Discord
帝国標準時間、午後八時三分。
ラリオーノフは自室の机に端末の情報を展開した。照明は最低限に絞ってある。窓の外はすでに暗く、起動音とともに青白い光の層が眼前に開いていく。
管理対象個体:SACC-3126-04-FL-ST。
本日零時から現在までの時系列記録を展開する。
一日を通じて逸脱アラートは発生しなかった。源泉圧、正常範囲内。主周波数、副周波数ともに安定している。
記録上、異常はなかった。
ラリオーノフは時間軸を巻き戻す。
午前五時五十八分。意識覚醒判定。
だが問題はその直前だ。
――〇・〇九八秒。
やはり、そこだけは何度見ても変わらない。どの日も意識が覚醒するより先に、源泉が活動を始めている。暴走ではない。乱れでもない。当然のことのように、静かに、正確に先行する。
それでも、端末は何も警告しない。
ラリオーノフは奥歯を噛みしめ、起床以降の記録へ視線を移した。
朝食は完食。午前中は中庭で過ごしている。情動は安定。
午後は学院内労務だ。教材運搬、端末入力、教官補助。いずれも集中度は高く、焦燥や逸脱傾向はない。
その後、自習室を経て図書館へ行っている。
一般閲覧室と中央閲覧室を巡り、地下書庫に二十七分間滞在している。
ラリオーノフの指先が一瞬止まる。
地下書庫。
そこまで降りたのか。
何を読んだ。何を調べた。
学業資料であれば、開架書庫でも事足りるはずだ。
――世界応答仮説。
背筋が冷えた。
だが――思い直す。学院の図書館に規格外個体の史料があるとは考えにくい。まして、あの草稿に辿り着けるはずもない。
憶測に価値はない。
別窓を開く。情動波形の終日推移を展開させる。
午前、安定。中庭、軽度の高揚。労務中、集中。
図書館滞在中、探究反応。
全体として平穏だ。逸脱はない。
ラリオーノフの指先が熱を取り戻し、無意識に強ばっていた肩から力が抜ける。
だが――ふと気がつく。
午後七時五十二分。
そこから現在まで、微細な揺れが続いている。
小さな不安だ。軽い焦燥も混じっている。
ラリオーノフは数値化された記録も確認する。軽度の落ち込みすら確認できた。
どれも閾値未満だ。源泉圧の上昇もない。
ただ、収まらない。
「……何だ」
暗がりに声が落ちる。
体調不良ではない。監測環から医療上の通知もきていない。
彼女は行動するまでに一拍置く子です――ロザノワの声が脳裏に蘇る。
――一斉動作になると、合図への反応が遅れることがあります。
ラリオーノフは時間表示を見た。今日は日曜日だ。授業は何もない。
だが――日曜日だ。
指を空に滑らせる。学院の時間割を呼び出した。中等部一年A組を選択する。
月曜日。第一課程――身体基礎課程。
指先が止まる。
ラリオーノフは即座に過去の授業別反応記録を開く。
座学は安定している。数学では集中と軽度の高揚。理論魔術史では強い没入。物理基礎でも期待反応が見られる。
理解度に問題はない。
だが身体基礎課程の記録に変えると、分布が変わる。
持続した落ち込みに、焦りと羞恥が混じっている。
次に音楽基礎の記録を開く。
眉間に皺が寄った。
以前、確かにその時間に波形の乱れが起こっていた。だがあの日は、同期圧低下によって引き起こされた身体負荷反応の直後だった。
だから波形の乱れも、その余波だと処理していた。
だが今、身体基礎課程の記録と重ねると違って見える。
身体基礎も音楽基礎も、拍を必要とし、合図に従って周囲と動作を合わせる課程だ。
その二つで、似た情動低下が繰り返されている。
――偶然か。
ラリオーノフは身体基礎課程の記録映像を呼び出した。
展開された映像の中で、マシュは前列右から二番目にいる。
一人での姿勢保持は正確だ。迷いがない。
模倣動作が始まる。
合図を聞き、身体を動かす。形は正確だ。だが、わずかに遅れる。
次の合図で遅れが重なる。
一斉動作へ移った瞬間、その差が顕著になった。
周囲が次の動作へ移る頃、マシュはまだ前の動作を終えていない。慌てて追いつこうとし、隣の生徒にぶつかりかける。
マシュは一度だけ唇を噛み、再び前を向いた。
――できない理由を確かめる前に、遅れていることだけを叱っても仕方がありません。
ロザノワの言葉が蘇る。
ラリオーノフは映像を閉じなかった。
本当に、授業中だけの問題なのか。
ラリオーノフは学院構内の監視映像を呼び出す。マシュの特徴で検索し、動画を絞り込む。
昼の並木道が現れた。マシュが一人で歩いている。本を抱え、少し俯きがちだが、歩幅は安定している。
だが向かい側から自転車が近づいてくる。
マシュが避ける。
ラリオーノフは目を細めた。
反応が――遅い。
衝突には至らないが回避の開始が遅れている。
別の映像を呼び出す。渡り廊下だ。移動教室の生徒が行き交っている。
その人の流れに入ろうとして、マシュが足を止める。
周囲の生徒が自然に進む隙間を、彼女だけが捉え損ねていた。
半拍遅れて動き出す。
ぶつからなかったのは、向こうが避けたからだ。
ラリオーノフは映像を止めた。息を深く吐く。そのまま手を顔の前にやった。
魔力行使ではない。
飛行でもない。
彼女の困難はもっと手前にある。
だが、その遅延が源泉の挙動と関連しているかは分からない。
身体動作と源泉活動は、別々に記録されてきた。
少なくとも、自分はその二つを同時に検証していない。
端末の片隅では、マシュの情動波形が小さく揺れ続けている。
明日の第一課程。あの少女は今この瞬間も、失敗を予期しているのか。
あるいは、明日も同じことを繰り返すのが怖いのか。
個別通信――一瞬だけ浮かんだ考えを瞬時に振り払う。
必要はない。そう判断する。
考えが浮かんだ理由は追わなかった。
そのかわり、監視設定を開く。
管理対象個体:SACC-3126-04-FL-ST
優先監視対象課程――魔力行使実技。そこでラリオーノフの指が止まる。
僅かなしびれが指先に走る。
今まで、魔力行使を伴わない課程については、常時監測以上の設定を必要としなかった。
危険な出力も、急性逸脱も起きていない。
だが、記録には繰り返し同じ遅延が残されている。
――追加項目を開く。
自分の心が定まっているとは思えない。置き場所がここだとも思えない。
それでも触れる指先は止められない。
身体基礎課程、音楽基礎課程。それらの監視優先度を一段階引き上げる。
明日の第一課程から、動作映像と源泉波形を、同一の時間軸で照合するよう指定した。
承認させ、設定を反映させる。
青白い表示が静かに更新された。
ラリオーノフはしばらく、その画面を見つめていた。
これは、必要な処理だ――そう判断する。
端末の隅で、小さな波が立ち続けている。
記録は成立している。
基準も、そこにある。
それでも彼女は、周囲の拍に重なれない。
ラリオーノフは画面を閉じなかった。




