三 最も正確な制御官
技能演習棟、その最上階である四階に向かう階段の踊り場で、赤銅色の髪に覆われた背中が小刻みに震えていた。
倒れてはいない。
蹲ってもいない。
ただ手を壁につきながら、震える足で前に進んでいる。
他に生徒はいない。
ラリオーノフが声をかけるより早く、足音で気がついたマシュが振り返ってくる。
制御官――そう言おうとしたのだろうが声が出ていない。その唇は乾ききっていた。
顔面蒼白。
心拍数、百五十。
呼吸は浅く、速い。
源泉圧は平常値を下回っている。
膝が折れかけるたび、壁についた手に力がこめられる。
「わたし……第二課程は音楽で……」
途切れがちな呼吸の合間に、必死に説明しようとする。
「制御コードがあるから……魔導エレベータ使えなくて……友達は一緒に乗ろって言ってくれたんですけど……」
ラリオーノフは膝を折らない。だが、マシュから焦点は外さなかった。
「なんか……第一課程が終わる直前にいきなり体が変な感じになって……」
やはり、集団同期を緩めた直後だ。時刻が一致する。
ラリオーノフの胸に、鉛を飲み込んだような重みが広がる。
「心臓がどきどきして、息もうまく吸えなくて……」
マシュの肩が壁に寄りかかった。顔に貼りつく髪を払う余裕もない。短い吸気ばかりが続き、息を吐ききれていない。
「――呼吸」
自分の声は平時と変わらず低かった。マシュが乱れた髪の奥で瞬きをする。
「四拍で吸え」
そう命じれば、マシュが震える肩を上下させながら息を吸い始める。
だがまだ早い。指摘すれば今度は遅くなりすぎる。三度繰り返しても揃わない。
「保持四拍」
マシュが息を止める。顔が赤くなる。
「力むな」
そう言えば今度は力を抜きすぎる。小さな鼻から息が漏れだす。
「――放出。ゆっくりだ」
息が勢いよく漏れ出す。
揃わない。
「――私を見ろ」
項垂れかけたマシュに命じる。金色の瞳が彷徨い――
やがてラリオーノフを見つけた。
ラリオーノフは、人差し指を宙の一点に置いた。
「一……」
数えながら指を下ろしていく。その動きに合わせてマシュが息を吸う。
二……三……
四拍目が吸われる。
ラリオーノフは指を折り、拳を作る。マシュが息を止める。
四拍を待たず、肩がわずかに強張った。
保持時間を短くする。
再び人差し指を伸ばす。
吸気の四拍は変えない。吐く拍だけをゆっくり示す。
指の動きに、マシュの呼吸が重なっていく。
肩がゆっくりと落ちた。
三度目には、数を数える必要がなくなっていた。
ラリオーノフは指を下ろす速さを一定に保った。マシュはその動きを追い、息を吸い、吐いた。
監測環が示す心拍数が、百を下回る。
震えが収まっていく。
最後は、ラリオーノフが指を動かさなくとも、マシュは自分で呼吸を繰り返せた。
生体指標、正常域へ復帰。
急性逸脱なし。
ラリオーノフは医療班へ記録を送信した。
即座に返信が届く。緊急搬送不要。遠隔監測を条件に、授業復帰が許可される。
ラリオーノフは監測を継続するよう設定した。
マシュの肩が壁から離れた。
まだ疲労は残っている。だが足は震えていない。金色の瞳は柔らかさを取り戻していた。
「覚えておけ」
ラリオーノフは腕を組み、マシュを見下ろす。
「これが貴様が収まるべき標準だ」
胸の奥で飲み干した苦みは、骨を越えた芯にまで染み込んでいた。
マシュが何度もお辞儀をし、手すりを頼りながら階段を上がっていく。
「根性ありますね」
いつの間にか追いついていたヴァイマンが、ラリオーノフの背後からマシュを見送る。
「普通なら、次の授業どころではないでしょうに」
軽やかに軍服の裾を翻し、マシュが肩を預けていた壁に背をつけた。
「さすがです、大尉」
そう言いながらラリオーノフを見ることなく、端末を操作し始めた。
「制御コードで支配することなく特殊管理個体を制御した」
天窓から差し込む光がヴァイマンの半身を黒い影に落とす。
「ラリオーノフ大尉は規定内で最も正確な制御官だ」
視線だけがラリオーノフに向けられる。
「祖父が、そう言っておりました」
瞳孔が見えなくなるほど目が細められる。
計算され尽くした笑顔だ。
ヴァイマン家。
標準制御理論の初期設計に関わった一族。
その祖父は、第二世代の理論設計者であり、今なお標準同期法の改訂に強い発言権を持つ。
「任務だ」
ヴァイマンの目を見てラリオーノフは返す。それ以外の返答は余分だった。
「大尉が集団同期を緩めた直後、規格外源泉保持個体の位相が乱れた」
端末を叩く音が、やけに耳障りだった。
「ご安心を。僕はそれを失敗とは思っていません。記録を受け取った上層部も同じでしょう」
マシュの異常発作と対応記録については、すでに上層部に送信されている。
「当該個体は、現行規格の限界を示す存在です。だからこそ全ての情報に価値がある」
何が言いたい。そう問いたくなるのを堪える。ヴァイマンが共有されたマシュの数分前の記録を空間上に展開させる。青白い波形と数値が一斉に浮かび上がった。
「中央の試算モデルでは、この出力を拡張同期に利用できれば、北方の結界維持コストは三割減です」
ヴァイマンの指がリズミカルに動く。
マシュの直近二十四時間の生体記録が展開される。
情動波形が跳ね上がっては落ち着きを取り戻す。
源泉圧は、先ほどの低下を除けば高めで安定している。
記録が項目ごとに分類されていく。
「――美しい波形ですね」
ヴァイマンの言葉は素直だった。その瞳にマシュの数値が浮かんでいる。
ラリオーノフの胸が、言いようもなく冷たくなる。
記録の時刻が遡っていく。
出力の変動。源泉圧の推移。覚醒前後の波形。
その端に、小さな先行応答が現れた。
――0.098秒。
ラリオーノフのこめかみが引き攣った。
ヴァイマンの指は止まらない。
彼が追っているのは出力の分布と周期だ。覚醒確認時刻との前後関係は照合していない。
気づくか。
ラリオーノフの意識が、その一点に集中する。
だがヴァイマンは、そのまま最後まで記録を遡り、端末を閉じた。
「僕の手元にある情報はここまでです」
ようやく正面からラリオーノフを見てくる。その顔に光が被さり、表情が一瞬見えなくなった。
安堵は感じられなかった。
「先日の再評価試験の記録を全て見せていただけますか」
その必要はないと言いたくなる。だが、許可はされている。
ラリオーノフは無言で記録を送信する。
「ありがとうございます」
ヴァイマンの顔に浮かぶのは、相変わらず悪気のない笑顔だった。
「学院全体が緊張していたなら、通常は同期を強め、固定点への収束を促すでしょう」
試験記録が、音もなく端末に取り込まれていく。
「ですが大尉は集団同期を緩めた。先ほども、彼女が拍に合わせられないと見ると、大尉の方で保持時間を変えましたね」
光の粒が、ヴァイマンの輪郭を際立たせる。
「大尉は、固定点への収束よりも、振幅の減衰を優先していらっしゃる」
ヴァイマンの影が、ラリオーノフの足元に届く。
「それは――非常に情緒的な判断だ」
四階の音楽室から、笛の旋律が響いてきた。
ラリオーノフの源泉が、わずかに熱を持つ。
「勉強になります」
近づいてきたヴァイマンの顔は、恐ろしく自然だった。




