四 設計途中の欠陥品
帝国標準時間、午後一時二十分。
第三屋内演習場に午後の光は届かない。
天井の拡散灯が白い床を均一に照らし、魔力残響は壁面で吸収される。中央では演算円が淡く発光し、同期補助陣は待機状態のまま沈黙していた。
ラリオーノフは午前の記録を空間に並べた。
鋭く立ち上がる高周波。沈む低周波。少女の異常が青白い数値となって浮かび上がる。
「制御官」
背後から小さな声がする。
ラリオーノフは振り向いた。
「心拍、正常。源泉圧も許容範囲だ」
「はい」
マシュが深く一礼した。
「午前中は、ありがとうございました」
そのままなかなか顔をあげない。
「顔をあげろ」
そう促せば、マシュがようやく頭をあげる。眉が下がり、眉間に皺が寄っている。
「……礼には及ばん」
胸の奥がわずかに圧迫されるのを感じた。
「午前の乱れは、貴様が弱いからではない」
マシュが少し目を見開いた。
「基準点が外部依存だからだ」
ラリオーノフは二つの波形を並べた。
左は一般個体のものだ。起伏は緩慢で、帝国標準振動に沿って安定している。
右はマシュ。鋭い山が幾重にも立ち上がり、小さな外乱にも即座に応答していた。
「一般個体は外部標準に強く吸着する。基準が揺れても収束が速い」
ラリオーノフは右の波形の光を強めた。
「だが貴様は違う。高応答、高勾配。外部の変動を即座に拾う」
マシュが自分の波形を見つめる。
「だから乱れたのですね」
「違う」
ラリオーノフは即座に訂正する。
「単に乱れたのではない。再構築が走った」
午前の記録を拡大する。
集団同期の緩和直後、マシュの源泉は新たな基準を探すように振動を変えていた。
「貴様の源泉は、外部基準が変わると内部演算を始める。だが、収束先が定まらなかった」
マシュが小さく息を吸った。
「だから身体が悲鳴を上げたのですね」
自分の内側を確かめるように、胸に手が置かれる。
「では、わたしはどうすればよいのでしょう」
ラリオーノフを見上げてくる瞳に、恐怖はない。
「減衰の弱い個体は、自分で収束させる技術を持たねば壊れる」
演習場の空気がわずかに沈んだ。
減衰――マシュが呟く。
「減衰係数とは、振動がどれくらい速く落ち着くかを決める値だ」
ラリオーノフとマシュの間に浮かぶ二つの波形は、あまりに対照的だった。
「貴様はそれが小さい。だから揺れが収まりにくい」
マシュの握る箒の穂先が僅かに震えた。
「だがエネルギー効率は高い」
ラリオーノフはマシュの主周波数をなぞる。
ヴァイマンが美しいと評したその波形、そして拍――。
「その特性を失う必要はない。ただし、自分の源泉が何に応答し、どこへ収束するのかを知らねばならん」
源泉を飼い慣らすのではない。その前段階だ。
「減衰係数を、大きくするのではないのですか?」
マシュが少し首を傾げる。
「違う。外部の変化を無条件に取り込むなということだ」
四拍を指で刻む。
「午前は呼吸を使った。だが呼吸は第一段階にすぎん。反応そのものを制御するには、貴様自身の基準が必要だ」
制御と基準……マシュが口の中で呟く。
「……待つ、ということですか」
「そうだ」
ラリオーノフは頷いた。
「反応が速い個体ほど、意図的に遅らせる技術が要る」
演算円の振動音が、遮断層に飲み込まれていく。
マシュがしばらく波形を見つめた。
金色の瞳が、ようやくラリオーノフに戻ってきた。
だが、そこには別の不安があった。
「……制御官」
「何だ」
マシュの箒を握る手に力がこもる。一瞬だけ視線を下に落とし、何かを口の中で言おうとして詰まる。
だが意を決したように再び顔を上げた。
「……午前中、ご一緒におられた方は、新しい制御官でいらっしゃいますか?」
