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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第三章
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一 接続不良個体

 帝国標準時間、午前八時四十分。

 中等部一年A組の月曜第一課程は、第一屋内演習場で行われる。

 ラリオーノフは演習場後方の観測位置に立つ。端末は腕装着型だ。

 空気は乾いている。高窓から落ちる朝の光が、白線の引かれた床を均等に照らしている。壁際には歩調訓練用の可動標識、反応観測盤。他の演習場とは異なり、ここには制御盤もなければ派手な術式もない。必要となるのは肉体と命令と反復だけだ。

 内容は身体基礎訓練。

 休日明けの第一課程にこれが置かれるのは、単なる体力養成のためではない。二日間でばらついた生活拍、呼吸間隔、反応速度、そして個体ごとの微細な源泉揺らぎを、学院標準へと戻すための初期同期課程である。

 着替えが済んだ生徒らが入場してくる。後方にいるラリオーノフを見つければ、その幼い顔が一様に強張る。ラリオーノフはあえて視線を向けない。腕を組んだまま、わずかに瞼を伏せる。

 本日の臨席理由は監査。名目は、管理下個体における非魔力課程適応の観測確認。制度上、問題はない。学院側からも承認されている。

 ――観測だけだ。

 ――仮説を現場に持ち込むな。

 自分自身に命じる。

 だが、思考を止められない。

 意識覚醒に〇・〇九八秒先行する源泉の立ち上がり。どの朝も変わらぬ再現性。


 そして、あの赤銅色の波形。


『世界が静かになったんです』


 ラリオーノフの肌から水分が抜けていく。擦り切れるような痛みが、頰から耳にかけて走った。

 世界応答仮説。

 その言葉が脳裏に浮かぶだけで、観測は歪む。

 目の端に赤い光が差し込んだ。ラリオーノフは瞼を上げる。指先が結界の微細な反発を感じる。

 入り口に視線を向ければ、やはりそこにはマシュがいた。ログを確認しなくても分かるくらい緊張している。顔色は白く、拳は不自然なほど強く握られている。

 隣の女子生徒に何か言われ、ようやくこちらを見た。金色の目が一瞬だけ跳ねる。

 その顔に浮かんだ感情は、ラリオーノフの知らないものだった。

 焦燥、羞恥、拒否。そのどれでもあって、どれでもない。言葉では到底追いつけない。端末の隅で、情動波形が乱れる。

 細い喉が何かを飲み干すように戦慄いた。

 だがそれはすべて一瞬の出来事だった。すぐにマシュの口が硬く引き締まる。水面が凪ぐように表情が一変した。

 整えた――ラリオーノフは理解する。

 入場してきたときの緊張すら感じさせない顔つきで、マシュが列に加わる。

 その整え方が、余計に不自然だった。

 動揺している。だがその動揺を悟られないようにしている。

 湧き上がった感情のすべてが、内側に向かって過剰に折り畳まれている。

 声をかけるべきではない。

 そう分かっている筈なのに、言葉を探している自分がいる。

「随分と熱心だな、制御官殿」

 不意に錆びた金属を擦るような声が、右手から飛んできた。

 ヴィチェスラフ・ガヴリーロヴィチ・オルロフ。中等部実技担当教官だ。

『要するに、危険因子という理解でいいんだろう』

 先日の会議で、そう言ってきた男だった。マシュの墜落事故にも居合わせている。

「危険因子に暴走の兆候でも出たか」

「管理対象個体の監査です」

「魔力実技の専任が身体基礎にまで口を出すのか」

「観測のみです」

 オルロフは鼻で笑い、生徒の列へ向かった。

 整列が始まる。

 ラリオーノフの視線は自然と一か所に吸い寄せられた。

 右から二番目。マシュは他の生徒に混じってまっすぐ立っている。姿勢だけ見れば正確だった。だが呼吸が浅い。肩がわずかに上がり、押し戻される。端末には心拍の上昇が出ていた。

