第9話「三層」
朝の組合は、昨日と同じ順で回った。買取の列を横目に、登録の窓へ。違ったのは、窓の男がこちらの顔を覚えていたことだ。
「はぐれの件、上に通った。札を出せ」
木札を渡すと、男は焼き印の道具を取り出して、一の隣にもう一つ、数字を焼き足した。二。ニナの札にも同じものが入る。娘の顔が、札と男の手元を何度も往復した。半年で一度も動かなかった数字が、二日で動いたのだ。
「単独の付与術士と駆け出しの娘が、二日ではぐれとはな」男は札を寄越しながら、帳面に何かを書き付けた。「言っておくが、二の札は二層までだ。分かっとるな」
「分かっている」
分かっていることと、従うことは別の話だが、そこまで言う必要はない。層の境を検める者はいない。決まりは門にあって、塔の中にはない。
門を潜るときも、少し違った。層札を検めた門衛が、焼き足された二の数字を見て、それから俺たちの顔を見た。一昨日「一層から出るなよ」と言った男だ。今日は何も言わなかった。言わない代わりに、札を返す手が一昨日より丁寧になっている。数字が一つ増えると、扱いが一つ増える。そういう場所らしい。
三層への階段は、二層の水場の奥にあった。段の途中から空気が変わる。湿りが増して、どこかで水の落ちる音が続いている。ニナの足が、段の上で一度止まった。
「ここから先、私、初めてです」
「俺もだ」
隊にいたころは四層から上ばかりで、三層は素通りだった。歩いて潜るのは初めてになる。そう言うと、ニナは妙な顔をした。初めて同士の二人で来る場所ではない、と顔に書いてある。書いてあるが、口には出さなかった。代わりに、昨日の軒下の言葉を口の中で確かめ始めた。水場は右。骨は踏まない。
三層は、水の層だった。
壁のあちこちから細い流れが染み出して、床の低い側へ集まっていく。光る石は二層よりさらに減って、その代わり、水面が入り口の明かりを拾って揺れていた。足元に、白いものが散らばっている。骨だ。小さいのも、大きいのもある。乾いた骨は水際を避けるように、高い側の床に寄っていた。
「踏まないで、ください」ニナが先に言った。「乾いた音は、魔物を呼ぶって」
「覚えていたか」
「一言も忘れてません。あの人の話、全部」
言い方に、拾い集めた者の重みがあった。この娘にとって層の知識は、命の値段で買うか、誰かに恵んでもらうかしかなかったものだ。それを昨日、軒下で、粥一杯の隣においてもらった。忘れるはずがない。
骨を避けて進むと、道が二つに割れた。水場の分かれだ。左の道は、入ってすぐのところで天井が落ちて、土砂が通路を塞いでいる。崩れ口はもう乾いて、埋まってから季節が回ったことが分かった。秋口に崩れて、直っていない。軒下で聞いたとおりの光景が、聞いたとおりの場所にあった。
「……本当だ」ニナが崩れ口を見上げて呟いた。「地図には、載ってないのに」
地図に載らない種類の知識だ。歩いた人間の中にしか残らない。その人間は今、飯屋の裏の軒下にいる。脚は動かないが、知っていることは崩れていない。埋まった通路を眺めながら、そのことを確かめた。
右の道は水際を巻いて、広い間へ抜けた。上位の薬草が水際に群れている。ニナが屈み込んで選り分けを始めた、そのときだった。
摘みながら、ニナは手順を口にしていた。摘んでいい株。残す株。根を傷めない抜き方。一層で半年かけて覚えた作法を、三層の草にもそのまま使っている。層が上がっても、この娘の仕事の丁寧さは変わらないらしい。袋の口が薬草で緑になっていくのを見ながら、そういえば、と思った。丁寧、の中身を訊かれて答えられなかったのは俺のほうだ。この娘は、訊かれれば全部答えられるだろう。
水面が、割れた。
甲殻に覆われた、蟹に似た這うものが、水の中から次々に上がってくる。岩這い。一層の駆け出しでも名前だけは知っている魔物だ。一匹なら大したことはない。だが、群れる。数えて、六。水際に沿って横に広がりながら、こちらへ向かってきた。
ニナが短剣を抜いて、下がる。正しい判断だ。六匹に囲まれれば、腕の問題ではなくなる。だが下がる先は階段までの一本道で、岩這いの横への広がりのほうが早い。囲みが先に閉じる。
床を見た。
石の床だ。水に濡れて、乾いて、また濡れる床。靴底に入れた線を思い出した。滑らないように、と入れた二筋。あれの逆を入れれば、滑る。物の性質を足すのが刻みなら、足す性質を選べない理由はない。考えたのはそこまでで、あとは手が動いていた。
膝をついて、炭筆で床に線を引く。岩這いの来る筋に、横へ一本。深く、長く。石は革より硬く、靴底より広い。それだけの違いで、入れ方は同じだ。硬い物には浅く、と覚えた手が、床の硬さに合わせて勝手に加減する。
先頭の一匹が線を踏んだ。
甲殻の脚が、流れた。踏ん張りの利かない氷の上のような滑り方で、横に流れて、後続とぶつかる。二匹目も線の上で脚を取られた。横に広がっていた囲みが、線の手前で折り重なって、崩れる。
「ニナ。右の端から、一匹ずつだ」
囲みが列に変わった。列の端は、一匹ずつしか来ない。ニナの短剣が、崩れた一匹目の継ぎ目に入る。二匹目。三匹目。俺は線の切れかけた場所に短い一本を足して、水際からの新手の筋にもう一本引いた。それだけだ。戦っているのはニナで、俺は床を直しているにすぎない。
六匹目が動かなくなったとき、ニナは肩で息をしていた。息の下から、笑いに近いものが漏れている。
「……床が、味方してくれました」
「滑り止めの逆を入れただけだ。靴にやったのと同じで、向きが違う」
「同じ、ですか」ニナは床の線と、自分の靴とを見比べた。「同じには、見えないですけど」
同じだ。深く入れるか、浅く入れるか。止めるか、流すか。刻みの理屈は一つで、使う場所が違うだけのことだ。説明しながら、途中で気づいた。この理屈を人に話したのは、初めてだった。
岩這いの甲殻を剥いで、薬草を摘み終えるころには、袋が重くなっていた。三層の実入りは、二層のさらに上をいく。ボルグの言った右の道は、崩れていないだけではなく、稼ぎの道でもあった。
日のあるうちに戻る。そう決めて水場の間を出ようとしたとき、通路の奥に、鈍い照り返しが見えた。
灯りの届く際の、その先。暗がりの中に、金属の面がいくつも重なって、入り口の明かりをわずかに返している。岩でも水でもない。人の作った物の照り返しだ。
近づくと、それは山だった。
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