八 五センチメートルの猶予
帝国標準時間、午前十時。
第三屋内演習場は静かだ。
ラリオーノフは制御盤の端に、学院全体の記録を展開させる。
土曜日の学院は波形が薄い。平日ならば学生たちの情動が結界に細かな皺を作る時間帯だが、今日はほとんど揺れがない。結界は水面のように平らに沈み、空気は乾いている。
重い扉が開く音が響いた。
顔を上げると、マシュが全身を使って扉を閉めていた。
「おはようございます、制御官」
マシュが振り返ってくる。金色の瞳は昨日よりも明るく輝いていた。
ラリオーノフの胸の奥が、わずかに詰まる。
「ああ」
短く返しながら、マシュの様子を確認する。
頬には血色が戻っている。瞼も腫れていない。足取りは確かで、呼吸も安定していた。
――休息はとれている。
視界の端では情動波形が細かく揺れている。軽度の緊張はあるが、昨日ほどの乱れはない。
「――通信には、波形を分析しているとあった」
「はい」
快活な返事が響く。
マシュが端末を操作した。赤銅色の源泉波形と、細かな文字で埋め尽くされた手書きのメモが展開される。
「まず、わたしの主周波数は帝国標準より高い帯域にあります」
小さな指がスペクトルの一峰を指した。
「しかも、副周波数の成分が複数あって、その強度が主成分とあまり変わらないんです」
指が次の山へ移る。
「制御官の源泉にも副周波数はあります。でも、主成分と比べるとずっと小さい」
マシュはラリオーノフの顔色を伺わなかった。その視線は真っ直ぐに記録を見つめている。
「おそらく、帝国標準の補正は主周波数を基準にしています。だから、わたしの副周波数はうまく追従できないのではないでしょうか」
マシュの瞳に赤銅色の波が映る。
「それぞれの成分が独立して応答しているように見えます」
マシュが別の記録を開いた。
「しかも出力帯域が広くて、減衰も弱い。刺激に対する応答が速すぎるんです」
言葉に澱みがない。
「おそらく、どの周波数成分も基準点を探してもがいちゃうんです。わたしの身体の中では、いろんなタイミングで、たくさんの計算が同時に起こっちゃうのかなと思いました」
マシュの鼻の穴がひらく。
「だからノイズを拾いやすく、揺れやすいんです」
頬が紅潮していく。
だがラリオーノフの頭の中に浮かぶのは、別の資料だった。
高反応。高出力。そして広帯域――
兵器化適性。
「ですから!」
マシュの声が、明るく響いた。
「わたしが仲良くすべきはこの副周波数です!」
マシュの指が並んだ二つの山を勢いよく示す。
眉は勇ましくつり上がっている。口は喜びを堪えきれないように震えていた。
まるで難しい問題を解いたとでも言いたげな、達成感と自信に溢れた表情だった。
その顔つきに、ラリオーノフの呼吸が一拍ずれた。
怖くはないのか。
心の中に落ちた言葉に手が一瞬だけ震える。
今、この少女は、自分の異常を、解かなければならない問題として見ている。
ラリオーノフの心臓を圧してくるのは、見えない銃口の重みだった。
マシュが期待を込めた顔でラリオーノフを見上げてくる。無彩色の演習場で、赤銅色の髪だけがやけに鮮やかだった。
ラリオーノフは拳も握らない。端末を支える腕の力も変えない。
「具体的対策」
ただ短く問う。
マシュは怯まない。笑顔の重みが増す。
「演算円を展開してください」
金色の瞳はただ輝くだけではなかった。そこにはマシュの胸の奥の光が溢れてきていた。
「昨日、一瞬だけ世界が静かになったんです」
その言葉はラリオーノフの胸に真っ直ぐに飛び込んできた。
思わず意味を聞き返したくなる。
「この部分です」
ラリオーノフが口を開くより早く、マシュが昨日の記録を指さす。
そこではマシュとラリオーノフの波形が重なりあっていた。
自分の銀色の波形に添う赤銅色の波。
マリーニンへの報告のときに提示したデータ。
だが――何故かそれ以上の価値を感じてしまう瞬間だ。
「制御官が基準を一つにしてくれたからだと思います」
マシュが微笑んだ。
「この感覚を、自分で再現したいんです」
ラリオーノフは記録を見つめた。
昨日、出力を上げる前に成立していた、短い共振。
再現可能性はある。
「……わかった」
ラリオーノフは昨日と同じく、演算円への帝国標準の同期基準入力を切断した。
自身の主周波数を単一基準に設定し、演算円を起動させる。銀色の光が床を走った。
「中央へ」
「はい!」
マシュが小走りで中央へ向かう。
光の中で前髪がわずかに逆立ち、白い額が覗いた。
箒が構えられる。昨日と同じ姿勢だが、指先に余計な力はない。
「出力するな」
ラリオーノフは言う。
「観測しろ」
