五 これが、わたしの全てではない。
世界が、静かになった。
心の底が重心を持つのを感じる。身体の中を熱くしていた源泉が、今は肌に寄り添ってちゃんと流れていく。手足の先まで熱が行き渡っている。
――できる気がする。
お腹の底から力が漲ってくる。初回の飛行訓練ではなかった感覚だ。
演算円の縁が白く聳え立つ。
「高度制限、二十センチ。横移動なし。保持三秒」
制御官の声はいつも平坦だ。
でも胸の奥に低く響いて、心地いい。
箒を握る手は真っ白になっていた。けれど震えはない。
わたしは、自分の全身を思い描いた。源泉が熱を増す。勢いは強めない。箒へ緩やかに力を流し込む。
(落ち着いて――)
自分に言い聞かせる。
呼吸を始める。制御官に教えてもらった方法だ。
一拍。二拍。三拍。四拍。
保持。
そして――放出。
赤銅色の波形が足元に広がった。制御官が表示してくれた、わたし自身の魔力波形だ。主周波数、減衰係数、応答勾配が一目で分かる。
床から踵が離れた。
――一センチ。
空気の厚みが変わる。
主周波数が上昇域に入る。
その瞬間、足首を引っ張られるような感覚が走った。
足先は浮いたのに、腰がついてこない。
波形が鋭く尖る。
源泉が勢いを増す。関節と筋肉がその速度についていけない。
必死に膝を曲げる。まだ五センチにも達していない。なのに身体が言うことを聞かない。
――あのときと同じだ。
背骨が冷える。全身の熱が顔に集まってくる。
天地が逆転したときのことを思い出す。耳の隣で風が鳴る。
――落ちる。
そう思った瞬間、身体の中にもう一つの身体を感じた。
内側の身体のほうが勢いが強い。それに実際の身体が引きずられる。
高度が五センチに達した瞬間、出力が跳ね上がった。
赤銅色の波が鋭く伸び、銀色の演算円と噛み合わなくなる。
胸で、お腹で、太股で、白い光がいくつも爆ぜる。
体の表面が浮かんでいるのに、内臓が遅れて引き上げられる。
心臓が半拍遅れる。
腰から捻れる。箒にしがみつく。
「姿勢保持」
制御官の声が低く落ちた。
呼吸が一瞬速まる。
まだ十センチも浮かんでいない。
――諦められた?
前を見る。
光の渦に目が眩む。
赤銅色と銀色の波が押し寄せてくる。その向こう側に制御官がいた。
厳しい目。眉間の深い皺。
訓練前と何も変わらない。
胸が拳で叩き潰されたように苦しい。叫びだしたいのを堪えれば顔が歪む。
髪が逆立ち、三つ編みがほどけていく。
これは感情なのか。それとも源泉なのか。
熱いものが一気にこみあげてくる。
――このまま飛べなかったら。
今度はお腹の底が冷えつく。
特待剥奪。原籍送還。
考えられる現実はあまりに単純で――
わたしの身体の周りから空気が逃げていく。
――でも、本当に?
胸の底にインクが落ちたように波紋が広がる。
本当に、それだけですむ?
学院に入学する前の生活に、本当に戻してもらえる?
全身の産毛が、静電気に弾かれたように逆立った。
身体が痛い。けれどどこが痛いのか分からない。熱いのか冷たいのかすら分からない。
足元の波形が乱れる。固定点を探している。けれど戻れない。赤銅色の山が幾重にも立ち上がる。
誤差。
未整合。
――拒否。
出力が急激に落ちる。
――嫌だ。
箒にしがみつく。喉が開く。
まだ――!
