一 接続不良個体
帝国標準時間、午前八時四十分。
中等部一年A組の月曜第一課程は、第一屋内演習場で行われる。
ラリオーノフは演習場後方の観測位置に立つ。端末は腕装着型だ。
空気は乾いている。高窓から落ちる朝の光が、白線の引かれた床を均等に照らしている。壁際には歩調訓練用の可動標識、反応観測盤。他の演習場とは異なり、ここには制御盤もなければ派手な術式もない。必要となるのは肉体と命令と反復だけだ。
内容は身体基礎訓練。
休日明けの第一課程にこれが置かれるのは、単なる体力養成のためではない。二日間でばらついた生活拍、呼吸間隔、反応速度、そして個体ごとの微細な源泉揺らぎを、学院標準へと戻すための初期同期課程である。
着替えが済んだ生徒らが入場してくる。後方にいるラリオーノフを見つければ、その幼い顔が一様に強張る。ラリオーノフはあえて視線を向けない。腕を組んだまま、わずかに瞼を伏せる。
本日の臨席理由は監査。名目は、管理下個体における非魔力課程適応の観測確認。制度上、問題はない。学院側からも承認されている。
――観測だけだ。
――仮説を現場に持ち込むな。
自分自身に命じる。
だが、思考を止められない。
意識覚醒に〇・〇九八秒先行する源泉の立ち上がり。どの朝も変わらぬ再現性。
そして、あの赤銅色の波形。
『世界が静かになったんです』
ラリオーノフの肌から水分が抜けていく。擦り切れるような痛みが、頰から耳にかけて走った。
世界応答仮説。
その言葉が脳裏に浮かぶだけで、観測は歪む。
目の端に赤い光が差し込んだ。ラリオーノフは瞼を上げる。指先が結界の微細な反発を感じる。
入り口に視線を向ければ、やはりそこにはマシュがいた。ログを確認しなくても分かるくらい緊張している。顔色は白く、拳は不自然なほど強く握られている。
隣の女子生徒に何か言われ、ようやくこちらを見た。金色の目が一瞬だけ跳ねる。
その顔に浮かんだ感情は、ラリオーノフの知らないものだった。
焦燥、羞恥、拒否。そのどれでもあって、どれでもない。言葉では到底追いつけない。端末の隅で、情動波形が乱れる。
細い喉が何かを飲み干すように戦慄いた。
だがそれはすべて一瞬の出来事だった。すぐにマシュの口が硬く引き締まる。水面が凪ぐように表情が一変した。
整えた――ラリオーノフは理解する。
入場してきたときの緊張すら感じさせない顔つきで、マシュが列に加わる。
その整え方が、余計に不自然だった。
動揺している。だがその動揺を悟られないようにしている。
湧き上がった感情のすべてが、内側に向かって過剰に折り畳まれている。
声をかけるべきではない。
そう分かっている筈なのに、言葉を探している自分がいる。
「随分と熱心だな、制御官殿」
不意に錆びた金属を擦るような声が、右手から飛んできた。
ヴィチェスラフ・ガヴリーロヴィチ・オルロフ。中等部実技担当教官だ。
『要するに、危険因子という理解でいいんだろう』
先日の会議で、そう言ってきた男だった。マシュの墜落事故にも居合わせている。
「危険因子に暴走の兆候でも出たか」
「管理対象個体の監査です」
「魔力実技の専任が身体基礎にまで口を出すのか」
「観測のみです」
オルロフは鼻で笑い、生徒の列へ向かった。
整列が始まる。
ラリオーノフの視線は自然と一か所に吸い寄せられた。
右から二番目。マシュは他の生徒に混じってまっすぐ立っている。姿勢だけ見れば正確だった。だが呼吸が浅い。肩がわずかに上がり、押し戻される。端末には心拍の上昇が出ていた。
ラリオーノフは昨夜設定した観測項目を開いた。
動作映像と源泉波形。
双方を帝国標準時間の同一軸上に展開する。
「整列完了!」
オルロフの号令が演習場を打つ。
「本日の第一課程は集団行動基礎。歩調、方向転換、停止動作、間隔保持を再確認する。休み気分は今のうちに捨てろ」
「はい!」
返答が揃う。だがマシュだけ、ほかの生徒より口を閉じるのが遅い。ラリオーノフの喉の奥が乾く。
歩調訓練が始まった。
前進、停止、方向転換。
マシュはついていこうとしている。単独動作が極端に崩れているわけではない。だが合図のたびに、動きが半拍遅れる。
停止でわずかに踏み込み、旋回で肩線が遅れる。周囲が避けているから列が壊れないだけだ。
ラリオーノフは組んだ腕に力を込める。
マシュは理解していないのではない。理解してから動いている。
だが外部の拍へ接続する段階で、噛み合わない。
命令と身体の間に、何かがひとつ挟まっている。
ラリオーノフは端末に視線を落とす。
号令。動作開始。源泉波形。
時間軸上に三つの記録が並んでいた。
身体の反応は遅れている。
