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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第二章
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16/40

七 紛争の火種

 帝国標準時間、午後六時三十分。

 ラリオーノフは補助制御室で、学院全体の波形を見つめていた。ほとんどの学生は帰寮している。結界の異常なし。急性逸脱の兆候なし。観測範囲内の源泉は、いずれも帝国標準に従っていた。

 端末が鳴る。視界の端に通知が一つ点灯した。

 管理区ゲート通過。

 魔力署名認証完了。

 個体名――マシュ

 ラリオーノフは一瞬だけ目を閉じた。

 胸の奥で滞っていた重いものが、わずかに沈む。

 続いて通信内容が開いた。

 マシュからの自発コメントだ。


【管理区個体通信ログ】

 こんばんは。お疲れさまです。

 マシュです。

 いま帰宅しました。

 図書館で調べ物をしていたら遅くなってしまいました。

 今日はありがとうございました。送っていただいた波形をいま分析しています。

 明日も宜しくお願いいたします。


 それだけだった。

 絵文字も顔文字もない。業務連絡というには個人的で、私信というには礼儀正しすぎる。

 情動波形には、細かな揺らぎがある。軽度の緊張。

 ラリオーノフはしばらく端末を閉じなかった。

 ――自分が何かを返そうとしていることに気がついた。

 だが何を返す必要がある。帰宅は確認できた。明日以降の訓練予定も渡している。

 空調の低いうねりが床に吸収されていく。

 返信欄に指が触れる。


 受信確認。


 送信する。

 マシュの情動波形が、わずかに跳ねた。だがすぐに振幅を狭め、安定する。

 心拍正常。呼吸安定。

 ラリオーノフは眉をひそめる。

 この一瞬で何らかの情動反応が生じた。しかし急性逸脱には至っていない。

 自力で安定を取り戻している。

 ――ならば介入は不要だ。

 端末を閉じる。

 だが視界には、演習時のあの波形が残っていた。恐怖に呼応して乱れた、赤銅色の波形だ。

 

 帝国標準ではない。

 

 あれは、ただ一人の人間の振動だ――

 

 不意に、肺に水が溜まったような息苦しさに襲われた。ラリオーノフは額に指をやり、俯く。

 夕刻の会議で聞いた言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 ――資源だ。


 塊になった息を吐き出し、作業を開始する。

 マシュの記録は軍だけでなく、帝国中枢の複数の機関へ送信されている。監測環から収集される情報も、ラリオーノフの端末だけが受信しているわけではない。


 あらゆる部署が、マシュの源泉について詳細を求めてきている。


 集団結界破壊能力の有無。対人干渉距離。源泉連続稼働時間。失効時の被害半径。無意識発振、集団同期攪乱、自己制御能力評価。


 そして――兵器化適性。


 ラリオーノフは指先に力が集まるのを感じた。

 意識直結なら、報告は一瞬で済む。

 だが、それは使わない。

 手動入力盤を展開する。

 思考と記録のあいだに、指先を挟む。

 

