二 私を見失うな。
死にたくはない。
だけど死んでしまいたいときがある。
第三屋内演習場へ向かう地下道を急ぐ。気温が地上より二度ほど低いから肌寒い。壁も床も真っ白で、継ぎ目すら見当たらない。
足音はすぐに吸収されて反響も残らない。ずっと同じ場所を走っているような気持ちになる。
熱も音もない白い道が、延々と続いている。
生きた人間のための通路というより、何かを静かに保存しておくための箱の中を走っているようだった。
マシュ――自分の名前を心の中で確かめる。そうしないと、この白さの中に、自分まで溶けてしまいそうだった。
これが標準なのだろうか。
何も考えず、何も問わず、ただ均されていく。そうすれば……楽になれるのだろうか。
箒を握る手に力を込める。
初期値には戻らない。
そう思えば体の中に小さな熱が生まれた。
分厚い扉を全身を使って押す。耳障りなくらい重い音が響いて、すぐに消えた。
帝国標準時間、午後四時二十五分。
予定よりも五分早い。けれど演習場の前方には既に制御官がいる。
その姿を見た瞬間、胸が詰まる。
苦しみよりも先に痛みがくる。奥歯を噛み締め、お腹に力を入れて、込み上げてくる気持ちをすべて内側に折りたたむ。
「よろしくお願いします!」
制御官を真っ直ぐに見上げて、しっかりと挨拶をする。
制御官が端末から目を離し、少しだけ頷いた。いつも通りの仕草と表情だ。感情すら極限まで減衰させた硬質な顔つきは、人よりも自動人形に近い。
でも――その無感情な瞳を下から見つめる。
怖くはない。
一度も、怖いと思ったことがない。
胸は確かに痛む。でもそれは、今日の第一課程で無様な姿を見せてしまったからだ。
拍を乱し、集団に同期できないでいる自分をこの人はどう捉えたのだろう。
制御官は投影面を展開しない。今日にかぎって、お互いの間に何の情報も浮かんでいない。
だから沈黙が痛い。
「第一課程の演習を確認した」
人間味のない低い声が胸に突き刺さってくる。その抑制された感情に安心している自分が悔しい。
「記録も精査済み。訓練計画を変更した」
ポケットの中の端末が震える。この数時間で、制御官はわたしの失敗を分析していたらしい。
「箒を置け。中央に立て」
「はい」
命令に従う。せっかく浮遊までできたのに、また振り出しに戻された気がする。
足を揃え、背筋を伸ばし、手を下ろす。午前の身体基礎と同じように姿勢を整えると、かえって喉が渇いた。
あの白線の上で、自分だけが半拍ずつ遅れていた感覚が、まだ皮膚の下に残っている。
「脈が早い。呼吸が浅い。肩が上がっている」
端末を見ずに言い当てられる。全部見透かされている。
「午前の訓練について確認する。貴様の身体基礎評価は最低。集団と同期できず、拍を乱す」
制御官の言葉は容赦なく皮膚を裏返してくる。だからその奥に押し込めた自分の感情に、また向き合わなくてはならなくなる。
「音楽基礎でも継続して評価を落としている」
「……はい」
なんでここで音楽課程が出てくるのか、分からない。だから余計に足元が覚束なくなっていく。
「リコーダー」
「苦手です」
「ハーモニカ」
「……苦手です」
「歌唱」
胸が殴られたように痛い。顔に熱が集まってくる。
「…………苦手、です」
制御官は頷くだけだ。
慰めがない。曖昧な気づかいもない。あるのは確認だけだ。だから逃げ場がない。
「三拍、手を打て」
「はい」
制御官が指を動かす。空中に小さな銀色の光が三つ灯った。
一定の間隔で、一つずつ明滅する。
それに合わせて両手を打つ。
一打目は合った。二打目も大丈夫。
三打目で、手のひらが遅れた。
「四拍」
銀色の光が四つに増える。
今度は二打目からずれた。
「もう一度」
「はい」
慎重に、と考えた瞬間に拍が壊れる。どこで打てば正しいのか分からない。
いつもそうだ。
胸の中にある熱と、外からの刺激がうまく重ならない。
「止め」
短く制された。両手を下ろす。指先が冷えていた。制御官の顔つきは変わらない。
「足踏み」
「はい」
右、左、右、左。最初の二歩は合う。三歩目で迷い、四歩目で修正し、五歩目でまたずれる。
午前と同じだ。分かるのに直せない。
「止め」
止める足もまたずれた。
恥ずかしいとか、悔しいとか、そんな言葉ではもう追いつかない。
このちぐはぐな身体と心が、どうしようもなく恨めしい。
「貴様は拍を数えると遅れる」
平坦な声が事実だけを置く。
「歌え」
短い命令に、一拍処理が遅れた。
「音階を取れ。単音から始めろ」
やめてほしいと思った。
音楽基礎が苦手なことなど、自分が一番よく知っている。
音は聞こえる。
違いも分かる。
なのに喉や指へ移した途端、正しさがどこかへ逃げてしまう。
歌うのは、嫌だ。
制御官は急かしてはこない。こちらの返事を、ただ待っている。
だからこそ、分かる。
この人が歌えというのなら、そこには確かな理由がある。
それでも――お腹に力を込める。
――わたしは、わたしのために、歌う。
ゆっくり息を吸う。
胸が引き攣った。
一番簡単な音階を思い浮かべる。教会や初等部で何度も聞かされた練習音型。
「……ぁ」
一音目で、駄目だと分かった。狙った高さより少し低い。しかも息の入りが浅く、音の頭が震えている。
そのまま二音目へ上がろうとして、今度は上がりすぎた。三音目で着地を誤り、四音目では拍まで乱れる。
自分の声なのに、自分の身体から出ている感じがしない。喉が勝手に別の高さへ滑っていく。
