一 朝――異常なし。
帝国標準時間、午前六時。
瞼の向こう側が明るくなった。眩しいとは思わない。むしろ心地よい。
ベッドの上で身動ぎすると、カーテンが開く音がした。今度は本物の朝日に全身を照らされる。
眠りから引き剥がすのではなく、規定通りの起床を促す合理的な仕組み。
わたしはすぐには起き上がらなかった。
少しだけ身を丸めて、自分の足先を触る。――冷えてはいない。
寝具も部屋も、昨日までの寮とは違う。それでも、わたし自身は変わらない。
けれど……昨日と今日の間に、何かがひとつだけ削れている。
その削れた量を測る物差しを、わたしはまだ持っていない――爪先から指を離した。
ベッドから足を降ろして、呼吸を深める。
胸の奥が、ふっと熱を帯びた瞬間、ゆっくりと何かが体内を泳いでいった。
音はない。まるで透明な尾を持つ魚が、身を翻していくような感覚が全身をなぞる。
源泉が動いたのだ。
首筋から胸に光が広がり、指先まで伝わっていく。
最後にお腹が少しだけ温かくなり、そして眠るように落ち着いた。
息を静める。足の爪先まで巡る血の流れを感じ、体の中の拍を聞いた。
不意に、端末が小さく鳴った。
『源泉活性化確認』
『異常なし――承認』
誰かがわたしの源泉が動いたことに気がつき、異常無しと判断したのだろう。見えない人の目を感じた途端に、落ち着かなくなる。せっかく今までいい気分だったのに。
足を擦り合わせたら、足首に装着された透明な監測環が、きらりと光った。こんな細くて千切れそうなもので、自分の全てを測られていると思うと、なんだか変な感じがする。
でもこれがきっと、「安全」なのだろう。
それが自分のためか、帝国のためか……今はまだ曖昧にしておく。
洗面所に行くと、鏡に寝起きのわたしが正確に映っていた。
なんだか面白くない。
頬を膨らませると、鏡の向こうのわたしはもっとむくれた。
蛇口からは、温度も流量も一定の水が流れる。顔を洗い、タオルに手を伸ばした。
――その手が止まる。
折り目が揃っている。
昨日は、濡れたまま掛けておいた筈なのに――
気がついた瞬間、部屋の空気が冷たく変わった。
バスルームを覗く。水滴一粒残っていない。洗面器や座椅子も最初の位置に戻っている。
生活の痕跡が消されている。昨日のわたしが、何処にもいない。
本棚を見る。タイトルを確認。持ち込んだものは全てある。教科書も大丈夫。
ノートを広げる。昨日書いた自分の字がそこにあった。課題もちゃんと終わっている。
長い息を吐く。膝から力が抜けた。
「びっくりした……」
それ以上の言葉は使わない。
管理されているのだから、当然だ。むしろ合理的だ。合理的なことに、感情を割り当ててはいけない。
割り当てると、こちらが壊れる。
けれど胸がざわざわと鳴る。
洗面所に飛び込んだ。
消されるより先に、わたしが拭く。
タオルを掴み、飛び散った水滴を全て拭き取る。そして端をしっかり揃えて畳み直した。
洗面台の縁を握りしめる。
頭の中に、昔、教会で読んだ絵本が浮かび上がる。
ふかふかの椅子に沈み込んだ王様。
魔法を使わなくても国は動く。
家来や使い魔がすべてを整える。
王様はやがて、何も選ばなくなった。
震えが全身を駆け巡った。
洗面所を飛び出す。叫び出したいのを必死で堪えて、机の上のノートの、新しいページを開いた。
勢いよく書きつける。
「魔導物理学者になる」
初期値では終わらない。
書き終えた瞬間、震えがおさまった。
わたしは腰に手を当てて、ふんっと鼻息を吐いた。
◇
帝国標準時間、午前五時二十七分。
ラリオーノフは目を覚ます。目覚ましは必要ない。もう何年も、この時間に起きている。
ベッドから身体を起こすと、腹の底に血が滲むような熱が広がった。源泉の活性を確認し、呼吸を整える。
吸気四拍。保持四拍。放出四拍。保持四拍。
体内の流れが均一になる。
源泉圧、正常。
主周波数、安定。
標準時間からの逸脱なし。
揃えるべきものは、すべて揃っていた。
立ち上がると、覚醒脳波を検出したカーテンが開いた。室温が筋緊張度に合わせて調整される。
窓の外には、白く冷たい帝都の朝が広がっていた。
空間が唸り、管理個体の夜間記録と帝国標準通信が視界の端に映る。緊急性の高い速報はなし。
ラリオーノフは指先で払いのける。
顔を洗い、髭を剃ったタイミングで端末が震えた。
『管理個体、源泉活性確認。帝国標準時間、午前六時』
マシュが起きた。
ラリオーノフは通知を承認した。
眼前に展開するマシュの源泉圧と出力値は正常。だが情動波形が、激しく上下を始めた。心拍数増大。血圧僅かに低下。
端末に現れたのはパニック状態を示す判定だった。
何に怯えたのかは分からない。
だが源泉圧は安定しており、急性逸脱の兆候もない。
介入の必要なし。
そう判断する。
次の瞬間、波形が鋭く跳ね上がる。一瞬の高振幅だ。しかし乱れはない。散らばっていたエネルギーが、ある一点へ集まるように収束していく。
――何かを決めたのか。
ラリオーノフはそう推測する。
だが、何を決めたのかまでは分からない。
コーフェを淹れ、椅子に腰掛ける。
マシュの呼吸は、源泉と同期できていなかった。この状態で飛行訓練を再開すれば、高周波バーストが予測される。
数値は嘘を吐かない。
ラリオーノフは訓練計画を呼び出し、フローチャートを組み換えた。負荷上昇を抑え、初期段階の同期工程を延長する。
内容を保存する。
最終確認のため、マシュの覚醒時間まで記録を遡った。
ふいに意識が一ヶ所に吸い寄せられた。
覚醒直前の記録に、微弱な源泉応答が残っていた。
起床後に確認された活性とは異なる、ごく細い波形。
それが、意識覚醒承認よりもわずかに早く立ち上がっている。
0.098秒。
逸脱アラートは鳴っていない。ならば誤差範囲内と認められている。
だが、揃うべきはずのものが揃っていない。
ラリオーノフの胸の中が冷たく引き攣る。
思い出すのは嘗て学び、修めた制御理論。
そして帝国初期から存在しながら、その因果を証明できずにいる仮説。
世界応答仮説。
意識覚醒に0.1秒以上先行する源泉活性は、自由意志ではなく世界応答による駆動を示唆する。
呼吸が乱れる。
だが0.098秒。
閾値まで、わずか0.002秒。
二ミリ秒。
――規定内だ。
観測誤差の可能性もある。
そもそも覚醒承認の時刻と、意識が生じた瞬間が完全に一致する保証はない。
ラリオーノフは画面を閉じる。
部屋が沈黙を取り戻す。
この数秒の自身の心拍は、異常値とは記録されなかった。
コーフェを口にする。
苦みは分からない。
誤差は常に、規定内から始まる。
ラリオーノフは残りのコーフェを全てシンクに捨てた。