 兵器化適性評価:現段階では判定保留。

 理由:標準同期系への安定接続が未成立のため。


 送信する。

 虚偽ではない。

 だが、それで終わるとも思えなかった。

 ラリオーノフは天井を仰ぐ。白い光に目を射られた。

 目を閉じようとした瞬間、通信通知が鳴る。意識が引き戻される。

 発信元を確認する。


 帝国魔導理学研究院、源泉構造解析部


 ラリオーノフは、迷わず回線を開いた。

「よぉ、セルゲイ」

 いきなり無精髭の男が、画面いっぱいに映った。

 黒縁眼鏡は鼻梁の途中までずり落ち、髪は四方へ跳ねている。眠っていないのか、眠ったばかりなのか分からない顔だ。

「例の人形、受け取ったぜ」

 男が映像を切り替えた。

 卓上ライトだけが灯る研究室が映し出される。

 工具、魔導パーツ、小型ドライバー。解体途中の機構部品と未完成の模型が机を占領し、その隙間にレトルト食品とエナジードリンクの空容器が積み上げられている。

 男の手が画面に入り、空容器を横へ押しやった。金属音が鳴る。

「……片づけろ」

 ラリオーノフは眉間に指をやる。

「お前との通信なのに片づける必要がどこにある」

 男は悪びれもしない。工具なのか部品なのか分からないものを、どんどん掻き分けていく。


 その先に布人形があった。


 橙色の毛糸の髪に、緑のボタンの瞳。白いワンピースを着て微笑んでいる。マシュが大切にしていた人形だ。壁に背を預け、小さな足を前に伸ばして座っている。

 男が人形を持ち上げた。

 意外なほど、丁寧な手つきだった。

 人形の頭を支えながら、男がカメラへ近づける。

「ざっとスキャンした。危険な呪具化反応はない」

「そうか」

「表面上は、な」

 人形の裏側から男の顔が覗く。

 ラリオーノフの端末がファイルを受信した。眼前に解析記録が展開される。

 魔力残留署名。

 残留情動反応。

 源泉共鳴指数。

 

 いずれも、検出値は異様なほど低かった。


「……なんだ、これは」

「面白ぇだろ?」

 男が嬉しそうに笑う。その太い指が波形をなぞった。

「魔力残留署名、検出なし。作り手の署名も拾えねぇ。情動の残留も測定限界以下」

 数値を拡大する。

「十年以上前のもんだろ。持ち主が相当大事にしてたって話も聞いてる。なのに、こいつには何も残ってねぇんだよ」

 男が指先で波形を叩く。

「ノイズがない」

 次の記録を開く。

「減衰層もない」

 男が眼鏡を押し上げた。

「お前」

 ラリオーノフを見る男の目の下が弓形になり、唇の片側だけが吊り上がった。

「とんでもねぇもの、送りつけてきやがったな」

 画面の向こう側の暗がりが深みを増す。

「呪具化はしていないが――」

「綺麗すぎる」

 ラリオーノフは答える。

「ご名答」

 男が楽しげに次の数値を表示させる。


「源泉共鳴指数――〇・〇〇〇〇〇二」

 

 ラリオーノフは思わず画面を凝視した。

 あり得ない。

 マシュは長年、この人形を手元に置いていた。あれほど強大な源泉に、何年も曝されていたはずだ。


 その痕跡が、ほとんど存在しない。


「お前も分かるだろ」

 男の声が弾んだ。

「こいつ、空っぽなんだよ」

 人形の緑の目が画面いっぱいに近づけられる。

「規格外のお嬢ちゃんとの思い出すら、残っちゃいねぇ」

 男が人形を机に戻した。

 今度は、倒れないように小さな背中を支える。

「とんでもねぇな」

 男の声が上擦った。

「考えられるのは二つだ」

 画面越しに指が一本立てられる。

「誰かが意図的に洗浄《クリーニング》した」

 ラリオーノフの喉が冷えた。

「あるいは、最初から共鳴を拒んでいる」

 二本目の指が立った。

 

 思念洗浄。


 それは、マシュが所持していた蔵書群にも疑われている処理。


 だが――ラリオーノフは考え込む。この人形はさらに不可解だ。

 洗浄したなら、その処理自体の痕跡はどこにある。

 最初から共鳴を拒んでいるなら、どうやってその処置を施した。

 通常の魔力遮断素材ではない。

 減衰層もない。

 

