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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第三章
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二 私を見失うな。

 死にたくはない。

 だけど死んでしまいたいときがある。

 第三屋内演習場へ向かう地下道を急ぐ。気温が地上より二度ほど低いから肌寒い。壁も床も真っ白で、継ぎ目すら見当たらない。

 足音はすぐに吸収されて反響も残らない。ずっと同じ場所を走っているような気持ちになる。

 熱も音もない白い道が、延々と続いている。

 生きた人間のための通路というより、何かを静かに保存しておくための箱の中を走っているようだった。

 マシュ――自分の名前を心の中で確かめる。そうしないと、この白さの中に、自分まで溶けてしまいそうだった。

 これが標準なのだろうか。

 何も考えず、何も問わず、ただ均されていく。そうすれば……楽になれるのだろうか。

 箒を握る手に力を込める。

 初期値には戻らない。

 そう思えば体の中に小さな熱が生まれた。


 分厚い扉を全身を使って押す。耳障りなくらい重い音が響いて、すぐに消えた。

 帝国標準時間、午後四時二十五分。

 予定よりも五分早い。けれど演習場の前方には既に制御官がいる。

 その姿を見た瞬間、胸が詰まる。

 苦しみよりも先に痛みがくる。奥歯を噛み締め、お腹に力を入れて、込み上げてくる気持ちをすべて内側に折りたたむ。

「よろしくお願いします!」

 制御官を真っ直ぐに見上げて、しっかりと挨拶をする。

 制御官が端末から目を離し、少しだけ頷いた。いつも通りの仕草と表情だ。感情すら極限まで減衰させた硬質な顔つきは、人よりも自動人形に近い。

 でも――その無感情な瞳を下から見つめる。

 怖くはない。

 一度も、怖いと思ったことがない。

 胸は確かに痛む。でもそれは、今日の第一課程で無様な姿を見せてしまったからだ。

 拍を乱し、集団に同期できないでいる自分をこの人はどう捉えたのだろう。

 制御官は投影面を展開しない。今日にかぎって、お互いの間に何の情報も浮かんでいない。

 だから沈黙が痛い。

「第一課程の演習を確認した」

 人間味のない低い声が胸に突き刺さってくる。その抑制された感情に安心している自分が悔しい。

「記録も精査済み。訓練計画を変更した」

 ポケットの中の端末が震える。この数時間で、制御官はわたしの失敗を分析していたらしい。

「箒を置け。中央に立て」

「はい」

 命令に従う。せっかく浮遊までできたのに、また振り出しに戻された気がする。

 足を揃え、背筋を伸ばし、手を下ろす。午前の身体基礎と同じように姿勢を整えると、かえって喉が渇いた。

 あの白線の上で、自分だけが半拍ずつ遅れていた感覚が、まだ皮膚の下に残っている。

「脈が早い。呼吸が浅い。肩が上がっている」

 端末を見ずに言い当てられる。全部見透かされている。

「午前の訓練について確認する。貴様の身体基礎評価は最低。集団と同期できず、拍を乱す」

 制御官の言葉は容赦なく皮膚を裏返してくる。だからその奥に押し込めた自分の感情に、また向き合わなくてはならなくなる。

「音楽基礎でも継続して評価を落としている」

「……はい」

 なんでここで音楽課程が出てくるのか、分からない。だから余計に足元が覚束なくなっていく。

「リコーダー」

「苦手です」

「ハーモニカ」

「……苦手です」

「歌唱」  

 胸が殴られたように痛い。顔に熱が集まってくる。

「…………苦手、です」

 制御官は頷くだけだ。

 慰めがない。曖昧な気づかいもない。あるのは確認だけだ。だから逃げ場がない。

「三拍、手を打て」

「はい」

 制御官が指を動かす。空中に小さな銀色の光が三つ灯った。

 一定の間隔で、一つずつ明滅する。

