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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第二章
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五 これが、わたしの全てではない。

 世界が、静かになった。


 心の底が重心を持つのを感じる。身体の中を熱くしていた源泉が、今は肌に寄り添ってちゃんと流れていく。手足の先まで熱が行き渡っている。


 ――できる気がする。


 お腹の底から力が漲ってくる。初回の飛行訓練ではなかった感覚だ。

 演算円の縁が白く聳え立つ。

「高度制限、二十センチ。横移動なし。保持三秒」

 制御官の声はいつも平坦だ。

 でも胸の奥に低く響いて、心地いい。

 箒を握る手は真っ白になっていた。けれど震えはない。

 わたしは、自分の全身を思い描いた。源泉が熱を増す。勢いは強めない。箒へ緩やかに力を流し込む。

(落ち着いて――)

 自分に言い聞かせる。

 呼吸を始める。制御官に教えてもらった方法だ。

 一拍。二拍。三拍。四拍。

 保持。

 そして――放出。

 赤銅色の波形が足元に広がった。制御官が表示してくれた、わたし自身の魔力波形だ。主周波数、減衰係数、応答勾配が一目で分かる。

 床から踵が離れた。

 ――一センチ。

 

 空気の厚みが変わる。


 主周波数が上昇域に入る。

 その瞬間、足首を引っ張られるような感覚が走った。

 足先は浮いたのに、腰がついてこない。

 波形が鋭く尖る。

 源泉が勢いを増す。関節と筋肉がその速度についていけない。

 必死に膝を曲げる。まだ五センチにも達していない。なのに身体が言うことを聞かない。


 ――あのときと同じだ。


 背骨が冷える。全身の熱が顔に集まってくる。

 天地が逆転したときのことを思い出す。耳の隣で風が鳴る。

 ――落ちる。

 そう思った瞬間、身体の中にもう一つの身体を感じた。

 内側の身体のほうが勢いが強い。それに実際の身体が引きずられる。


 高度が五センチに達した瞬間、出力が跳ね上がった。


 赤銅色の波が鋭く伸び、銀色の演算円と噛み合わなくなる。

 胸で、お腹で、太股で、白い光がいくつも爆ぜる。

 体の表面が浮かんでいるのに、内臓が遅れて引き上げられる。

 心臓が半拍遅れる。

 腰から捻れる。箒にしがみつく。

「姿勢保持」

 制御官の声が低く落ちた。

 呼吸が一瞬速まる。


 まだ十センチも浮かんでいない。


 ――諦められた?

 

 前を見る。

 光の渦に目が眩む。

 赤銅色と銀色の波が押し寄せてくる。その向こう側に制御官がいた。

 厳しい目。眉間の深い皺。

 訓練前と何も変わらない。

 胸が拳で叩き潰されたように苦しい。叫びだしたいのを堪えれば顔が歪む。

 髪が逆立ち、三つ編みがほどけていく。

 これは感情なのか。それとも源泉なのか。

 熱いものが一気にこみあげてくる。


 ――このまま飛べなかったら。


 今度はお腹の底が冷えつく。


 特待剥奪。原籍送還。


 考えられる現実はあまりに単純で――


 わたしの身体の周りから空気が逃げていく。



 ――でも、本当に?

 胸の底にインクが落ちたように波紋が広がる。

 

 本当に、それだけですむ?


 学院に入学する前の生活に、本当に戻してもらえる?


 全身の産毛が、静電気に弾かれたように逆立った。

 身体が痛い。けれどどこが痛いのか分からない。熱いのか冷たいのかすら分からない。

 足元の波形が乱れる。固定点を探している。けれど戻れない。赤銅色の山が幾重にも立ち上がる。

 誤差。

 未整合。

 ――拒否。

 出力が急激に落ちる。


 ――嫌だ。


 箒にしがみつく。喉が開く。


 まだ――!


 息を吸い込む。暴れる源泉を必死に堰き止める。

 けれどもう、力が伝わらない。


 箒が床に触れる音は、ほとんどしなかった。


 演算円の光が一段暗くなる。

「情動波形、急上昇」

 冷たい低音だった。

 顔を上げる。

 そのとき初めて、わたしは自分が泣いていたことに気づいた。

「余計なことは考えるな。ノイズになる」

 制御官の声には温度がない。だから唇を噛むしかない。

 もう床に降りているはずなのに、足元はまだ地面を探している。ほどけた髪は四方に広がり、頬にもはりついている。

 何もかも見抜かれている。何でもかんでも数値化されている。

 恐怖も、焦燥も、期待だって、全部ノイズとして処理されている。

 胸の奥で何かが軋んだ。

 