 なのに、何も残らない。


「それは……」

 組んだ腕に力をこめる。

「技術的に可能なのか」

「だから面白ぇんだろ」

 男は当然のように答えた。そのまま机の上の人形の頭を撫でる。

 ラリオーノフは息を吐く。

 昔から何も変わらない。


 この男にとって、説明できないことは忌避すべき異常ではないのだ。


 研究対象だ。

 むしろ、説明できないものほど喜ぶ。

「レフ」

 男は人形から目を離さない。

「ん?」

「位相境界解析に回せるか」

「もう依頼した」

 答えながら、レフは人形の毛糸を指先でより分けていた。

「……早いな」

「お前が言う前にやるだろ、普通」

「普通ではない」

「知ってる」

 レフが笑った。

「時間はかかるぜ。残留署名が拾えねぇ以上、通常の追跡解析じゃ埒が明かねぇ」

「構わない」

 ラリオーノフは椅子の背へ身体を預けた。

 補助制御室の白い光が、妙に眩しく感じられた。

「セルゲイ」

 レフの声が、少し低くなった。

「もう一つさぁ、気になることがあんだよ」

 レフは人形の髪を三つ編みにし始めていた。

「何だ」

「この人形な――」

 背後で、自動扉が開いた。

「通信中、失礼いたします」

 軽やかな声が響く。

 ヴァイマンだった。

 ラリオーノフが振り返ると、整った敬礼が返ってきた。

「研究院の回線が開いているようでしたので」

 ヴァイマンの視線が、ラリオーノフの背後に浮かぶ映像に向けられる。

「興味が湧きまして」

 人懐こそうな笑顔が作られる。

「規格外個体の件ですよね」

 レフが画面の中で黙った。暗がりのなか、卓上ライトの光だけがその髭面の輪郭を縁取っている。

「へぇ」

 妙に楽しげな声だった。レフが腕を頭の上で組み、背中を反らす。

「ヴァイマン家の御曹司《ボンボン》か」

 ヴァイマンの眉が、ほんのわずか動いた。

「噂は聞いてるぜ」

 レフが煽るように首を傾ける。作りかけなのか解体したのか分からないプラモの部品が転がった。

「なかなか胡散臭い顔してるな」

 一瞬、補助制御室の温度が下がった。だがヴァイマンの微笑は崩れない。

「初対面で随分な評価ですね」

 その言葉に、レフが肩をすくめる。

「第一印象は大体当たる」

「それは興味深い。統計的な根拠が?」

「ねぇよ」

 ヴァイマンとレフの視線が確かに交差した。

「……レフ」

 ラリオーノフは割って入る。

「余計なことを言うな」

「なんでだよ」

 レフが椅子を漕ぐ。

「こういう顔の奴はな」

 指が画面越しにヴァイマンに向けられた。

「大体、頭はいい」

 空調の音が壁に吸収されていく。ヴァイマンの口角が少し上がる。

「光栄ですね。外れていないことを祈りたい」

 レフが椅子を起こした。

「おっ」

 目が見開き、歯が見えた。

「言うじゃねぇか」

 指がもう一度ヴァイマンに向けられた。

「気に入った」

 ヴァイマンの微笑は相変わらずだった。

 だがラリオーノフには、その目は今までよりも少し明るいものに見えた。

 眉間に指をやる。

「――レフ」

 ラリオーノフは低く呼んだ。

 レフが、ようやくこちらを見る。

「安心しろ。セルゲイ」

 何を安心しろというのか。この一拍外れた感性も、直球で人の神経を逆撫でしてくるところも、学生時代から変わらない。

「話を戻してやる」

 レフが人形を抱き上げる。その笑みがわずかに変わった。

「洗浄か遮断か。それはまだ分からねぇ」

 人形を支える指先が、縫い目をなぞる。

「ただな、セルゲイ」

 腫れぼったい目が、暗がりからこちらを見つめてくる。

「こいつを作った奴は――」

 その目つきの奥には、構造の裏側にすら切り込む鋭さが宿っていた。


「人間じゃねぇ」


「――どういう意味だ」

 レフがにやりと笑った。

「俺らができる作り方じゃねぇって意味」

 人形の目がラリオーノフを見つめる。

「続きは解析が済んでからな」


 一方的に通信が切れた。


 暗い研究室が消え、補助制御室の白色光だけが残る。

 ラリオーノフはしばらく、何も言わなかった。

「……すごい人ですね」

 ヴァイマンが、ようやく口を開いた。

 感心しているのか、呆れているのか分からない声だった。

「帝国魔導理学研究院、レフ・ミハイロヴィチ・ティモシェンコ主任研究員」

 ヴァイマンは通信が消えた空間を見る。

「大尉の学院時代の同期ですね」

