十一 一拍の遅れ
図書館の外に出た瞬間、光に目が眩んだ。
封緘区の抑制された光量や、中央閲覧室の均一光とは全く違う。薄い雲を隔てて落ちてくる日差しは、輪郭があり、距離があり、温度がある。
その逸脱がいまのラリオーノフには真っ直ぐに刺さってくる。
痛い。痛くないのに、痛い。
階段に足をかける。
踏み外さない。重心は崩れていない。
――それでも、合っていない。
基準に触れている感覚が、いつもよりわずかに遠い。
「制御官」
背後から女性の声がした。ラリオーノフは振り返る。
「お休み中に、お声がけして申し訳ございません」
階段の上にいたのはロザノワ教官だった。マシュの担任だ。簡素なコートを羽織っているが、姿勢に隙はない。肩には書類が入った鞄がある。靴も、手入れが行き届いていた。
ラリオーノフの脳裏に、先日の会議が蘇った。
『軍の管理下に置かれたことで、彼女が学ぶ機会を失うことはありませんね』
マシュの軍への管理移行が決まった席で、そう問いかけてきた女性だった。
「こちらでお会いするとは思いませんでした」
ロザノワがゆっくりと階段を降りてくる。
「授業で使う資料を探しに来たのですが、ちょうどよかった」
鞄を掛け直し、ラリオーノフを見る。
「マシュさんの授業について、一点確認させてください」
ラリオーノフの喉の奥が強張る。
「……何でしょう」
「魔力実技以外の授業は、これまでどおり参加させてよろしいですね」
風が細い音を鳴らして横切っていく。
「その方針に変更はありません」
「身体基礎も含めて、でしょうか」
「非魔力課程であれば、学院側の判断に任せます」
ロザノワが頷く。
「承知しました。では、担当にはこちらから一言入れておきます」
その言葉にラリオーノフは引っかかる。
「何か懸念があるのですか」
ロザノワの視線が初めて逸らされた。だがそれは一瞬だった。
「……大きな問題ではありません」
光が石畳の隙間に染み込んだ。
「以前も申し上げましたが、彼女は行動するまでに一拍置く子です」
ラリオーノフは会議室でのやり取りを思い出した。
――自分が何をするのか、先に考えているのです。
「身体基礎でも同じ傾向が見られます。個別の動作は正確です。姿勢保持も悪くありません。ただ、一斉動作になると、合図への反応が遅れることがあります」
ロザノワの瞳は落ち着いていた。共有したほうがよいと判断したのだろう。
「……同期不良ですか?」
ロザノワが首を横に振る。
「そこまでは分かりません」
二つの影が階段に伸びていく。
「ただ、本人は周囲に合わせようとしています。急いで動こうとして、かえって姿勢を崩すこともありますから」
その言葉に、先ほど読んだ草稿が蘇る。
――外部基準への同期を介さない干渉減衰。
――外部基準に従属しない安定。
背中からうなじまで、全ての産毛が下から順番に逆立っていくのを感じる。
それでも、なんとか思い直す。
身体動作の遅れと、源泉の位相安定は別の問題だ。
関連を示す根拠はない。
「……本人は、そのことを自覚しているのですか」
「ええ。随分気にしているようです」
ロザノワが小さく息を吐いた。
「できないことがあると、何度もやり直そうとします。ですが、無理に周囲へ合わせようとすると、かえって上手くいかないこともあるでしょう」
ラリオーノフはマシュの立ち姿勢を思い出した。
床から真っ直ぐに伸びた背筋。正確な重心。
点火も、送風も、微小刺激への応答も、いずれも精密だった。
――潔癖なほどに。
「わかりました」
声の端がわずかに力むのを感じる。
「身体基礎の担当には、接触事故への注意を促しておいてください」
「そのつもりです」
ロザノワは頷いた。
「ただ、必要以上に課題から外すつもりもありません。あの子は、できるようになりたいのでしょうから」
「……集団課程である以上、一定の追従能力は必要でしょう」
「もちろんです」
ロザノワは否定しなかった。
「ですが、できない理由を確かめる前に、遅れていることだけを叱っても仕方がありません」
風が階段を横切った。
彼女の声に、軍人のような鋭さはない。
それでも揺るがず立ち続ける、確かな力強さがあった。
「……学院側で対応できるのであれば、任せます」
「ありがとうございます」
ロザノワは小さく頭を下げた。
図書館の白い壁に光が跳ね返る。
「制御官」
ロザノワの輪郭が、わずかに空気に滲んでいた。
「彼女は授業を休みたいとは、一度も言いません」
それは――ラリオーノフは何も答えられなかった。
「軍の判断を、私が決めることはできません。ですが、その結論がどうであれ、明日は来ます」
その言葉に、ラリオーノフの体の重心が半歩ずれる。
「明日も授業があります。あの子の席も、教室にあります」
ロザノワが鞄の紐を強く握った。
「担任として、そこは守っておきたいのです」
それは教育の現場において、当然の判断だった。
だが、その当然のことに、今は返すべき言葉が見つからない。
「……承知しました」
ようやくそれだけ返す。
ロザノワが会釈する。
「ありがとうございます。では、失礼します」
踵を返し、迷いなく去っていく。
ラリオーノフはしばらく動けなかった。
一斉動作に遅れる。
拍に乗れない。
だが、個別の動作は正確だ。
――足元が揺れる。
身体動作と源泉の位相安定。
別の現象だ。
同じ原因だと決めることはできない。
だが、動作が遅れる瞬間、源泉がどう応答しているかは、まだ確かめていない。
曇天の下でなお光は明るすぎた。
ラリオーノフの足元に影が広がっていく。
それは積み重なり続ける一拍の遅れのようだった。




