二 逸脱した最適解
五月の風は冷たく、肌から水分を奪っていく。
学院と管理区の間には、緩衝緑地がある。ブナの影を顔に落としながら、ラリオーノフは石畳の上を歩く。
葉が風に鳴り、人の足音は静かに吸収されていく。
この緑地は名目上は防音帯だが、 実際は同期結界の歪みを捨てるための場所だ。
ここは何も調整されない。
木々は一定の間隔で植えられているが、成長は揃わない。幹の太さも、枝が伸びる方向も違う。葉の揺れは周期を持たず、地面に落ちる光も形を変え続けている。
森は、同期しない。
ラリオーノフの呼吸は揃い、脈拍は正常。源泉圧は標準値で、思考も明瞭だ。
だが一枚の葉が、予測不能な軌道で落ちる。
――0.098秒。
その数値が頭から離れない。
深く、暗い甘さを潜めた土の匂いが、足元から湧きあがる。
揃っていない。
ラリオーノフは歩き続ける。
逸脱は、ない。
補助制御室は、光を均一に保っている。
照度、室温、湿度、全てが規格内。
風は、存在しない。
ラリオーノフは端末を操作する。帝国標準時間に沿って、青白い波形が並ぶ。結界の維持記録にも逸脱はない。
森の匂いは、もうない。
帝国標準時間、午前九時。
自動扉が無音で開いた。
「少尉ユーリ・アルテミエヴィチ・ヴァイマン。帝国魔導軍、標準制御総監部付、特命学院駐在副制御官として本日着任いたしました」
入室してきたのは若い軍人だ。声は明るく、張りがある。規定通りの角度で敬礼を行い、そのまま自然に口角を上げた。
人好きのする顔つきだ。ラリオーノフより二歳年下と聞いているが、童顔のため十代にすら見える。
だが視線はラリオーノフを見ていない。まず室内に展開される帝国全土のログを一瞥し、そしてラリオーノフの傍らに投影されたマシュの波形を見る。
瞳の奥行きが、一瞬深まった。
演算を開始した者の目だ。
「歓迎する。少尉」
声をかけると、ヴァイマンの視線がこちらへ戻った。
経歴はすでに確認済みだ。
標準拡張適応テストは高得点。主周波数も安定し、情動波形は抑制済み。
軽やかで甘さすら感じる雰囲気とは裏腹に、よく訓練された軍人だ。
「中央では、大尉の制御記録を何度も拝見しました。実際の判断を間近で見られるとは、楽しみです」
ヴァイマンが微笑む。
「制御理論首席。同期安定化試験で歴代最短記録。入隊後は制御コードの独自改修で、標準維持誤差率を0.02%台まで落としたと伺っています」
結界運用記録の追跡音が、床に吸い込まれていった。
「その理論が、今回の規格外個体の制御に結びついたのでしょうか」
「任務だ」
ラリオーノフが短く答える。ヴァイマンが困ったように笑った。
ラリオーノフは結界署名へのアクセスキーを暗号通信で送信した。学院、管理区、演習場。それぞれの結界演算式が展開される。
「同期室のデータの読み方は中央と変わらん。貴様には学院結界の維持と魔力署名の精査を担当してもらう。中等部の飛行訓練、高出力演習の承認と制御監督もだ」
「承知いたしました」
ヴァイマンは理由を聞いてこない。その時間のラリオーノフには、マシュの個別訓練が入る。
ラリオーノフは端末を閉じる。マシュの波形が消える。
自動扉に向かう。ヴァイマンの足音が遅れず重なった。
外に出れば冷たい風が頬に触れた。頭上に広がる空には雲ひとつない。
「いい天気ですね。帝国では珍しい」
ヴァイマンが手を顔の前にかざしながら空を見上げる。
ラリオーノフは返事することなく石階段を降り、学院棟へ向かう。
「飛ばないんですか」
気持ちいいですよ、とはさすがに言わない。
ラリオーノフは無言のまま、石畳を歩く。両側に並ぶ白樺の長い幹に日差しが反射する。剥がれた樹皮の跡まで詳細に見せる光だ。だが眩しくはない。
耳鳴りもなく、足裏の反発もない。
ラリオーノフは指先を空間に伸ばし、結界の境界層に触れる。凪いだ水面をなぞるような感覚が伝わってきた。
基準振動は正常。冷えも引っ掛かりもない。
そのまま感覚を学院棟の内部へ伸ばす。
――ざらつく。
廊下や教室の周辺で、微細な位相ずれが断続的に発生している。結界が吸収しているため、逸脱には至っていない。だが同期率が低下する瞬間がある。
校舎に入った瞬間、足裏に反発が生じた。
結界の校正が、わずかに遅れている。
ラリオーノフは端末を見ない。指先に残る不均一な反射を確かめる。
背後のヴァイマンが、その動きを目で追っていた。
ラリオーノフは端末の縮約表示を展開する。
校正遅延、0.02秒。
「……小集団ごとに位相ずれが発生していますね」