その言葉に、一瞬だけラリオーノフの胸に沈黙が落ちた。
誤差にもならなければ記録にも残らない。
だが確かな間だ。
「……副制御官だ」
余計なことは言う必要はない。
「学院結界の維持と精査を担当する」
マシュは頷く。だが足場を探すように、僅かに膝を内側に向ける。言葉を、選んでいる。
「――わたしの担当には……なりませんか?」
「ならない」
自分が即答したことに気がついたときには、もう次の言葉が出てきた。
「貴様の制御は私が行う」
マシュの目が瞬く。
そして眦からわずかに力が抜けた。
ラリオーノフは視線を逸らす。
「……演習に集中しろ」
演算円の中央へマシュを促す。マシュの返事は快活だった。
集中しろ――それは本当にマシュへの言葉だったのか。
ラリオーノフは端末を握り直す。
「未定義は欠陥ではない。設計途中だ」
マシュが振り返ってくる。少しだけ驚いたような顔をした。
「設計を自分で行え」
少女の顔に、はにかむような笑顔が浮かんだ。
ラリオーノフは、自分の魔力を演算円に注ぎ込む。
「外部条件を一つに固定する。その中で、貴様自身の収束を確かめる」
細胞のすべてが立ち上がるような感覚が全身に押し寄せる。軍服の裾が翻った。
足元の空気が震える。
位相鍵挿入。
標準制御権限コード入力。
演算円が完全起動。
青白い光が床を走る。
床面の回路がラリオーノフの主周波数を捕捉し、基準位相を再設定する。
外部結界からの同期基準入力を切断。
観測層、維持。
個別補正、待機。
緊急停止機構、待機。
演算円の振動が変わった。
演算円に刻まれていた帝国標準の拍が、一つずつ消えていく。
代わって立ち上がるのは、ラリオーノフ自身の主周波数だ。
銀色の波が円の内側を満たした。
いまからマシュを判断するのは帝国ではない。
――私だ。
端末に警告が表示された。
個別評価裁量。
標準管理規程、第五章 第七項。
実行権限、確認。
責任者署名要求。
迷う理由はない。
署名する。
この場で生じるすべての誤差も、逸脱も、介入も。
――私の名で報告する。
承認。
端末から警告が消えた。
魔力を計測モードへ移行する。
身体の中の熱が上がる。
魔力が押し寄せてくる。
端末が重さを増す。
階級章の固さが肩を圧迫する。
「制御官」
銀色の線を引く円の中心で、マシュがラリオーノフを見つめてくる。
「午前中より眉間のお皺が増えています」
予測していなかった言葉だった。ラリオーノフの胸が一瞬空白に上書きされる。
「わたしのせいですよね」
「違う」
銀白色の光がいつもより眩しく感じた。
「午前の発作は、私が集団同期を緩めた影響と推測される。判断は私のものだ」
マシュを正面から見据える。
「貴様が責任を負うことではない」
マシュの唇が、わずかに開いた。
「集団の過緊張を解くには必要な措置だった。だが貴様の反応は、予測しきれなかった」
弁解する必要はなかった。
「今後も負荷条件は変える」
ラリオーノフは断言する。
「そのたびに貴様は揺れる」
銀色の光が、マシュの足元を走った。
「だから自分で減衰できるようになれ」
マシュが笑った。
演算円の内側に、赤銅色の波形が生まれる。
「揺れても、壊れなければよいのですね」
その声には、もう怯えがなかった。赤と金の熱が空間に広がっていく。
「揺れぬ個体は成長せん」
同期補助陣を起動。
比較用の帝国標準振動を表示する。外部からの強制同期は行わない。
観測、正常。
個別補正、待機。
制御官介入――
即時可能。
マシュの源泉圧が上がる。
赤銅色の波が銀色の円を満たしていく。
「箒に跨れ」
「はい!」
マシュが箒に跨がった。
乱れはない。
ラリオーノフはその波形を一瞥した。
「――開始しろ」




