六 人民は等しく帝国の資源
帝国標準時間、十七時。
窓の向こうには、灰色に濁った空が広がっている。
まだ日は高い。厚い雲の向こうに、夕刻の光が残っていた。
執務机には学院全域の結界同期記録が展開されている。
「――以上です」
ヴァイマンが中等部二年の同期結界展開演習の報告を終えた。
「続いて、中等部一年の飛行訓練ですが」
一瞬だけ、こちらに視線が向けられる。
「通常課程の百十九名、全員安定飛行。逸脱なし。姿勢保持五分もクリアしました。次回から水平移動五十メートルに移行します」
ヴァイマンが展開させた飛行記録に乱れはない。標準に沿った規定通りの飛行だ。
「見事に教科書通りですね」
ヴァイマンが口角を上げる。そのまま流れるような手つきで記録を消した。
マリーニン大佐が小さく頷いた。
「ラリオーノフ大尉」
「はっ」
ラリオーノフは直立したまま、返事をする。マリーニンの硬質な声が続く。
「朝の管理個体の発作については報告を受けている。貴様が集団同期を緩めたことが引き金になったと」
「その可能性が高いと考えています」
濁った雲の隙間には、まだ光が残っている。ラリオーノフはマシュの記録を展開させた。
「集団同期圧の低下に伴い、源泉が基準点の再探索を開始。急激な応答変化が、当該個体の身体に負荷をかけたものと推測されます。因果関係は現在も検証中です」
ヴァイマンが身を乗り出した。先刻までの事務的な表情とは違う。その目は、マシュの赤銅色の波形に釘づけになっていた。
「暴走の危険性は」
「現時点で、不可逆な暴走の兆候は確認されていません」
即答する。
「源泉の応答は不安定ですが、減衰は成立しています。筆記・応答試験でも高い成績を収め、局所魔導の精度は極めて高い。ただし、飛行のように身体と箒、源泉を一つの系として制御する技術は未熟です」
午後の演習記録を開く。
「本日の再試行では、失効を確認しました」
マリーニンの顎がわずかに上がった。
「演算円への帝国標準の同期基準入力を切断し、本官の主周波数へ切り替えました。観測機構と個別補正、緊急停止機構は維持しています」
銀色の波に、赤銅色が重なる。
「当該個体は一時的に五センチまで浮上しました。しかし箒への入力が安定せず、飛行状態に移行する前に出力が途絶しました」
沈黙が落ちる。初回飛行訓練のときとは異なる結果に、マリーニンが考え込むように顎を撫でる。
「……学習したということか」
「初回訓練とは異なる反応です」
ラリオーノフは失効時の記録を拡大する。
鋭く立ち上がった赤銅色の波が、急激に崩れ落ちていた。
「なるほど」
ヴァイマンが嬉しそうに目を細めた。
「大尉の主周波数に応答したのは、ここですね」
指がマシュの波形をなぞる。
そこには確かに、二つの波が穏やかに寄り添った瞬間があった。その一瞬だけ、マシュの波形も帝国標準と見まごうほど落ち着いている。
「適応が速い。外部基準への応答速度が通常個体とは明らかに違います。それなのに、保持できない」
軽やかな声だが冷静な分析だ。ラリオーノフの肋骨の内側に鈍痛が走ったが、やり過ごす。
「それで飛べない?」
マリーニンの問いは確認だ。
「応答が速すぎるのです」
ラリオーノフは、マシュが箒に魔力を注ぎ込んだ瞬間の波形を光らせ、数値を表示する。
急上昇した源泉圧は上限を振り切る勢いだ。
「源泉が基準に応じても、身体と箒の追従が間に合わない。共振を維持する前に、次の変動を拾ってしまう」
「過剰応答か」
「はい」
赤銅色の波形が、再び急峻な山を描いた。
マリーニンの鉛玉のような瞳に無数の数式が映る。
「貴様の主周波数を与えたことで、何が変わった」
「参照する基準を一つに限定しました」
泥のような雲の奥に、薄日が差す。
「帝国標準への強制同期は行っていません。本官の主周波数を単一基準とし、当該個体の応答条件を調整しました」
ヴァイマンの眉が上がる。
「……なるほど。帝国標準への強制同期を避けた。それが、破綻に至る前の失効を可能にしたと」
「断定はできません。ですが、その可能性はあります」
マリーニンの顔に赤銅色の波形が影を落とす。
「つまり、単独運用の見通しはまだ立たない」
喉の奥に苦みを感じた。
「……今はまだ」
「扱いづらいな」
マリーニンは、波形を一瞥した。
「訓練中です」
反射的に言葉が出た。発言したあとに、肺が縮んだように息が浅くなった。
鉛色の目がこちらを向いた。
「資源価値は?」
空気の密度が変わった。
言葉が形を探す。
時間にすれば一拍にも満たない沈黙――だが背信と受け取られるには十分な一瞬。
「この応答勾配は、研究価値があります」
ヴァイマンの声が割り込んできた。一瞬、ラリオーノフの胸が開く。
「軍事転用も十分に可能でしょう。制御コードと外部同期装置を組み合わせ、強制減衰によって安定化させれば、広域魔力衝撃への応用が考えられます」
軽快な操作音が響き、マシュの波形に数値が付与されていく。
ラリオーノフは動かなかった。
ヴァイマンの声だけが、正確に耳へ届く。
「高応答性を利用した感知、迎撃システムへの転化もいいでしょう。あるいは大容量の源泉を生かし、前線への魔力供給拠点として運用する方法もあります」
それが、さっきまで箒にしがみついて泣いていた少女への評価だった。
出力を取り出し、減衰させ、再び取り出す。
そこに人格はない。
あの小さな身体が、いくつもの装置に接続されていく光景が浮かんだ。
拳を握りしめそうになる。
寸前で指を開き、熱を帯びかけた源泉を鎮めた。
「軍研究部が欲しがるな」
マリーニンは笑わなかった。
「はい」
ヴァイマンが端末を閉じる。その微笑みは、最初から少しも崩れない。
ラリオーノフの胸の内側がせり上がる。
「……まだ学生です」
言葉の意味を理解するより早く、後悔が押し寄せてきた。
呼吸を整えようとしたが、吸気がいつもの深さまで届かない。
自分は、何を言っている。
軍事利用に年齢は関係ない。
それがこの帝国の現実だ。
分かっている。
分かっているはずだ――
マリーニンの鉛の目がこちらを見ている。
「資源だ」
マリーニンの声は低かった。
断罪ではない。叱責ですらない。
人民は等しく、帝国の資源。
ただ制度上の事実が告げられた。
「観察継続」
教育でも訓練でもない。
ラリオーノフの心臓に突きつけられたのは、銃口以上の重みだった。
「制御官はお前のままだ」
マリーニンがマシュの波形を消す。
ラリオーノフはヴァイマンと並び敬礼した。
窓の向こうには、まだ明るい空があった。
命令は明確だった。
だが、どれだけの猶予が与えられたのかは分からなかった。