マシュが目を閉じた。
呼吸。――四拍。
ラリオーノフは自身の主周波数を固定した。
マシュの源泉が応答する。
赤銅色の波が、ゆっくりと立ち上がった。
昨日のような急激な出力上昇はない。
源泉は流れている。
主周波数が焦ることのない、緩やかな勢いで立ち上がる。
副周波数は待機。
だが、次の成分が立ち上がる位置がわずかに早い。
――このままでは、また追従を失う。
ラリオーノフは補助制御欄を開いた。
指先が一度だけ動く。
微細な補助値が入力され、銀色の演算円がかすかに瞬いた。
マシュの呼吸は変わらない。
赤銅色の副周波数が立ち上がる。
今度は、基線から外れなかった。
「……いまですか?」
マシュが目を閉じたまま尋ねた。
「まだだ」
ラリオーノフは波形を追う。
主周波数と副周波数。そしてマシュの身体と箒。四つの応答が一つの系へ収束していく。
ラリオーノフは待つ。数値が回転する。波形が安定する。――一拍待つ。
今だ。
「出力しろ」
マシュの足元で、空気が震えた。
箒が浮く。
靴底が床から離れる。
一センチ。
二センチ。
三センチ。
ラリオーノフは端末を確認する。
出力正常。
減衰も維持。
箒への入力は安定している。
四センチ。
五センチ。
――止まった。
波形は崩れていない。
失効していない。
「……浮いてます」
マシュが目を開いた。
自分の足元を見下ろし、瞬きをした。
「浮いてます」
もう一度言う。信じられないというように、足元を見つめる。
それから勢いよく顔を上げた。
「制御官」
声が弾んでいる。顔中が発光したような笑顔が、ラリオーノフに向けられた。
「やりました!」
ラリオーノフは頷く。
「維持しろ」
「はい!」
一秒。
二秒。
三秒。
マシュの呼吸が続く。
四秒。
波形は乱れない。赤銅色の波形は銀色の基線に沿って流れている。
五秒。
「――終了」
出力が緩やかに落ちる。
箒が下がり、靴底が床に触れた。
小さな音が響く。
マシュはしばらくその場に立っていた。
足元を見る。
顔がみるみるうちに明るくなった。
「やったーーーーっ!」
声が弾けた。
壁の吸音材に震えが走る。
マシュが飛び跳ねる。
「できました! ちゃんと成立しました!」
何度も跳ねる。背中の三つ編みも大きく揺れた。
ラリオーノフは端末を確認する。
「高度五センチ、保持五秒クリア」
ラリオーノフは端末を操作する。
姿勢破綻なし。制御官補助、一回。緊急介入なし。
記録に異常はない。
――成立。
ラリオーノフは結果を保存する。
「初回安定浮遊を確認」
「はい!」
「本官の主周波数を基準とした共振が成立した」
マシュはまだ笑っている。
ラリオーノフは記録を本部へ送信した。
「次の段階へ進む」
マシュの背筋が伸びた。
「試験までの訓練計画を確認する」
端末を操作する。週単位で組まれた軍式制御訓練計画が、演算円の上に展開された。
「以前送ったものに修正を加えた」
マシュの端末にも情報を送信する。
「七月の飛行試験に合わせてある」
期末試験の最終日に行われる大規模高出力演習試験。マシュの進退はそこで決まる。
「中等部一年の到達目標は、高度五メートルでの姿勢保持三十秒、水平飛行五十メートル。加えて、方向転換と安全な着地だ」
「はい」
マシュの返事に、恐れはなかった。
「本日の浮遊だけでは、試験の到達目標を満たさない」
「はい」
「必要なのは、継続して安定した出力を維持する能力だ」
「はい」
迷いのない返事だ。
ラリオーノフはマシュを見る。
「達成できるか」
マシュが箒を握り直す。
「やれます」
その言葉には静かな覚悟が含まれていた。
だがラリオーノフの胸に、鈍い重みが落ちた。
彼女は未来を信じている。
訓練を重ねれば、飛べる。
飛べれば、試験に合格できる。
試験に合格すれば、この学院で学び続けられる。
その先には、望んだ未来がある。
ラリオーノフは息を吐くかわりに端末を閉じる。
飛行試験まで八週間。
その試験はただの成績の記録ではない。
軍事転用。兵器化適性。そして――ラリオーノフは端末を持つ手に力を込める。
彼女は知らない。
知らなくていい。
知らせるべきではない。
言わなくてもいい言葉は決して口に出さない。
「制御官」
呼ばれて顔を上げる。マシュが箒を抱えていた。
「もう一度、やってもよろしいですか?」
金色の瞳がこちらを見つめてくる。声は純粋だ。
そこには次を知りたいという欲求だけがあった。
ラリオーノフは制御盤へ指を置く。
「……位置につけ」
「はい!」
演算円が再起動する。
銀色の光が広がる。
その中央で、赤銅色の波形が再び立ち上がった。