 それに合わせて両手を打つ。

 一打目は合った。二打目も大丈夫。

 三打目で、手のひらが遅れた。

「四拍」

 銀色の光が四つに増える。

 今度は二打目からずれた。

「もう一度」

「はい」

 慎重に、と考えた瞬間に拍が壊れる。どこで打てば正しいのか分からない。

 いつもそうだ。

 胸の中にある熱と、外からの刺激がうまく重ならない。

「止め」

 短く制された。両手を下ろす。指先が冷えていた。制御官の顔つきは変わらない。

「足踏み」

「はい」

 右、左、右、左。最初の二歩は合う。三歩目で迷い、四歩目で修正し、五歩目でまたずれる。

 午前と同じだ。分かるのに直せない。

「止め」

 止める足もまたずれた。

 恥ずかしいとか、悔しいとか、そんな言葉ではもう追いつかない。

 このちぐはぐな身体と心が、どうしようもなく恨めしい。

「貴様は拍を数えると遅れる」

 平坦な声が事実だけを置く。

「歌え」

 短い命令に、一拍処理が遅れた。

「音階を取れ。単音から始めろ」

 やめてほしいと思った。

 音楽基礎が苦手なことなど、自分が一番よく知っている。

 音は聞こえる。

 違いも分かる。

 なのに喉や指へ移した途端、正しさがどこかへ逃げてしまう。

 歌うのは、嫌だ。

 制御官は急かしてはこない。こちらの返事を、ただ待っている。

 だからこそ、分かる。

 この人が歌えというのなら、そこには確かな理由がある。

 それでも――お腹に力を込める。

 ――わたしは、わたしのために、歌う。

 ゆっくり息を吸う。

 胸が引き攣った。

 一番簡単な音階を思い浮かべる。教会や初等部で何度も聞かされた練習音型。

「……ぁ」

 一音目で、駄目だと分かった。狙った高さより少し低い。しかも息の入りが浅く、音の頭が震えている。

 そのまま二音目へ上がろうとして、今度は上がりすぎた。三音目で着地を誤り、四音目では拍まで乱れる。  

 自分の声なのに、自分の身体から出ている感じがしない。喉が勝手に別の高さへ滑っていく。

 もうやめたい。せめて二音目で止めてほしかった。

 なのに制御官は止めない。

 結局、最後まで歌いきってしまった。

 口を閉じた瞬間、耳の奥が熱くなる。自分のどうしようもなさだけが、白い空間に晒されていた。

「……以上です」

 声が掠れそうになるのを、ぎりぎりで押しとどめる。

「分かった」

 制御官は表情も変えずに言う。


「貴様は音痴だ」


 断定される。容赦がない。

「……はい」

「運動音痴で、リズム音痴でもある」

「…………はい」

 胃がきゅっと萎む。

 分かっていた。分かっていたけれど、改めて言われると、どうしようもなく痛い。

「飛行でも、拍への応答が要る。切り離しては扱えん」  

 空気が変わった。

 与えられようとしているのは、半端な優しさや慰めではない。


 理由だ。


「……わたしは」

 喉がひりつく。

 ――考えろ。与えられたままで満足するな。

「わたしは……命令に反応しています。けれど、そのまま、動けないんです」

 言葉が一度つかえて、それでも押し出す。

「一度、理解してから……正しくやろうとして……それで、遅れます」

 呼吸が浅くなる。胸の奥で何かが擦れる。

「しかも、わたし自身が……その……運動も、リズムも……」

 言葉が崩れる。分かっているのに、うまく並ばない。

「苦手で……拍が、取れない。間合いも、分からない……」

 一度、息を吸う。整えようとして、余計に乱れる。

「考えないと、身体が動かない。……でも、考えると、遅れる」

「……つまり」

 喉が鳴る。

「分かっているのに……身体が、間に合いません」

 制御官が頷いた。

「そうだ」

 その肯定に、心がほんの少しだけ柔らかくなった。

「入力と出力の遅延だ。号令も音階も認識できている。だが、動作へ移すまでに時間がかかる」

 低く、冷たい声。けれど今は妙に澄んで聞こえる。