だが、源泉波形に目立った乱れはない。主周波数、副周波数ともに安定している。
情動波形だけが、号令を重ねるたびに小さく乱れ始めていた。
――何だ、これは。
源泉は崩れていない。
ならば、身体動作の遅れはどこで生じている。
思考が滑る。
ラリオーノフは考えを振り払った。
世界応答仮説に接続させたくなるのを堪える。それは飛躍だ。事実を歪める。
「遅い!」
オルロフの怒声が飛ぶ。
「0000! 合図の後に考えるな。合わせろ。周囲を見ろ。自分の拍で動くな!」
マシュの背がこわばる。
「はい」
返答は正確だった。だがそれすら、やはり遅れていた。
要求されている動作は、課程の基準どおりだ。
だが、その指示では遅れが縮まらない。
ラリオーノフは端末上の数値を確認する。心拍は落ち切らず、緊張は蓄積したままだ。
一方、源泉圧は正常範囲内。主周波数、副周波数ともに安定している。
号令と動作開始時刻を重ねる。
――微細な応答があった。
合図のたびに、副周波数の位相がわずかに揺れている。
だが、すぐに収束する。急性逸脱には至らない。
それは身体動作の遅延と、ほぼ同じ時間帯に生じていた。
ラリオーノフは時間軸を拡大する。
両者の因果関係は不明。
それでも、源泉そのものは安定している。
やがて終了号令が響く。
「やめ」
全員が止まる。マシュはやはり、半拍遅れて停止した。
「本課程終了。次課程の準備をしろ」
張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。
生徒たちが列を解く。言葉はない。だが視線だけは最後までマシュとラリオーノフを交互に見ていた。
マシュも列を離れる。
顔色は白い。額にうっすら汗が滲んでいた。それでも歩みは乱れない。
演習場の出口へ向かう途中で、一度だけ振り返った。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
マシュは何も言わない。
そのかわり、きちんとした角度で一礼した。疲れきっているはずなのに、その礼は揺らがない。
ラリオーノフもまた何も言わなかった。
ここで言葉を与えれば、それだけで余計な意味が生じる。
マシュの顔が上がる。
表情は静かだった。羞恥でも反抗でもない。ただこれ以上何も見せまいとする硬さだけが残っている。
そのまま他の生徒たちとともに演習場を出ていった。
扉が閉まる。反響は吸収された。
白線だけが残った床の上に、朝日が波を作る。
「で?」
オルロフの割れた声がラリオーノフの右肩に触れた。
「熱心に見ていたようだが、何が分かった」
「号令から身体動作開始までに、反復する遅延があります」
ラリオーノフは即答した。
「単独での動作精度は保たれています。一方、集団の拍への追従には支障がある」
「要するに応答が悪い。接続不良個体だ」
「源泉波形には急性逸脱が認められません。遅延の発生機序も、まだ特定できていない」
オルロフは鼻を鳴らした。
「歩調に乗れん。合図に遅れる。列を乱す。現場じゃ十分だ。魔力が強かろうが、集団に組み込めん個体は訓練資源を食うだけだ」
波打つ朝日が僅かに翳る。
「そのうち廃棄処分候補に回される」
最後の言葉だけが、妙に平坦だった。
冗談ではない。
苛立ちに任せた威嚇でもない。
これは、現場の言葉だ。
「廃棄の判断権限は貴官にはありません」
「だが制度は知っている」
オルロフの目がラリオーノフを突く。
「規格に乗らん個体は、いつか切られる。前例はいくらでもある」
規格外を理由に処分された前例はある。
だが、それがマシュにも当てはまるとは限らない。
ラリオーノフの腹の底に横たわる濁りが、冷たさを増す。
「本個体は未評価です」
声音は変えない。
「現時点で処分を前提に観測するのは、判断の順序を誤っています」
「理屈だな」
「手順です」
オルロフが吐き捨てるように笑う。
「好きにしろ、制御官殿」
オルロフの太い影がラリオーノフから剥がれる。
「だが覚えておけ」
分厚い背中が揺れる。
「ああいう個体は、いずれ自分も他人も静かに壊す」
それだけ言って、オルロフは去っていった。
扉がしまり、音が消える。
空気は張りつめたまま緩まない。
ラリオーノフは端末を見下ろした。疲労、緊張、抑圧されたF。それらは数値になって並んでいる。
ラリオーノフは記録を保存する。
反復する動作遅延。ほぼ同じ時間帯に生じる、副周波数の微細な応答。
因果関係は、まだ分からない。
この記録だけで、適応不能とは判定できない。
ならば、成立する条件を確かめる。
報告書に結論を書くのは、その後だ。
ラリオーノフは訓練計画の項目を書き換えた。




