味じゃないからな、一応」
また片頬だけを歪ませる。
「分析用」
制御官は数秒だけ沈黙した。端末上で何かを確認している。
やがて、感情の削がれた声で言う。
「……許可する。ただし私の監督下に限る」
男の人が小さく拳を握った。
「個体」
いきなり制御官に呼ばれた。崩れかけていた姿勢をただす。
「こいつは帝国魔導理学研究院、波形解析班主任研究員」
男の人がこちらに向かって片手をあげる。
「レフ・ミハイロヴィチ・ティモシェンコだ」
その名前を聞いた瞬間、息が止まった。
ティモシェンコ。
頭の中で論文の表題と数式が跳ね上がる。
北方位相境界論、標準外応答体における観測可能性、第三章、補助位相固定系――
「ティモシェンコ博士ですか!?」
思わず声が前に飛んだ。
男の人――ティモシェンコ博士の腫れぼったい目が、ほんの少しだけ開いた。
「お会いできて光栄です!」
勢いのまま一歩前へ出かけて、慌てて踏みとどまる。
「博士論文、拝読しました!」
博士の眉が持ち上がる。
「……え、読んだの」
「はい!」
胸の奥の苦しさが、一瞬だけ別の熱に押し流される。
「第三章がとても興味深かったです!」
「第三章?」
「はい! わたし、自分の特性について知りたくて、文献を遡っていたんです。地下書庫で博士の論文を見つけて、観測可能性と位相固定に関する節が、とても――」
そこまで言ってようやく、自分が何を口走っているのかに気づく。
初対面の大人相手に、しかも制御官の目の前で、興奮のまま喋りすぎている。
顔に血が上る。けれどもう止まらない。
「わたしも博士みたいに最短で博士号を取りたいです!」
白い演習場に、その言葉だけが妙にまっすぐ響いて、すぐに吸われた。
数秒、沈黙が続く。
最初に動いたのは博士だった。
片手で口元を押さえ、眼鏡の奥を細める。呆れたのか、面白がったのか、一瞬では分からない。だが次に漏れた声は、確かに笑いを含んでいた。
「うっわ、すげえな」
身体が半分だけ制御官の方へ向く。
「セルゲイ、お前、聞いた?」
「聞こえている」
「第三章だって」
「聞こえている」
制御官の声は冷たい。
だがほんのわずかに空気の質が変わったのを感じる。さっきまでの鋭さとは違う、別種の緊張だ。
博士がこちらへ向き直る。
さっきまでの軽さは残っている。けれど目は別の仕事を始めているようだった。
「へえ。第三章」
首を傾ける。
「そこ、いちばん人が逃げるとこなんだけど」
「そうなんですか?」
「そうなの。だいたい序論で満足するか、結論だけ拾って分かった顔するか、どっちか」
博士がにやりと笑った。
「あそこまで読む子、あんまりいない」
その言葉に口を開きかけて、閉じる。
嬉しい。
けれど、同時にひどく恥ずかしい。
「……失礼いたしました」
熱の残る顔のまま、なんとか頭を下げる。
「少々取り乱しました」
「いや、いいぜ」
博士はあっさり言う。
「そういうの嫌いじゃねぇし」
そう言われると余計に恥ずかしい。耳まで熱くなる。
「でも博士号最短でとるのはおすすめしねぇ」
博士がまたにやりと笑う。
「人生短くなる」
その言葉はジョークのようでいて、きっと本音だった。
「短くなるんですか」
少しだけ考える。
きっと、大変なのだろう。
けれど、論文を読んでいたときの胸の高鳴りを思い出す。分からない数式を何度も辿り直して、ようやく意味が繋がったときの、あの熱――心から叫びたくなる。
「でも」
顔をあげる。
「それでもいいです」
自分でも気がつかないうちに微笑んでいた。
「知りたいので」
その言葉は、胸の内側から出てきたものだった。
博士が長く息を吐いた。息の仕方を思い出したような動きだった。
「……そうかい」
そのわずかに伏せた顔に浮かぶのは、どこか力が抜けたような不確かな笑顔だった。
けれど次の瞬間、その視線がこちらに戻ってくる。
さっきまであんなに喋っていたのに、急に黙り込んだ。
「で、セルゲイ」
