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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
幕間
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21/37

Discord

 帝国標準時間、午後八時三分。

 ラリオーノフは自室の机に端末の情報を展開した。照明は最低限に絞ってある。窓の外はすでに暗く、起動音とともに青白い光の層が眼前に開いていく。


 管理対象個体:SACC-3126-04-FL-ST。

 本日零時から現在までの時系列記録を展開する。


 一日を通じて逸脱アラートは発生しなかった。源泉圧、正常範囲内。主周波数、副周波数ともに安定している。

 記録上、異常はなかった。

 ラリオーノフは時間軸を巻き戻す。


 午前五時五十八分。意識覚醒判定。

 だが問題はその直前だ。

 

 ――〇・〇九八秒。


 やはり、そこだけは何度見ても変わらない。どの日も意識が覚醒するより先に、源泉が活動を始めている。暴走ではない。乱れでもない。当然のことのように、静かに、正確に先行する。

 それでも、端末は何も警告しない。

 ラリオーノフは奥歯を噛みしめ、起床以降の記録へ視線を移した。

 朝食は完食。午前中は中庭で過ごしている。情動は安定。

 午後は学院内労務だ。教材運搬、端末入力、教官補助。いずれも集中度は高く、焦燥や逸脱傾向はない。

 その後、自習室を経て図書館へ行っている。

 一般閲覧室と中央閲覧室を巡り、地下書庫に二十七分間滞在している。

 ラリオーノフの指先が一瞬止まる。

 地下書庫。

 そこまで降りたのか。

 何を読んだ。何を調べた。

 学業資料であれば、開架書庫でも事足りるはずだ。


 ――世界応答仮説。


 背筋が冷えた。

 だが――思い直す。学院の図書館に規格外個体の史料があるとは考えにくい。まして、あの草稿に辿り着けるはずもない。

 憶測に価値はない。

 別窓を開く。情動波形の終日推移を展開させる。

 午前、安定。中庭、軽度の高揚。労務中、集中。

 図書館滞在中、探究反応。

 全体として平穏だ。逸脱はない。

 ラリオーノフの指先が熱を取り戻し、無意識に強ばっていた肩から力が抜ける。

 だが――ふと気がつく。

 午後七時五十二分。

 そこから現在まで、微細な揺れが続いている。

 小さな不安だ。軽い焦燥も混じっている。

 ラリオーノフは数値化された記録も確認する。軽度の落ち込みすら確認できた。

 どれも閾値未満だ。源泉圧の上昇もない。

 ただ、収まらない。

「……何だ」

 暗がりに声が落ちる。

 体調不良ではない。監測環から医療上の通知もきていない。

 彼女は行動するまでに一拍置く子です――ロザノワの声が脳裏に蘇る。

 ――一斉動作になると、合図への反応が遅れることがあります。

 ラリオーノフは時間表示を見た。今日は日曜日だ。授業は何もない。

 だが――日曜日だ。

 指を空に滑らせる。学院の時間割を呼び出した。中等部一年A組を選択する。


 月曜日。第一課程――身体基礎課程。


 指先が止まる。

 ラリオーノフは即座に過去の授業別反応記録を開く。

 座学は安定している。数学では集中と軽度の高揚。理論魔術史では強い没入。物理基礎でも期待反応が見られる。

 理解度に問題はない。

 だが身体基礎課程の記録に変えると、分布が変わる。

 持続した落ち込みに、焦りと羞恥が混じっている。

 次に音楽基礎の記録を開く。

 眉間に皺が寄った。

 以前、確かにその時間に波形の乱れが起こっていた。だがあの日は、同期圧低下によって引き起こされた身体負荷反応の直後だった。

 だから波形の乱れも、その余波だと処理していた。

 だが今、身体基礎課程の記録と重ねると違って見える。

 身体基礎も音楽基礎も、拍《リズム》を必要とし、合図に従って周囲と動作を合わせる課程だ。

 その二つで、似た情動低下が繰り返されている。

 ――偶然か。

 ラリオーノフは身体基礎課程の記録映像を呼び出した。

 展開された映像の中で、マシュは前列右から二番目にいる。

 一人での姿勢保持は正確だ。迷いがない。

 模倣動作が始まる。

 合図を聞き、身体を動かす。形は正確だ。だが、わずかに遅れる。

 次の合図で遅れが重なる。

 一斉動作へ移った瞬間、その差が顕著になった。

 周囲が次の動作へ移る頃、マシュはまだ前の動作を終えていない。慌てて追いつこうとし、隣の生徒にぶつかりかける。

 マシュは一度だけ唇を噛み、再び前を向いた。

 ――できない理由を確かめる前に、遅れていることだけを叱っても仕方がありません。

 ロザノワの言葉が蘇る。

 ラリオーノフは映像を閉じなかった。

 本当に、授業中だけの問題なのか。

 ラリオーノフは学院構内の監視映像を呼び出す。マシュの特徴で検索し、動画を絞り込む。

 昼の並木道が現れた。マシュが一人で歩いている。本を抱え、少し俯きがちだが、歩幅は安定している。

 だが向かい側から自転車が近づいてくる。

 マシュが避ける。

 ラリオーノフは目を細めた。

 反応が――遅い。

 衝突には至らないが回避の開始が遅れている。

 別の映像を呼び出す。渡り廊下だ。移動教室の生徒が行き交っている。

 その人の流れに入ろうとして、マシュが足を止める。

 周囲の生徒が自然に進む隙間を、彼女だけが捉え損ねていた。

 半拍遅れて動き出す。

 ぶつからなかったのは、向こうが避けたからだ。

 ラリオーノフは映像を止めた。息を深く吐く。そのまま手を顔の前にやった。

 魔力行使ではない。

 飛行でもない。


 彼女の困難はもっと手前にある。



 だが、その遅延が源泉の挙動と関連しているかは分からない。

 身体動作と源泉活動は、別々に記録されてきた。

 少なくとも、自分はその二つを同時に検証していない。


 端末の片隅では、マシュの情動波形が小さく揺れ続けている。

 明日の第一課程。あの少女は今この瞬間も、失敗を予期しているのか。

 あるいは、明日も同じことを繰り返すのが怖いのか。


 個別通信――一瞬だけ浮かんだ考えを瞬時に振り払う。


 必要はない。そう判断する。

 

 考えが浮かんだ理由は追わなかった。

 

 そのかわり、監視設定を開く。

 管理対象個体:SACC-3126-04-FL-ST

 優先監視対象課程――魔力行使実技。そこでラリオーノフの指が止まる。

 僅かなしびれが指先に走る。


 今まで、魔力行使を伴わない課程については、常時監測以上の設定を必要としなかった。

 危険な出力も、急性逸脱も起きていない。

 だが、記録には繰り返し同じ遅延が残されている。


 ――追加項目を開く。

 自分の心が定まっているとは思えない。置き場所がここだとも思えない。

 それでも触れる指先は止められない。

 身体基礎課程、音楽基礎課程。それらの監視優先度を一段階引き上げる。

 明日の第一課程から、動作映像と源泉波形を、同一の時間軸で照合するよう指定した。

 承認させ、設定を反映させる。

 青白い表示が静かに更新された。

 ラリオーノフはしばらく、その画面を見つめていた。

 これは、必要な処理だ――そう判断する。


 端末の隅で、小さな波が立ち続けている。

 記録は成立している。

 基準も、そこにある。


 それでも彼女は、周囲の拍に重なれない。


 ラリオーノフは画面を閉じなかった。


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