ヴァイマンが覗き込んだ。
「低周波成分の尖度が上昇しています。出力相関係数も増加。個別の異常ではありませんね」
指先が表示を滑る。数値が集団ごとに再分類された。
「相互励起でしょう。生徒たちが互いの反応を増幅している」
ラリオーノフは端末を閉じた。
正確な分析だった。
全体情動を示す波は小さく、だが絶えず揺れている。生徒間の共鳴指数が上昇していた。
団結ならば、もっと力強く揺れる。
今の強さは、不安の共有だ。
「……規格外個体の隔離が影響しているのでしょうね」
ヴァイマンが呟く。
標準から外れれば、隔離される。
それを目の当たりにした生徒たちは、無意識に自分を抑えている。だが揃えようとするほど互いの緊張が伝播し、過剰同期を招いていた。
第一課程終了まで、あと六分。
ラリオーノフは学院結界の演算式にアクセスした。
集団同期を意図的に緩める。
補正を解除するわけではない。個別の安全機構を維持したまま、集団に対する同期圧だけを下げる。
結界の基準振動は変わらない。だが、その内側で、生徒たちの源泉が刻む拍は散らばり始めていた。
足裏の反発が消えた。
「……なるほど」
ヴァイマンの指が素早く動いた。
「共鳴指数が低下。情動波形も収束しています。過剰同期を切ったわけですね」
端末上の数値が滑らかに変化していく。
「ただ、個体ごとの位相分散は増えています」
「許容範囲内だ」
「ええ。全体としては、こちらの方が安定しています」
第一課程終了まで、あと三分。
ラリオーノフは内廊下を抜け、無人の中庭へ降りた。
白薔薇の甘い匂いが鼻腔を満たす。
「見事な調整です」
ヴァイマンが石階段を降りてくる。
「みんな標準に怯えていたんですね。現行規格そのものが圧力になっている」
端末の起動音が響く。
ラリオーノフによる結界調整の記録が、ヴァイマンの端末へ転送されていく。
「規格は安定を得るためのものです。不変である必要はありません」
ヴァイマンが開いていたのは、拡張補正式だった。
「中央で開発を進めているシステムです」
ラリオーノフの視線に気がついたヴァイマンが、悪びれもせずに言う。ラリオーノフの源泉の熱量が僅かに上昇した。呼吸を深めて抑え込む。だが白薔薇の甘い匂いが肺の奥でわだかまる。
「ご安心ください。まだ試験段階です。実装はできません」
薔薇が一輪、わずかに首を傾けた。
「素材となる記録は、多ければ多いほどよいんです」
素材。
その言葉が白薔薇の匂いに紛れ、ラリオーノフの喉奥に沈んだ。
ヴァイマンの源泉にも情動波形にも逸脱はない。
この男は、それを当然だと思っている。
「標準が圧になるなら、標準を更新すればいい」
ヴァイマンの背後には、赤と白のまだら模様を描く薔薇の群生が広がっていた。
ラリオーノフが口を開こうとした瞬間、指先に反発が走った。
空間の底が、わずかに歪む。
基準振動への追従、0.02秒遅延。
学院の一点だけ、位相が跳ねた。
歯車が空回りするような、不自然な波だった。
「……大尉?」
ヴァイマンも端末から顔を上げる。
「局所的な収束遅延です。集団同期の緩和後から、周辺位相の分散が増えています」
チャイムが鳴った。
教室から生徒たちが溢れ出す。
共鳴指数、安定。同期率99.997。
異常なし。
――表面上は。
結界の制御層には、微細な遅延が残っていた。
ラリオーノフは端末を起動し、対象個体の記録を呼び出す。
源泉圧、平常値をわずかに下回る。
主周波数に変化はない。だが低周波が沈み、高周波が鋭く立ち上がっている。
「……一名、逆方向に変化していますね」
ヴァイマンの声が硬くなった。
「集団同期を緩めた直後からです。微小だった副周波数の振幅が、増え続けています」
ラリオーノフは波形を拡大する。
自分で抑え込んでいる。
だが、基準が定まらない。
偶然か。
それとも、周囲の振動が変わったこと自体が――
ラリオーノフのうなじが熱くなる。
これは暴走ではない。
屋内第三演習場の記録で見た波形が、脳裏に蘇る。
不規則な周波数が互いに引き寄せられ、一つの基準へ収束しようとしていく。
自己同期と思われる現象。
今、彼女の源泉は基準点を探している。
――だが、見つからない。
見つけられずにいる。
「今回の結界調整が、引き金になった可能性があります」
ヴァイマンの声が遠くに聞こえた。
喉が鳴った。
自分の喉だと気づくまでに、一拍かかった。
端末を握る手が強張る。
介入すべきか。
――最適解が揺れる。0.01秒。
長い。
踏み出す足の速度は、標準を遙かに逸脱していた。




