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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第二章
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十一 一拍の遅れ

 図書館の外に出た瞬間、光に目が眩んだ。

 封緘区の抑制された光量や、中央閲覧室の均一光とは全く違う。薄い雲を隔てて落ちてくる日差しは、輪郭があり、距離があり、温度がある。

 その逸脱がいまのラリオーノフには真っ直ぐに刺さってくる。

 痛い。痛くないのに、痛い。

 階段に足をかける。

 踏み外さない。重心は崩れていない。

 ――それでも、合っていない。

 基準に触れている感覚が、いつもよりわずかに遠い。

「制御官」

 背後から女性の声がした。ラリオーノフは振り返る。

「お休み中に、お声がけして申し訳ございません」

 階段の上にいたのはロザノワ教官だった。マシュの担任だ。簡素なコートを羽織っているが、姿勢に隙はない。肩には書類が入った鞄がある。靴も、手入れが行き届いていた。

 ラリオーノフの脳裏に、先日の会議が蘇った。

『軍の管理下に置かれたことで、彼女が学ぶ機会を失うことはありませんね』

 マシュの軍への管理移行が決まった席で、そう問いかけてきた女性だった。

「こちらでお会いするとは思いませんでした」

 ロザノワがゆっくりと階段を降りてくる。

「授業で使う資料を探しに来たのですが、ちょうどよかった」

 鞄を掛け直し、ラリオーノフを見る。

「マシュさんの授業について、一点確認させてください」

 ラリオーノフの喉の奥が強張る。

「……何でしょう」

「魔力実技以外の授業は、これまでどおり参加させてよろしいですね」

 風が細い音を鳴らして横切っていく。

「その方針に変更はありません」

「身体基礎も含めて、でしょうか」

「非魔力課程であれば、学院側の判断に任せます」

 ロザノワが頷く。

「承知しました。では、担当にはこちらから一言入れておきます」

 その言葉にラリオーノフは引っかかる。

「何か懸念があるのですか」

 ロザノワの視線が初めて逸らされた。だがそれは一瞬だった。

「……大きな問題ではありません」

 光が石畳の隙間に染み込んだ。

「以前も申し上げましたが、彼女は行動するまでに一拍置く子です」

 ラリオーノフは会議室でのやり取りを思い出した。

 ――自分が何をするのか、先に考えているのです。

「身体基礎でも同じ傾向が見られます。個別の動作は正確です。姿勢保持も悪くありません。ただ、一斉動作になると、合図への反応が遅れることがあります」

 ロザノワの瞳は落ち着いていた。共有したほうがよいと判断したのだろう。

「……同期不良ですか?」

 ロザノワが首を横に振る。

「そこまでは分かりません」

 二つの影が階段に伸びていく。

「ただ、本人は周囲に合わせようとしています。急いで動こうとして、かえって姿勢を崩すこともありますから」

 その言葉に、先ほど読んだ草稿が蘇る。


 ――外部基準への同期を介さない干渉減衰。

 ――外部基準に従属しない安定。


 背中からうなじまで、全ての産毛が下から順番に逆立っていくのを感じる。

 それでも、なんとか思い直す。

 身体動作の遅れと、源泉の位相安定は別の問題だ。

 関連を示す根拠はない。

「……本人は、そのことを自覚しているのですか」

「ええ。随分気にしているようです」

 ロザノワが小さく息を吐いた。

「できないことがあると、何度もやり直そうとします。ですが、無理に周囲へ合わせようとすると、かえって上手くいかないこともあるでしょう」

 ラリオーノフはマシュの立ち姿勢を思い出した。

 床から真っ直ぐに伸びた背筋。正確な重心。

 点火も、送風も、微小刺激への応答も、いずれも精密だった。

 ――潔癖なほどに。

「わかりました」

 声の端がわずかに力むのを感じる。

「身体基礎の担当には、接触事故への注意を促しておいてください」

「そのつもりです」

 ロザノワは頷いた。

「ただ、必要以上に課題から外すつもりもありません。あの子は、できるようになりたいのでしょうから」

「……集団課程である以上、一定の追従能力は必要でしょう」

「もちろんです」

 ロザノワは否定しなかった。

「ですが、できない理由を確かめる前に、遅れていることだけを叱っても仕方がありません」

 風が階段を横切った。

 彼女の声に、軍人のような鋭さはない。

 それでも揺るがず立ち続ける、確かな力強さがあった。

「……学院側で対応できるのであれば、任せます」

「ありがとうございます」

 ロザノワは小さく頭を下げた。

 図書館の白い壁に光が跳ね返る。

「制御官」

 ロザノワの輪郭が、わずかに空気に滲んでいた。

「彼女は授業を休みたいとは、一度も言いません」

 それは――ラリオーノフは何も答えられなかった。

「軍の判断を、私が決めることはできません。ですが、その結論がどうであれ、明日は来ます」

 その言葉に、ラリオーノフの体の重心が半歩ずれる。

「明日も授業があります。あの子の席も、教室にあります」

 ロザノワが鞄の紐を強く握った。

「担任として、そこは守っておきたいのです」

 それは教育の現場において、当然の判断だった。

 だが、その当然のことに、今は返すべき言葉が見つからない。

「……承知しました」

 ようやくそれだけ返す。

 ロザノワが会釈する。

「ありがとうございます。では、失礼します」

 踵を返し、迷いなく去っていく。

 ラリオーノフはしばらく動けなかった。


 一斉動作に遅れる。

 拍に乗れない。

 だが、個別の動作は正確だ。


 ――足元が揺れる。


 身体動作と源泉の位相安定。


 別の現象だ。

 同じ原因だと決めることはできない。

 だが、動作が遅れる瞬間、源泉がどう応答しているかは、まだ確かめていない。


 曇天の下でなお光は明るすぎた。

 ラリオーノフの足元に影が広がっていく。

 それは積み重なり続ける一拍の遅れのようだった。

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