息を吸い込む。暴れる源泉を必死に堰き止める。
けれどもう、力が伝わらない。
箒が床に触れる音は、ほとんどしなかった。
演算円の光が一段暗くなる。
「情動波形、急上昇」
冷たい低音だった。
顔を上げる。
そのとき初めて、わたしは自分が泣いていたことに気づいた。
「余計なことは考えるな。ノイズになる」
制御官の声には温度がない。だから唇を噛むしかない。
もう床に降りているはずなのに、足元はまだ地面を探している。ほどけた髪は四方に広がり、頬にもはりついている。
何もかも見抜かれている。何でもかんでも数値化されている。
恐怖も、焦燥も、期待だって、全部ノイズとして処理されている。
胸の奥で何かが軋んだ。
――制御官には分からない。
減衰はいつも完璧。
感情だって揺れない。
だから、わたしの恐怖なんて、この人の世界には存在しない。
自分の浅ましさに自分で傷つく。制御官の前に展開されている自分の感情を示す波形は、もう解読不能なくらいぐちゃぐちゃだ。
見たくない。
だから顔を伏せてしまう。
「出力は十分。むしろ過剰だ」
制御官は責めない。
それに安心する自分が悔しい。
――箒を握りしめる。
「今回のは落下ではない。失効だ」
どう違うのだ。
考えろ。
俯いたまま、必死に頭を働かせる。
「……飛行状態が成立しなかった、ということですか?」
「そうだ」
制御官の淡々とした態度が憎らしい。鼻で笑ってくれれば、怒る理由だって見つけられたのに。
「貴様は、我々がどうやって飛行を成立させているか説明できるか」
制御官は全く視線を逸らしてこない。だから逃げ場がない。
――息を整える。
「源泉の出力を箒が受け取り、外部基準との共振によって浮力を成立させます。箒は身体と結界を繋ぐ外部インターフェースです。共振の増幅、姿勢制御、点振動から線振動への変換を担います」
なんとか答えられた。教科書通りのつまらない回答だ。
「では、貴様はどこで失敗した」
わたしは自分の身体を見つめる。
「……魔力を箒へ伝えたところまでは、分かりました。ですが、そのあとの共振が成立しなかったのでしょうか」
たどたどしい答えになった。わたしは、自分のことが何も分かっていない。
「そもそも箒への入力が安定していない」
制御官の言葉は、どれも心を突き刺してくる。
「しかし、減衰は間に合っている」
――わたしは思わず顔を上げた。
「致命的な破綻に至る前に、箒への入力が途切れた。初回訓練とは明確に異なる反応だ」
耳の奥で鳴り続ける風の音。逆転した天地。あのときは今よりももっと高くまで飛んで、落ちた。
「当時の記録では、正常な浮力生成は確認されていない。標準との整合が成立しないまま、上空移動の命令だけが実行された」
「……では、あのときも」
声が震える。
「ああ」
制御官の目は決して、わたしから離されなかった。
「飛行は成立していなかった」
白い演習場の中心に落ちた事実は、あまりに情けなかった。
わたしは、まだ一度も飛んでいない。
「だが今回は違う。成立しない状態を、それ以上進行させなかった」
制御官が端末に手をかざす。
「現在、外部結界からの同期基準入力は切断している」
銀色の演算円が光を強めた。
「基準は私の主周波数だ」
円の内側に、一つの波形が現れる。
帝国標準振動と見まごうほど整った波だった。
誤差はほとんどない。
けれど均一ではない。
確かな強さと存在感で波打っている。
わたしは息をのむ。
――これが、制御官の源泉。
微かに揺れながら、空間全体を制御している。
世界が静かになった理由が、ようやく分かった。
この波は、わたしがどれほど乱れても揺らがない。
だって世界の基準が、ここにある。
「……つまり、外部の基準を変えても、わたし自身が成立しなければ飛べないのですね」
「そうだ」
制御官が指を動かす。
わたしの眼前に、赤銅色の波形と数値が並んだ。ポケットの端末が震える。目の前の情報と同じものを送ってくれたのだろう。
「これが今回の源泉評価だ」
制御官の完璧な波とはあまりに違う。抉れた心が更に削られていく。
主周波数は不安定。箒への入力は途切れ、出力は急激に変動している。
あまりに無様だ。
箒を投げ出したくなる。でも堪える。
泣いてはいけない。
これ以上は、もう。
目に力を込める。もう一度、自分の記録を見る。
どうして。
溢れ出してきた言葉を、なかったことにしてはならなかった。
「――……昨日の再評価試験の記録はありますか?」
制御官の表情は変わらない。波形も一定だ。だがその指が動いた。
「制御コードの静穏化処置中、点火と送風を行ったときの記録です。あのときは自動補正を止めていても、魔導が成立しました」
わたしの赤銅色の波形は、これがすべてではない。
「そのときの、わたしの源泉を確認したいんです」
過去の記録が展開する。
その赤銅色の波形は高勾配だが、周期は揃っていた。
今日とは違う。
――何が違う?
二つの波形を並べた。
揃っているところ。揃っていないところ。
反応が遅れたところ。出力が途切れたところ。
「比べれば分かるかもしれません」
なぜ昨日は魔導が成立して、今日は飛行が成立しなかったのか。
わたしは端末を開く。
「どうすれば、自分の源泉を壊さずに動かせるのか」
数値と形の情報を記録していく。
「やるべきことをやります」
昨日の波形を、今日の自分のものに重ねる。
「主周波数の測定。標準振動との差分判定。出力スペクトルの観測。情動波形記録の解析」
記録を保存して、もう一度、数値を見直す。
「それが分からなければ、わたしは飛べません」
制御官は何も答えなかった。
ただ、わたしのやることを黙って見ていた。