博士が制御官に顔を向ける。
「いまの、それ。記録、取れてる?」
「当然だ」
「補正は?」
「静穏化処置下だ」
「へえ」
短い返事だった。
博士はわたしの手のひらの光と、制御官の投影面を見比べる。
「じゃ、別の方法でも残しとくか」
肩から黒い機械を下ろす。機体の突き出た部分が白い光を鈍く弾いた。
「博士」
思いきって尋ねる。
「それは、なんですか?」
博士がまた不揃いな笑顔をみせた。
「ジパングのアキバで買ったフィルムカメラ」
得意げに黒い機体を持ち上げる。
「珍しいだろ」
そう言いながら博士が機体を構える。分厚くて重そうな機体は少し威圧感がある。
写真を撮る機械だということは分かった。けれど、こんなに大きなものは見たことがない。
少し身震いする。
「……魔力も記録できるのですか?」
「できねぇよ」
博士が笑いながら即答する。
「だからいいんだ」
思わず瞬きをした。
博士は機体の側面を指で叩く。
「こいつには魔導補正がねぇ。見たまんまを光で焼きつけるだけだ」
「では……魔導記録と比較するのですか?」
「そういうこと」
博士が親指を立てる。
「分かってんじゃん」
胸が、少し熱くなった。
帝国の記録装置は、対象の魔力署名を参照する。けれどこの機械は、そんなことをしない。
ならば、そこに違いが生じるかもしれない。
「人形だけ見てても限界あるんだわ」
博士がカメラを構える。
「できれば、お嬢ちゃん単独と、セルゲイ込みのやつ」
制御官の眉が一瞬動く。
「必要性を述べろ」
「魔導記録とフィルムの比較。本人の反応と、お前との位置関係も残したい」
博士はすらすらと言う。
「それに、直接補正してねぇ今の状態が欲しい。これまでの記録には、補正で整った波形も混じってるからな」
制御官は何も答えない。
「帝国製の記録カメラも持ってきたぜ。両方で撮る」
博士が機材鞄を叩く。
「お前が悪いとは言ってねぇよ、セルゲイ」
「言っているように聞こえるが」
「被害妄想」
制御官の眉間に皺が寄る。
思わず二人を見比べる。
博士は薄笑いを浮かべたままだ。
この人は、制御官に遠慮しない。
それどころか、制御官も博士にはいつもより多く言葉を返している。
「……訓練を妨げるな」
制御官の声に、初めて溜息が混じった気がした。
「記録は必要な範囲に限る」
「はいはい」
博士の返事は、少し不安になるくらい軽かった。
「お嬢ちゃん。写真、撮っていいか?」
突然尋ねられて、少し驚いた。
慌てて制御官を見る。
制御官は何も言わない。頷きもしない。
博士は、こちらの返事を待っている。
「はい」
背筋を伸ばす。
「研究のお役に立てるのでしたら、頑張ります!」
ぎゅっと拳を握りしめて博士を見上げた。
「そりゃ助かる」
巨大なレンズが、こちらを向いた。
少し緊張する。
身体の中に隠しているものを全て、容赦なく暴いてきそうな質量だ。
――お人形。
不意に思い出す。
そうだ。まだ聞いていなかった。
博士は、あのお人形を解析してくれている。
すごくいいものだと言った。
けれど、それがどういう意味なのかまだ聞いていない。
今すぐ、聞きたい。
けれど制御官の視線を感じて、口を閉じた。
さっき、あの人は話を止めた。
だから、きっと何か理由がある。
唇を結ぶ。
博士が片目を細めた。
「そんな固くなんなよ。別に取って食いやしねぇから」
「は、はい」
慌てて肩の力を抜く。
制御官の方から、短い息が聞こえた気がした。
博士はもう笑っていなかった。
眼鏡の奥から、まっすぐにこちらを見ている。
その目が何を探しているのか、わたしには分からない。
けれど、不快ではなかった。
小さく息を吸う。
世界が、少しだけまたうるさくなった気がした。
でも、悪くない。
少しだけ頬が緩む。
シャッターが切られた。
乾いた音が、白い演習場に響く。
一度。
また一度。
赤銅色の波はときどきスキップする。
けれど銀色の波は、演算円の内側で乱れずに保たれていた。