 ――制御官には分からない。


 減衰はいつも完璧。

 感情だって揺れない。


 だから、わたしの恐怖なんて、この人の世界には存在しない。


 自分の浅ましさに自分で傷つく。制御官の前に展開されている自分の感情を示す波形は、もう解読不能なくらいぐちゃぐちゃだ。

 見たくない。

 だから顔を伏せてしまう。

「出力は十分。むしろ過剰だ」

 制御官は責めない。

 それに安心する自分が悔しい。

 ――箒を握りしめる。

「今回のは落下ではない。失効だ」

 どう違うのだ。

 考えろ。

 俯いたまま、必死に頭を働かせる。

「……飛行状態が成立しなかった、ということですか?」

「そうだ」

 制御官の淡々とした態度が憎らしい。鼻で笑ってくれれば、怒る理由だって見つけられたのに。

「貴様は、我々がどうやって飛行を成立させているか説明できるか」

 制御官は全く視線を逸らしてこない。だから逃げ場がない。

 ――息を整える。

「源泉の出力を箒が受け取り、外部基準との共振によって浮力を成立させます。箒は身体と結界を繋ぐ外部インターフェースです。共振の増幅、姿勢制御、点振動から線振動への変換を担います」

 なんとか答えられた。教科書通りのつまらない回答だ。

「では、貴様はどこで失敗した」

 わたしは自分の身体を見つめる。

「……魔力を箒へ伝えたところまでは、分かりました。ですが、そのあとの共振が成立しなかったのでしょうか」

 たどたどしい答えになった。わたしは、自分のことが何も分かっていない。

「そもそも箒への入力が安定していない」

 制御官の言葉は、どれも心を突き刺してくる。


「しかし、減衰は間に合っている」


 ――わたしは思わず顔を上げた。

「致命的な破綻に至る前に、箒への入力が途切れた。初回訓練とは明確に異なる反応だ」

 耳の奥で鳴り続ける風の音。逆転した天地。あのときは今よりももっと高くまで飛んで、落ちた。

「当時の記録では、正常な浮力生成は確認されていない。標準との整合が成立しないまま、上空移動の命令だけが実行された」

「……では、あのときも」

 声が震える。

「ああ」

 制御官の目は決して、わたしから離されなかった。


「飛行は成立していなかった」


 白い演習場の中心に落ちた事実は、あまりに情けなかった。


 わたしは、まだ一度も飛んでいない。


「だが今回は違う。成立しない状態を、それ以上進行させなかった」

 制御官が端末に手をかざす。

「現在、外部結界からの同期基準入力は切断している」

 銀色の演算円が光を強めた。

「基準は私の主周波数だ」

 円の内側に、一つの波形が現れる。


 帝国標準振動と見まごうほど整った波だった。


 誤差はほとんどない。

 けれど均一ではない。


 確かな強さと存在感で波打っている。


 わたしは息をのむ。


 ――これが、制御官の源泉。


 微かに揺れながら、空間全体を制御している。


 世界が静かになった理由が、ようやく分かった。

 この波は、わたしがどれほど乱れても揺らがない。


 だって世界の基準が、ここにある。


「……つまり、外部の基準を変えても、わたし自身が成立しなければ飛べないのですね」

「そうだ」

 制御官が指を動かす。

 わたしの眼前に、赤銅色の波形と数値が並んだ。ポケットの端末が震える。目の前の情報と同じものを送ってくれたのだろう。

「これが今回の源泉評価だ」

 制御官の完璧な波とはあまりに違う。抉れた心が更に削られていく。

 主周波数は不安定。箒への入力は途切れ、出力は急激に変動している。

 あまりに無様だ。

 箒を投げ出したくなる。でも堪える。

 泣いてはいけない。


 これ以上は、もう。


 目に力を込める。もう一度、自分の記録を見る。


 どうして。


 溢れ出してきた言葉を、なかったことにしてはならなかった。

 

「――……昨日の再評価試験の記録はありますか?」

 制御官の表情は変わらない。波形も一定だ。だがその指が動いた。

「制御コードの静穏化処置中、点火と送風を行ったときの記録です。あのときは自動補正を止めていても、魔導が成立しました」

 わたしの赤銅色の波形は、これがすべてではない。

「そのときの、わたしの源泉を確認したいんです」

 過去の記録が展開する。

 その赤銅色の波形は高勾配だが、周期は揃っていた。

 今日とは違う。


 ――何が違う?


 二つの波形を並べた。

 揃っているところ。揃っていないところ。

 反応が遅れたところ。出力が途切れたところ。


「比べれば分かるかもしれません」

 なぜ昨日は魔導が成立して、今日は飛行が成立しなかったのか。

 わたしは端末を開く。

「どうすれば、自分の源泉を壊さずに動かせるのか」

 数値と形の情報を記録していく。

「やるべきことをやります」

 昨日の波形を、今日の自分のものに重ねる。

「主周波数の測定。標準振動との差分判定。出力スペクトルの観測。情動波形記録の解析」

 記録を保存して、もう一度、数値を見直す。

「それが分からなければ、わたしは飛べません」

 制御官は何も答えなかった。

 ただ、わたしのやることを黙って見ていた。

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