「源泉の同期不全にも似た挙動がある」

 身体の奥で熱いものが跳ねた。

「……同じ原因なのですか?」

「未確定だ」

 即答だった。

「でも……考えずに動こうとすると、もっと分からなくなります」

「思考を止めろとは言っていない」

 制御官は端末に指を置いた。

「条件を変える」

 端末が起動される。銀色の演算円が浮かび上がった。

 その瞬間、身体を取り巻いていた外部の圧力が減る。

 この間の演習と同じだ。

 基準点が制御官の周波数だけになる。

 安心した。

 その銀色の波を追いかけようとする。自分の波長を、あの正確な拍に重ねようとする。

「目を閉じろ」

「はい」

 閉じる。 演習場の白さが瞼の裏にも残る。

「数えるな。合わせようとするな」

「……はい」


「私の声だけを聞け」


 低い声が、すぐ近くに落ちた。

 距離は変わっていないはずなのに、耳のすぐ内側で鳴った気がした。

 他の音が、一瞬だけ遅れて遠のく。

「呼吸」

 吸う。

「止めろ」

 止める。

「吐け」

 吐く。

 それだけだった。

 それだけなのに、胸の中をささくれ立たせていたものが、少しずつ輪郭を失っていく。

 午前の号令とは違う。集団の中で浴びたあの大きな音とは違う。

 この声は、押し込んでこない。

 けれど逃がしもしない。

「今」

 言われた瞬間、手のひらの奥で小さく魔力を起こす。

 熱が走る。

 けれど散らない。

 揺れない。

 ほんの小さな発光が、閉じた瞼の内側で白く滲んだ。

「維持」

「……はい」

 できている。

 無理に数えなくても、追いかけなくても。

 自分の身体の奥にあるものが、ちゃんとそこにある。


 世界が静かだ。


「開けろ」

 目を開ける。手のひらの上で淡い光が安定していた。

「本官を基準とした魔力の起動と維持は成立。以前と同じ結果だ」

「……はい」

「身体動作の改善は確認していない。混同するな」

 制御官は淡々と告げた。

 確かに、飛べるようになったわけではない。音痴も、運動音痴も変わらない。

 けれど、できた。

 できる条件が、一つは確かにある。

 それなら、まだ調べられる。

 銀色の波形が身体の周りで静かに流れていく。

 温かくも優しくもない。

 けれど安心できる。

「今後の訓練内容について説明する」 f

 制御官が端末を操作する。

「当面、外部拍への追従は切る。本官を基準とした起動と維持を優先する」

「はい」

「身体基礎と歌唱も行う」

「……はい」

 容赦がない。

「最終的には帝国標準下で飛行を成立させねばならん。そのために――」

 制御官がこちらを見る。

「私に合わせようとするな」

 銀色の波形が一拍、動きを止めた。


「私を見失うな」


 その言葉が胸に落ちた瞬間、身体の奥の熱が、心の輪郭を照らした気がした。

 合わせるのではない。 見失わない。

 難しい。

 難しいけれど――

 制御官を見上げる。

 そこには少しの歪みもない姿勢と視線があった。

「はい」

 短く答える。それ以上のものはいらなかった。

 制御官が再び端末を操作する。赤銅色の波形が展開された。

 銀色の波を追おうとするその揺らぎを、意識的に食い止める。


 合わせなくていい。

 見失わなければいい。


「……一つだけ確認する」

 制御官の声が、波の向こう側から聞こえた。

 少しだけ硬さを感じたのは、気のせいか。

 波形を挟んで向き合う。

 白い壁を背にしているのに、制御官の姿は光を吸い込んで、暗く沈んでいた。


「世界が静かになるとはどういう意味だ」


 銀色の波が、わずかに震えた。

 端末から離れた制御官の指の動きも、いつもより遅い気がした。

 それは、ずれというにはあまりに微細で――


 けれど、確かな揺らぎだった。

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