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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第二章
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八 五センチメートルの猶予

 帝国標準時間、午前十時。

 第三屋内演習場は静かだ。

 ラリオーノフは制御盤の端に、学院全体の記録を展開させる。

 土曜日の学院は波形が薄い。平日ならば学生たちの情動が結界に細かな皺を作る時間帯だが、今日はほとんど揺れがない。結界は水面のように平らに沈み、空気は乾いている。

 重い扉が開く音が響いた。

 顔を上げると、マシュが全身を使って扉を閉めていた。

「おはようございます、制御官」

 マシュが振り返ってくる。金色の瞳は昨日よりも明るく輝いていた。

 ラリオーノフの胸の奥が、わずかに詰まる。

「ああ」

 短く返しながら、マシュの様子を確認する。

 頬には血色が戻っている。瞼も腫れていない。足取りは確かで、呼吸も安定していた。

 ――休息はとれている。

 視界の端では情動波形が細かく揺れている。軽度の緊張はあるが、昨日ほどの乱れはない。

「――通信には、波形を分析しているとあった」

「はい」

 快活な返事が響く。

 マシュが端末を操作した。赤銅色の源泉波形と、細かな文字で埋め尽くされた手書きのメモが展開される。

「まず、わたしの主周波数は帝国標準より高い帯域にあります」

 小さな指がスペクトルの一峰を指した。

「しかも、副周波数の成分が複数あって、その強度が主成分とあまり変わらないんです」

 指が次の山へ移る。

「制御官の源泉にも副周波数はあります。でも、主成分と比べるとずっと小さい」

 マシュはラリオーノフの顔色を伺わなかった。その視線は真っ直ぐに記録を見つめている。

「おそらく、帝国標準の補正は主周波数を基準にしています。だから、わたしの副周波数はうまく追従できないのではないでしょうか」

 マシュの瞳に赤銅色の波が映る。


「それぞれの成分が独立して応答しているように見えます」


 マシュが別の記録を開いた。

「しかも出力帯域が広くて、減衰も弱い。刺激に対する応答が速すぎるんです」

 言葉に澱みがない。

「おそらく、どの周波数成分も基準点を探してもがいちゃうんです。わたしの身体の中では、いろんなタイミングで、たくさんの計算が同時に起こっちゃうのかなと思いました」

 マシュの鼻の穴がひらく。

「だからノイズを拾いやすく、揺れやすいんです」

 頬が紅潮していく。

 だがラリオーノフの頭の中に浮かぶのは、別の資料だった。

 高反応。高出力。そして広帯域――

 