 ラリオーノフは昨夜設定した観測項目を開いた。

 動作映像と源泉波形。

 双方を帝国標準時間の同一軸上に展開する。

「整列完了!」

 オルロフの号令が演習場を打つ。

「本日の第一課程は集団行動基礎。歩調、方向転換、停止動作、間隔保持を再確認する。休み気分は今のうちに捨てろ」

「はい!」

 返答が揃う。だがマシュだけ、ほかの生徒より口を閉じるのが遅い。ラリオーノフの喉の奥が乾く。

 歩調訓練が始まった。

 前進、停止、方向転換。

 マシュはついていこうとしている。単独動作が極端に崩れているわけではない。だが合図のたびに、動きが半拍遅れる。

 停止でわずかに踏み込み、旋回で肩線が遅れる。周囲が避けているから列が壊れないだけだ。

 ラリオーノフは組んだ腕に力を込める。

 マシュは理解していないのではない。理解してから動いている。

 だが外部の拍へ接続する段階で、噛み合わない。


 命令と身体の間に、何かがひとつ挟まっている。


 ラリオーノフは端末に視線を落とす。

 号令。動作開始。源泉波形。

 時間軸上に三つの記録が並んでいた。

 身体の反応は遅れている。

 だが、源泉波形に目立った乱れはない。主周波数、副周波数ともに安定している。

 情動波形だけが、号令を重ねるたびに小さく乱れ始めていた。

 ――何だ、これは。

 源泉は崩れていない。

 ならば、身体動作の遅れはどこで生じている。

 思考が滑る。

 ラリオーノフは考えを振り払った。

 世界応答仮説に接続させたくなるのを堪える。それは飛躍だ。事実を歪める。

「遅い!」

 オルロフの怒声が飛ぶ。

「0000! 合図の後に考えるな。合わせろ。周囲を見ろ。自分の拍で動くな!」

 マシュの背がこわばる。

「はい」

 返答は正確だった。だがそれすら、やはり遅れていた。

 要求されている動作は、課程の基準どおりだ。

 だが、その指示では遅れが縮まらない。

 ラリオーノフは端末上の数値を確認する。心拍は落ち切らず、緊張は蓄積したままだ。

 一方、源泉圧は正常範囲内。主周波数、副周波数ともに安定している。

 号令と動作開始時刻を重ねる。

 ――微細な応答があった。

 合図のたびに、副周波数の位相がわずかに揺れている。

 だが、すぐに収束する。急性逸脱には至らない。

 それは身体動作の遅延と、ほぼ同じ時間帯に生じていた。

 ラリオーノフは時間軸を拡大する。

 両者の因果関係は不明。

 それでも、源泉そのものは安定している。

 やがて終了号令が響く。

「やめ」

 全員が止まる。マシュはやはり、半拍遅れて停止した。

「本課程終了。次課程の準備をしろ」

 張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。

 生徒たちが列を解く。言葉はない。だが視線だけは最後までマシュとラリオーノフを交互に見ていた。

 マシュも列を離れる。

 顔色は白い。額にうっすら汗が滲んでいた。それでも歩みは乱れない。

 演習場の出口へ向かう途中で、一度だけ振り返った。

 目が合う。

 ほんの一瞬だった。

 マシュは何も言わない。

 そのかわり、きちんとした角度で一礼した。疲れきっているはずなのに、その礼は揺らがない。

 ラリオーノフもまた何も言わなかった。

 ここで言葉を与えれば、それだけで余計な意味が生じる。

 マシュの顔が上がる。

 表情は静かだった。羞恥でも反抗でもない。ただこれ以上何も見せまいとする硬さだけが残っている。

 そのまま他の生徒たちとともに演習場を出ていった。

 扉が閉まる。反響は吸収された。

 白線だけが残った床の上に、朝日が波を作る。

「で?」

 オルロフの割れた声がラリオーノフの右肩に触れた。

「熱心に見ていたようだが、何が分かった」

「号令から身体動作開始までに、反復する遅延があります」

 ラリオーノフは即答した。

「単独での動作精度は保たれています。一方、集団の拍への追従には支障がある」

「要するに応答が悪い。接続不良個体だ」

「源泉波形には急性逸脱が認められません。遅延の発生機序も、まだ特定できていない」

 オルロフは鼻を鳴らした。

「歩調に乗れん。合図に遅れる。列を乱す。現場じゃ十分だ。魔力が強かろうが、集団に組み込めん個体は訓練資源を食うだけだ」

 波打つ朝日が僅かに翳る。

「そのうち廃棄処分候補に回される」

 最後の言葉だけが、妙に平坦だった。

 冗談ではない。

 苛立ちに任せた威嚇でもない。 

 これは、現場の言葉だ。

「廃棄の判断権限は貴官にはありません」

「だが制度は知っている」

 オルロフの目がラリオーノフを突く。

「規格に乗らん個体は、いつか切られる。前例はいくらでもある」

 規格外を理由に処分された前例はある。

 だが、それがマシュにも当てはまるとは限らない。

 ラリオーノフの腹の底に横たわる濁りが、冷たさを増す。

「本個体は未評価です」

 声音は変えない。

「現時点で処分を前提に観測するのは、判断の順序を誤っています」

「理屈だな」

「手順です」

 オルロフが吐き捨てるように笑う。

「好きにしろ、制御官殿」

 オルロフの太い影がラリオーノフから剥がれる。

「だが覚えておけ」

 分厚い背中が揺れる。

「ああいう個体は、いずれ自分も他人も静かに壊す」

 それだけ言って、オルロフは去っていった。

 扉がしまり、音が消える。

 空気は張りつめたまま緩まない。

 ラリオーノフは端末を見下ろした。疲労、緊張、抑圧されたF。それらは数値になって並んでいる。

 ラリオーノフは記録を保存する。

 反復する動作遅延。ほぼ同じ時間帯に生じる、副周波数の微細な応答。

 因果関係は、まだ分からない。


 この記録だけで、適応不能とは判定できない。


 ならば、成立する条件を確かめる。


 報告書に結論を書くのは、その後だ。

 ラリオーノフは訓練計画の項目を書き換えた。

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