第8話「動けない男」
「習っていない」
戸口の手前で、ボルグは動かずにこちらを見ていた。嘘を疑う目ではない。聞き間違いを疑う目だ。付与術士は師につくものだと、世間では決まっているらしい。隊にいたころも、どこの工房の出だと訊かれたことが何度かあった。どこでもない、と答えると、それ以上は誰も訊いてこなかった。興味を持たれる答えではなかったのだろう。この男は、そこで止まらなかった。
「師はいない。拾い読みと、我流だ」
「我流」低い声が、言葉の重さを量るように繰り返した。「……独学で、あれを刻むのか」
あれ、が何を指すのかは訊かなかった。ニナの短剣の線のことだろう。安物に入れた欠け止めの一筋を、この男は灯りの透かしで見分けた。付与を見慣れた人間の目だ。だから答えるほうも、見慣れた人間に通じる言い方を探したが、見つからない。俺の刻みを隣で見た人間はいないし、俺も他人の刻みを隣で見たことがない。説明の言葉を、持ち合わせていなかった。
「深く入れているだけだ」
「深く」ボルグはもう一度繰り返して、それきり黙った。問いを引っ込めたのではなく、仕舞った顔だ。確かめる順番の、まだ先のほうへ仕舞った。
外に出ると、日が傾いていた。塔の影が通りを渡って、店の壁を斜めに割っている。影の中はもう夜の温度で、通りを行く探索者たちの足が速い。日のあるうちに宿へ入る者と、これから夜の口で稼ぐ者に、人の流れが割れていく時刻だった。ボルグは壁に手をつき、左脚を引きずって歩いた。一歩ごとに、動く脚が動かない脚を追い越して、体がそのたび傾いては戻る。歩き方に迷いはなかった。この歩き方で、もう長く暮らしている。
「どこへ帰る」
「帰る場所の話は、していない」
寝る場所の話だと言い直すと、ボルグは店の裏手を顎で示した。軒の張り出した物置の壁際。風の抜けない側に、潰れた麻袋が一枚敷いてある。それが答えだった。この店の残り物と、この軒下と、あの座り方。売れる物を売り切った男の暮らしが、一揃いそこにあった。
ニナが口を開きかけて、やめた。それから俺の顔を見る。三日前の自分と同じものを、この娘は軒下の麻袋に見ているのだろう。路地の壁と、物置の壁。座り込む場所が違うだけで、座り込み方は同じだ。
俺は、まだ何も決めていない。宿の相部屋にもう一人は入らないし、俺の稼ぎはまだ二日目だ。決めていないが、訊いておくことは決まっていた。
「脚は、治らないのか」
「治らん」即答だった。「治療院にも担ぎ込まれた。骨が潰れて、中で固まっとる。切れば命は残るが、切っても歩けん。なら残しておけと言って、残した」
淡々とした声だ。自分の脚の話を、他人の荷物の話のようにする。言い慣れているのではない。言い方を先に済ませてあるのだ。訊かれるたびに揺れずに済むように。
「荷も持てん。長く立てん。走れん。探索者としては終わっとる」ボルグは壁に背を預けて、ゆっくりと座り込んだ。立つときの三倍、丁寧な動き方だった。「俺を拾っても、何の得もない」
得。
その言葉が出てくる場所を、考えた。この男は昼から、断る筋をずっと探している。粥のときも、名乗りのときも、今も。差し出されるものを受け取る前に、受け取っていい理屈を確かめようとして、見つからずにいる。得がない、は断りの言葉ではない。受け取る理屈が立たない、という報告だ。
「得の話は、していない」
「なら、何の話だ」
即座に返ってきた。売り言葉ではなく、本当に分からない声だった。得でないなら何なのか、この男の勘定には載っていない。載っていない勘定を、俺は説明できない。ニナにもできなかった。二度やって二度できないのだから、三度目も無理だろう。だから話を、分かるところまで下げた。
「明日の話だ」俺は軒下の麻袋を見て、それから男の顔を見た。「明日も、あの店に来てくれ。昼に。飯は出す」
ボルグの眉が寄った。三度目の、なぜだ、が来るのが分かった。来る前に言った。
「脚と腹は、別の話だ。脚が動かない人間の腹は、減らないのか」
ボルグは口を開けて、閉じた。灰色の目がこちらを見たまま、しばらく動かない。やがて息が漏れた。笑いに近い形をしていたが、声にはならなかった。
「……減る。人並みにな」
認めるまでに要した間の長さが、この男の二年間の長さなのだろう。減る腹を、減らないことにして暮らす。そういう帳尻の合わせ方を、どこかで覚えてしまった男だ。
「なら、話は終わりだ」
日が屋根の向こうに落ちて、通りの色が変わり始めた。帰るか、とニナに言いかけたとき、ボルグが口を開いた。
「三層の水場は、右の道を使え」
振り向くと、ボルグは俺ではなく、正面の壁を見ていた。
「左の道は秋口に崩れて、埋まったまま直っとらん。地図はまだ古いはずだ。それと、三層の骨は踏むな。乾いた音が魔物を呼ぶ。四層に上がるなら、隊列は縦に組め。あそこの通路は横に並べる幅があるが、並ぶと退路が消える」
金の話ではなかった。借りの話でもない。前置きも値段もなく、ただ順番に、確かなことだけが並んでいく。地図に載らない種類の話だ。歩いた人間の中にしか残らず、歩けなくなれば、そこで止まる。だが、これがこの男の払い方なのだと、途中で分かった。粥一杯の対価に、この男は自分に残った唯一の持ち物を出している。脚でも腕でもなく、上の層を歩いた年数を。
ニナが軒下に屈み込んで、聞き入っていた。三層も四層も、この娘にはまだ先の話だ。それでも一言も聞き逃すまいとしている。半年、誰にも教わらずに一層を歩いた娘だ。教わるということの値段を、たぶんこの場の誰よりも知っている。
「五層は、音を覚えろ。あの層から、塔が鳴り始める。鳴った方向には近寄るな。理屈は知らんが、鳴る場所では刃物が早く鈍る。六層は——」
ボルグの言葉が、そこで一段遅くなった。
「六層は、水が出る。層のどこかで必ず雨が降っとる。装備が濡れる前提で組め。濡れた革は重い。重さの分だけ、引き際が遅れる」
「詳しいな」
「二年前まで、通っとった」
通っとった、という言い方が耳に残った。行った、ではない。仕事場の話をする言い方だ。六層を仕事場にできる隊は、この町でも数えるほどしかないと、隊にいたころに聞いている。
それきり、ボルグは黙った。続きがあるのは、途切れ方で分かった。六層の先の話が、この男の中にはある。
「その先は」
ボルグは答えなかった。視線が俺を離れて、通りの向こうへ動く。建物の切れ目に、塔の腹が見えていた。日の落ちた側から藍色に沈んでいって、上のほうは、もう夜の色をしている。
ボルグの喉が、一度動いた。
言葉は、出てこなかった。
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