もうやめたい。せめて二音目で止めてほしかった。
なのに制御官は止めない。
結局、最後まで歌いきってしまった。
口を閉じた瞬間、耳の奥が熱くなる。自分のどうしようもなさだけが、白い空間に晒されていた。
「……以上です」
声が掠れそうになるのを、ぎりぎりで押しとどめる。
「分かった」
制御官は表情も変えずに言う。
「貴様は音痴だ」
断定される。容赦がない。
「……はい」
「運動音痴で、リズム音痴でもある」
「…………はい」
胃がきゅっと萎む。
分かっていた。分かっていたけれど、改めて言われると、どうしようもなく痛い。
「飛行でも、拍への応答が要る。切り離しては扱えん」
空気が変わった。
与えられようとしているのは、半端な優しさや慰めではない。
理由だ。
「……わたしは」
喉がひりつく。
――考えろ。与えられたままで満足するな。
「わたしは……命令に反応しています。けれど、そのまま、動けないんです」
言葉が一度つかえて、それでも押し出す。
「一度、理解してから……正しくやろうとして……それで、遅れます」
呼吸が浅くなる。胸の奥で何かが擦れる。
「しかも、わたし自身が……その……運動も、リズムも……」
言葉が崩れる。分かっているのに、うまく並ばない。
「苦手で……拍が、取れない。間合いも、分からない……」
一度、息を吸う。整えようとして、余計に乱れる。
「考えないと、身体が動かない。……でも、考えると、遅れる」
「……つまり」
喉が鳴る。
「分かっているのに……身体が、間に合いません」
制御官が頷いた。
「そうだ」
その肯定に、心がほんの少しだけ柔らかくなった。
「入力と出力の遅延だ。号令も音階も認識できている。だが、動作へ移すまでに時間がかかる」
低く、冷たい声。けれど今は妙に澄んで聞こえる。
「源泉の同期不全にも似た挙動がある」
身体の奥で熱いものが跳ねた。
「……同じ原因なのですか?」
「未確定だ」
即答だった。
「でも……考えずに動こうとすると、もっと分からなくなります」
「思考を止めろとは言っていない」
制御官は端末に指を置いた。
「条件を変える」
端末が起動される。銀色の演算円が浮かび上がった。
その瞬間、身体を取り巻いていた外部の圧力が減る。
この間の演習と同じだ。
基準点が制御官の周波数だけになる。
安心した。
その銀色の波を追いかけようとする。自分の波長を、あの正確な拍に重ねようとする。
「目を閉じろ」
「はい」
閉じる。 演習場の白さが瞼の裏にも残る。
「数えるな。合わせようとするな」
「……はい」
「私の声だけを聞け」
低い声が、すぐ近くに落ちた。
距離は変わっていないはずなのに、耳のすぐ内側で鳴った気がした。
他の音が、一瞬だけ遅れて遠のく。
「呼吸」
吸う。
「止めろ」
止める。
「吐け」
吐く。
それだけだった。
それだけなのに、胸の中をささくれ立たせていたものが、少しずつ輪郭を失っていく。
午前の号令とは違う。集団の中で浴びたあの大きな音とは違う。
この声は、押し込んでこない。
けれど逃がしもしない。
「今」
言われた瞬間、手のひらの奥で小さく魔力を起こす。
熱が走る。
けれど散らない。
揺れない。
ほんの小さな発光が、閉じた瞼の内側で白く滲んだ。
「維持」
「……はい」
できている。
無理に数えなくても、追いかけなくても。
自分の身体の奥にあるものが、ちゃんとそこにある。
世界が静かだ。
「開けろ」
目を開ける。手のひらの上で淡い光が安定していた。
「本官を基準とした魔力の起動と維持は成立。以前と同じ結果だ」
「……はい」
「身体動作の改善は確認していない。混同するな」
制御官は淡々と告げた。
確かに、飛べるようになったわけではない。音痴も、運動音痴も変わらない。
けれど、できた。
できる条件が、一つは確かにある。
それなら、まだ調べられる。
銀色の波形が身体の周りで静かに流れていく。
温かくも優しくもない。
けれど安心できる。
「今後の訓練内容について説明する」 f
制御官が端末を操作する。
「当面、外部拍への追従は切る。本官を基準とした起動と維持を優先する」
「はい」
「身体基礎と歌唱も行う」
「……はい」
容赦がない。
「最終的には帝国標準下で飛行を成立させねばならん。そのために――」
制御官がこちらを見る。
「私に合わせようとするな」
銀色の波形が一拍、動きを止めた。
「私を見失うな」
その言葉が胸に落ちた瞬間、身体の奥の熱が、心の輪郭を照らした気がした。
合わせるのではない。 見失わない。
難しい。
難しいけれど――
制御官を見上げる。
そこには少しの歪みもない姿勢と視線があった。
「はい」
短く答える。それ以上のものはいらなかった。
制御官が再び端末を操作する。赤銅色の波形が展開された。
銀色の波を追おうとするその揺らぎを、意識的に食い止める。
合わせなくていい。
見失わなければいい。
「……一つだけ確認する」
制御官の声が、波の向こう側から聞こえた。
少しだけ硬さを感じたのは、気のせいか。
波形を挟んで向き合う。
白い壁を背にしているのに、制御官の姿は光を吸い込んで、暗く沈んでいた。
「世界が静かになるとはどういう意味だ」
銀色の波が、わずかに震えた。
端末から離れた制御官の指の動きも、いつもより遅い気がした。
それは、ずれというにはあまりに微細で――
けれど、確かな揺らぎだった。