 兵器化適性。


「ですから!」

 マシュの声が、明るく響いた。


「わたしが仲良くすべきはこの副周波数です!」


 マシュの指が並んだ二つの山を勢いよく示す。

 眉は勇ましくつり上がっている。口は喜びを堪えきれないように震えていた。

 まるで難しい問題を解いたとでも言いたげな、達成感と自信に溢れた表情だった。

 その顔つきに、ラリオーノフの呼吸が一拍ずれた。

 怖くはないのか。


 心の中に落ちた言葉に手が一瞬だけ震える。


 今、この少女は、自分の異常を、解かなければならない問題として見ている。


 ラリオーノフの心臓を圧してくるのは、見えない銃口の重みだった。

 マシュが期待を込めた顔でラリオーノフを見上げてくる。無彩色の演習場で、赤銅色の髪だけがやけに鮮やかだった。

 ラリオーノフは拳も握らない。端末を支える腕の力も変えない。

「具体的対策」

 ただ短く問う。

 マシュは怯まない。笑顔の重みが増す。

「演算円を展開してください」

 金色の瞳はただ輝くだけではなかった。そこにはマシュの胸の奥の光が溢れてきていた。


「昨日、一瞬だけ世界が静かになったんです」


 その言葉はラリオーノフの胸に真っ直ぐに飛び込んできた。

 思わず意味を聞き返したくなる。

「この部分です」

 ラリオーノフが口を開くより早く、マシュが昨日の記録を指さす。

 そこではマシュとラリオーノフの波形が重なりあっていた。

 自分の銀色の波形に添う赤銅色の波。

 マリーニンへの報告のときに提示したデータ。


 だが――何故かそれ以上の価値を感じてしまう瞬間だ。


「制御官が基準を一つにしてくれたからだと思います」

 マシュが微笑んだ。

「この感覚を、自分で再現したいんです」

 ラリオーノフは記録を見つめた。

 昨日、出力を上げる前に成立していた、短い共振。


 再現可能性はある。


「……わかった」

 ラリオーノフは昨日と同じく、演算円への帝国標準の同期基準入力を切断した。

 自身の主周波数を単一基準に設定し、演算円を起動させる。銀色の光が床を走った。

「中央へ」

「はい!」

 マシュが小走りで中央へ向かう。

 光の中で前髪がわずかに逆立ち、白い額が覗いた。

 箒が構えられる。昨日と同じ姿勢だが、指先に余計な力はない。

「出力するな」

 ラリオーノフは言う。

「観測しろ」

 マシュが目を閉じた。

 呼吸。――四拍。

 ラリオーノフは自身の主周波数を固定した。

 マシュの源泉が応答する。

 赤銅色の波が、ゆっくりと立ち上がった。

 昨日のような急激な出力上昇はない。

 源泉は流れている。

 主周波数が焦ることのない、緩やかな勢いで立ち上がる。

 副周波数は待機。


 だが、次の成分が立ち上がる位置がわずかに早い。


 ――このままでは、また追従を失う。


 ラリオーノフは補助制御欄を開いた。

 指先が一度だけ動く。

 微細な補助値が入力され、銀色の演算円がかすかに瞬いた。

 マシュの呼吸は変わらない。


 赤銅色の副周波数が立ち上がる。


 今度は、基線から外れなかった。


「……いまですか?」

 マシュが目を閉じたまま尋ねた。

「まだだ」

 ラリオーノフは波形を追う。

 主周波数と副周波数。そしてマシュの身体と箒。四つの応答が一つの系へ収束していく。

 ラリオーノフは待つ。数値が回転する。波形が安定する。――一拍待つ。


 今だ。

 

「出力しろ」

 マシュの足元で、空気が震えた。

 箒が浮く。

 靴底が床から離れる。

 一センチ。

 二センチ。

 三センチ。

 ラリオーノフは端末を確認する。

 出力正常。

 減衰も維持。

 箒への入力は安定している。

 四センチ。

 五センチ。


 ――止まった。


 波形は崩れていない。

 

 失効していない。

 

「……浮いてます」


 マシュが目を開いた。

 自分の足元を見下ろし、瞬きをした。

「浮いてます」

 もう一度言う。信じられないというように、足元を見つめる。

 それから勢いよく顔を上げた。

「制御官」

 声が弾んでいる。顔中が発光したような笑顔が、ラリオーノフに向けられた。

「やりました!」

 ラリオーノフは頷く。

「維持しろ」

「はい!」

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 マシュの呼吸が続く。

 四秒。

 波形は乱れない。赤銅色の波形は銀色の基線に沿って流れている。

 五秒。

「――終了」

 出力が緩やかに落ちる。

 箒が下がり、靴底が床に触れた。

 小さな音が響く。

 マシュはしばらくその場に立っていた。

 足元を見る。

 顔がみるみるうちに明るくなった。


「やったーーーーっ!」


 声が弾けた。

 壁の吸音材に震えが走る。

 マシュが飛び跳ねる。

「できました! ちゃんと成立しました!」

 何度も跳ねる。背中の三つ編みも大きく揺れた。

 ラリオーノフは端末を確認する。

「高度五センチ、保持五秒クリア」

 ラリオーノフは端末を操作する。


 姿勢破綻なし。制御官補助、一回。緊急介入なし。


 記録に異常はない。

 ――成立。

 ラリオーノフは結果を保存する。

「初回安定浮遊を確認」

「はい!」

「本官の主周波数を基準とした共振が成立した」

 マシュはまだ笑っている。

 ラリオーノフは記録を本部へ送信した。

「次の段階へ進む」

 マシュの背筋が伸びた。

「試験までの訓練計画を確認する」

 端末を操作する。週単位で組まれた軍式制御訓練計画が、演算円の上に展開された。

「以前送ったものに修正を加えた」

 マシュの端末にも情報を送信する。

「七月の飛行試験に合わせてある」

 期末試験の最終日に行われる大規模高出力演習試験。マシュの進退はそこで決まる。


「中等部一年の到達目標は、高度五メートルでの姿勢保持三十秒、水平飛行五十メートル。加えて、方向転換と安全な着地だ」


「はい」

 マシュの返事に、恐れはなかった。

「本日の浮遊だけでは、試験の到達目標を満たさない」

「はい」

「必要なのは、継続して安定した出力を維持する能力だ」

「はい」

 迷いのない返事だ。

 ラリオーノフはマシュを見る。

「達成できるか」

 マシュが箒を握り直す。


「やれます」


 その言葉には静かな覚悟が含まれていた。

 だがラリオーノフの胸に、鈍い重みが落ちた。


 彼女は未来を信じている。

 

 訓練を重ねれば、飛べる。

 飛べれば、試験に合格できる。

 試験に合格すれば、この学院で学び続けられる。


 その先には、望んだ未来がある。


 ラリオーノフは息を吐くかわりに端末を閉じる。

 飛行試験まで八週間。

 その試験はただの成績の記録ではない。

 軍事転用。兵器化適性。そして――ラリオーノフは端末を持つ手に力を込める。

 

 彼女は知らない。

 知らなくていい。

 知らせるべきではない。

 

 言わなくてもいい言葉は決して口に出さない。

 

「制御官」

 呼ばれて顔を上げる。マシュが箒を抱えていた。

「もう一度、やってもよろしいですか?」

 金色の瞳がこちらを見つめてくる。声は純粋だ。

 そこには次を知りたいという欲求だけがあった。

 ラリオーノフは制御盤へ指を置く。

「……位置につけ」

「はい!」

 演算円が再起動する。

 銀色の光が広がる。

 その中央で、赤銅色の波形が再び立ち上がった。

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