「……そうだ」

「噂に違わぬ変人でした」

 ラリオーノフは端末を閉じた。

「……知っているのか」

「もちろん」

 ヴァイマンが微笑む。

「源泉構造解析の第一人者。飛び級で学院を卒業し、異例の速さで研究院の主任に就いた人物です」

 ほんの少し、楽しそうに続ける。

「帝国で最も危険な研究者、とも聞きます」

 ラリオーノフは答えなかった。

 光が広がる真っ白な空間に、レフの顔を思い出す。

 未知の現象を前にして、喜びを隠そうともしない顔。

 昔から変わらない。


 あの男には、真理以外のものが見えていない瞬間がある。


「嫌いじゃないですよ」

 ヴァイマンの声が、少しだけ自然になった。

「それより、大尉」

 ヴァイマンの視線がラリオーノフの端末に向けられた。

「人形の話です」

 その表情は、もう社交用のものではなかった。

「人間じゃない、でしたっけ」

 その言葉にラリオーノフは自分のこめかみがひきつるのを感じる。手触りの悪い手袋で、胸の裏側を撫でられたような気持ちになる。

「……人の手は介されている」

 誰かが布を裁ち、糸を通し、一針ずつ縫っている。少なくとも、手仕事の跡はある。

「あの人形……」

 ヴァイマンの柔らかな声がラリオーノフの肩に触れる。

「対象個体が保護されたとき、おくるみに包まれていたものですよね」

 ラリオーノフは視線だけでヴァイマンを見上げた。

 真剣な顔がそこにあった。

「彼女が規格外だと知っていたのでしょうか」

 胃の底に鉛を流し込まれたような重みが広がった。


 マシュは自分の出自を知らない。

 彼女にとってあの人形は、失われた過去につながる、ほとんど唯一の品だった。


 その人形に、意図的な処理が施されているかもしれない。


 だとすれば――。


「あるいは……」

 ヴァイマンの声が低くなる。


「作った存在も規格外か」

 

 何も残らなかったのか。

 それとも、残さなかったのか。

 その違いすら、まだ分からない。

 

 動かない数値。

 それはもはや秩序の裏側にあった。


「当該個体が保護されたのは北方魔力特例自治区の近くでしたね」

 空気がかすかに強張る。

 北方――帝国の同期塔網が完全には及ばず、帝国標準とは異なる規律が残る土地。

「大尉」

 ヴァイマンが自分の端末を起動させる。人形の波形と数値が記録されていく。それを止める理由はない。

「僕が思っていた以上に事態は深刻なようです」

 モニターの光に照らされたヴァイマンの表情は整えられていた。だがそれは、感情の逃げ道を自分で防いでいるようだった。

「彼女は、帝国標準では捉えきれない源泉を持っています。もし、その出自に北方側の関与があれば」

 均一に保たれた光源の下で、慎重に言葉が選ばれる。


「あるいは、帝国の現行規格を超える技術が関わっているとすれば」


 演算式を打ち込んでいく指先に乱れはない。標準内の緊張を、理性で維持している。

「問題は、帝国がその価値を安全に管理できるかどうかです」

 窓のない補助制御室に、人工照明の白い光が降り注ぐ。

 ヴァイマンはラリオーノフを正面から見た。


「彼女は紛争の火種になりかねない」


 ラリオーノフの心臓が冷たく波打った。

「感知、迎撃、魔力供給。いずれも利用価値はあります。ですが、運用には安定した出力と、確実な停止手段が必要です」

 ヴァイマンがマシュの解析記録を閉じる

「現在の制御コードは機能しています。しかし、高出力下でも制御が成立するとは、まだ証明されていません」

 頭の上から浴びせられる白色光に、逃げ道を塞がれる。

「飛行訓練は、そのための実証にもなります。身体と箒、源泉と外部基準を、一つの系として制御できるか」

 影も奪われた部屋の中で、事実が積み上げられていく。

「高出力下での制御を実証できないまま、帝国の管理体系では捕捉できない技術の関与まで疑われれば――」

 ヴァイマンの柔らかな顔立ちから、最後の笑みが消えた。


「軍は、利用価値より危険性を優先するでしょう」


 思い出すのは、赤銅色の波形を見つめるマシュの姿だった。

「制御不能と判断されれば」

 金色の瞳は誰よりも真剣に、自身の未来を求めていた。

 

「――廃棄されますよ」


 その言葉は壁に消えず、ラリオーノフの胸底に刻み込まれた。

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