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飛べない魔女の方程式  作者: Ant.
第二章
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一 朝――異常なし。

 帝国標準時間、午前六時。

 瞼の向こう側が明るくなった。眩しいとは思わない。むしろ心地よい。

 ベッドの上で身動ぎすると、カーテンが開く音がした。今度は本物の朝日に全身を照らされる。

 眠りから引き剥がすのではなく、規定通りの起床を促す合理的な仕組み。

 わたしはすぐには起き上がらなかった。

 少しだけ身を丸めて、自分の足先を触る。――冷えてはいない。

 寝具も部屋も、昨日までの寮とは違う。それでも、わたし自身は変わらない。

 けれど……昨日と今日の間に、何かがひとつだけ削れている。

 その削れた量を測る物差しを、わたしはまだ持っていない――爪先から指を離した。


 ベッドから足を降ろして、呼吸を深める。

 胸の奥が、ふっと熱を帯びた瞬間、ゆっくりと何かが体内を泳いでいった。

 音はない。まるで透明な尾を持つ魚が、身を翻していくような感覚が全身をなぞる。

 源泉が動いたのだ。

 首筋から胸に光が広がり、指先まで伝わっていく。

 最後にお腹が少しだけ温かくなり、そして眠るように落ち着いた。

 息を静める。足の爪先まで巡る血の流れを感じ、体の中の拍を聞いた。

 不意に、端末が小さく鳴った。

『源泉活性化確認』

『異常なし――承認』

 誰かがわたしの源泉が動いたことに気がつき、異常無しと判断したのだろう。見えない人の目を感じた途端に、落ち着かなくなる。せっかく今までいい気分だったのに。

 足を擦り合わせたら、足首に装着された透明な監測環が、きらりと光った。こんな細くて千切れそうなもので、自分の全てを測られていると思うと、なんだか変な感じがする。

 でもこれがきっと、「安全」なのだろう。

 それが自分のためか、帝国のためか……今はまだ曖昧にしておく。

 

 洗面所に行くと、鏡に寝起きのわたしが正確に映っていた。

 なんだか面白くない。

 頬を膨らませると、鏡の向こうのわたしはもっとむくれた。

 蛇口からは、温度も流量も一定の水が流れる。顔を洗い、タオルに手を伸ばした。

 ――その手が止まる。


 折り目が揃っている。


 昨日は、濡れたまま掛けておいた筈なのに――

 気がついた瞬間、部屋の空気が冷たく変わった。


 バスルームを覗く。水滴一粒残っていない。洗面器や座椅子も最初の位置に戻っている。

 生活の痕跡が消されている。昨日のわたしが、何処にもいない。

 本棚を見る。タイトルを確認。持ち込んだものは全てある。教科書も大丈夫。

 ノートを広げる。昨日書いた自分の字がそこにあった。課題もちゃんと終わっている。

 長い息を吐く。膝から力が抜けた。

「びっくりした……」

 それ以上の言葉は使わない。

 管理されているのだから、当然だ。むしろ合理的だ。合理的なことに、感情を割り当ててはいけない。

 割り当てると、こちらが壊れる。

 けれど胸がざわざわと鳴る。

 洗面所に飛び込んだ。

 消されるより先に、わたしが拭く。

 タオルを掴み、飛び散った水滴を全て拭き取る。そして端をしっかり揃えて畳み直した。 

 洗面台の縁を握りしめる。

 頭の中に、昔、教会で読んだ絵本が浮かび上がる。


 ふかふかの椅子に沈み込んだ王様。

 魔法を使わなくても国は動く。

 家来や使い魔がすべてを整える。


 王様はやがて、何も選ばなくなった。


 震えが全身を駆け巡った。

 洗面所を飛び出す。叫び出したいのを必死で堪えて、机の上のノートの、新しいページを開いた。

 勢いよく書きつける。

「魔導物理学者になる」

 初期値では終わらない。

 書き終えた瞬間、震えがおさまった。

 わたしは腰に手を当てて、ふんっと鼻息を吐いた。



 ◇

 


 帝国標準時間、午前五時二十七分。

 ラリオーノフは目を覚ます。目覚ましは必要ない。もう何年も、この時間に起きている。

 ベッドから身体を起こすと、腹の底に血が滲むような熱が広がった。源泉の活性を確認し、呼吸を整える。

 吸気四拍。保持四拍。放出四拍。保持四拍。

 体内の流れが均一になる。

 源泉圧、正常。

 主周波数、安定。

 標準時間からの逸脱なし。

 揃えるべきものは、すべて揃っていた。

 立ち上がると、覚醒脳波を検出したカーテンが開いた。室温が筋緊張度に合わせて調整される。

 窓の外には、白く冷たい帝都の朝が広がっていた。

 空間が唸り、管理個体の夜間記録と帝国標準通信が視界の端に映る。緊急性の高い速報はなし。

 ラリオーノフは指先で払いのける。

 顔を洗い、髭を剃ったタイミングで端末が震えた。

 『管理個体、源泉活性確認。帝国標準時間、午前六時』

 マシュが起きた。

 ラリオーノフは通知を承認した。

 眼前に展開するマシュの源泉圧と出力値は正常。だが情動波形が、激しく上下を始めた。心拍数増大。血圧僅かに低下。

 端末に現れたのはパニック状態を示す判定だった。

 何に怯えたのかは分からない。

 だが源泉圧は安定しており、急性逸脱の兆候もない。

 介入の必要なし。

 そう判断する。

 次の瞬間、波形が鋭く跳ね上がる。一瞬の高振幅だ。しかし乱れはない。散らばっていたエネルギーが、ある一点へ集まるように収束していく。

 ――何かを決めたのか。

 ラリオーノフはそう推測する。

 だが、何を決めたのかまでは分からない。

 コーフェを淹れ、椅子に腰掛ける。

 マシュの呼吸は、源泉と同期できていなかった。この状態で飛行訓練を再開すれば、高周波バーストが予測される。

 数値は嘘を吐かない。

 ラリオーノフは訓練計画を呼び出し、フローチャートを組み換えた。負荷上昇を抑え、初期段階の同期工程を延長する。

 内容を保存する。

 最終確認のため、マシュの覚醒時間まで記録を遡った。


 ふいに意識が一ヶ所に吸い寄せられた。


 覚醒直前の記録に、微弱な源泉応答が残っていた。

 起床後に確認された活性とは異なる、ごく細い波形。


 それが、意識覚醒承認よりもわずかに早く立ち上がっている。

 

 0.098秒。


 逸脱アラートは鳴っていない。ならば誤差範囲内と認められている。

 だが、揃うべきはずのものが揃っていない。

 ラリオーノフの胸の中が冷たく引き攣る。


 思い出すのは嘗て学び、修めた制御理論。


 そして帝国初期から存在しながら、その因果を証明できずにいる仮説。


 世界応答仮説。

 

 意識覚醒に0.1秒以上先行する源泉活性は、自(・)由(・)意(・)志(・)で(・)は(・)な(・)く(・)世(・)界(・)応(・)答(・)に(・)よ(・)る(・)駆(・)動(・)を(・)示(・)唆(・)す(・)る(・)。(・)

 

 呼吸が乱れる。

 だが0.098秒。

 閾値まで、わずか0.002秒。

 二ミリ秒。

 ――規定内だ。

 観測誤差の可能性もある。

 そもそも覚醒承認の時刻と、意識が生じた瞬間が完全に一致する保証はない。

 ラリオーノフは画面を閉じる。

 部屋が沈黙を取り戻す。

 この数秒の自身の心拍は、異常値とは記録されなかった。

 コーフェを口にする。

 苦みは分からない。


 誤差は常に、規定内から始まる。


 ラリオーノフは残りのコーフェを全てシンクに捨てた。


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