第7話「二人目」
店の隅の男は、こちらが近づいても顔を上げなかった。
空の椀が床に置いてある。汁の跡が乾いて、縁に薄い輪ができていた。だいぶ前に食い終えて、それきりここにいるということだ。壁を背にした座り方は、休んでいる形ではない。立てないから、そこにいる。左脚が投げ出されて、膝が伸びきったまま動かない。
体は大きかった。俺より頭ひとつ高く、肩の幅は倍近い。それだけの体に、荷がない。武具もない。上着の前は擦り切れ、革帯の穴は端まで使い込まれて、内側へ二つ、自分で開け直した跡がある。売れる物から順に売って、痩せていった男の帯だ。
店の者が遠くから、困った目でこちらを見ていた。追い出したいが、追い出す口実もない。そういう目だ。この町では珍しい光景でもないのだろう。塔に登れなくなった人間が、どこへ行くのかという話は、誰も口にしない。
「相席、いいか」
男が目を上げた。灰色の目に、驚きよりも先に警戒が出る。物乞いを追い払いに来た店の者かどうかを測る目だ。値踏みされているのが分かった。
「もう食った」男は床の椀を顎で示した。「金は払ってある。文句を言われる筋はない」
声は嗄れていたが、芯が残っていた。喧嘩慣れした男の断り方だ。追い払いに来た相手を、言葉の先だけで止めにかかっている。
「食ったのは、いつだ」
男の匙を持つ手が、まだ動かない。答えを探しているのではなく、答える必要を測っている。
答えが返ってこない。返ってこないことが、答えになっていた。椀の汁が乾いて輪になるには、半日はかかる。その半日を、この男はここで動かずにいた。
ニナを呼んで、粥を三つ頼んだ。銀貨はまだ袋の中にある。三人分でも、今日は痛まない。ニナは注文を通したあと、俺の隣ではなく、男から一つ離れた席に座った。近すぎず、遠すぎない距離だ。三日前まで路地に座っていた娘の測り方は、たぶん正しい。
運ばれてきた椀を男の前に置くと、太い指が卓の上で止まった。
「頼んでいない」
「俺が頼んだ」
「金がない」
「払ってある」
短い応酬で、男の目の警戒がわずかに形を変えた。断る筋を探して、こちらが差し出さないので、探す場所がなくなった。そういう変わり方だった。
男はしばらく椀を見ていた。湯気が上がって、顔の下半分を通り過ぎていく。喉が動いた。腹が減っていない人間の喉の動き方ではない。それでも手は伸びない。
「なぜだ」
またそれか、と思った。ニナのときは道の途中で訊かれた。今度は卓越しだ。訊く場所が違っても、訊きたいことは同じらしい。ニナも同じことを訊いた。理由を探しても、あのときと同じ場所に行き着く。
「腹が減った人間がいたら、食わせる。それだけだ」
「理由になっていない」
「なっていないな」
男の眉が動いた。笑ったのかもしれない。呆れたのかもしれない。どちらにしても、その拍子に肩の力が緩んだらしく、太い手が椀を取った。
食い方は、ニナと違った。急がない。一口ずつ、噛んで、飲み込んで、次を運ぶ。何日ぶりかの飯を、体が受け付けないことを知っている食い方だ。急いで食えば戻す。戻せばその一杯が無駄になる。それを知るには、一度は無駄にした経験が要る。飢えた年季が、匙の速さに出ていた。
半分ほどまで進んだところで、男が手を止めた。
「ボルグだ」
名乗るのに、それだけで足りるらしい。隊の名も、層も、経歴も付けない。
「アルドだ。こっちはニナ」
「よろしくお願いします」
ニナは椀を置いて頭を下げた。ボルグは俺たち二人を順に見て、それから店の外へ目をやった。窓の向こうに塔の腹が見えている。この店のどの席からでも見える。
「その娘の短剣。刃の根に、線が入っているな」
ニナの手が、帯の短剣にかかった。隠すためではなく、確かめるための動きだ。
「見えたんですか。ここから」
「灯りに透かした角度で、光り方が違う。……付与か」
「アルドさんが刻んでくれました」
ボルグの目が、俺の手元に移った。卓に置いた俺の手。爪の間には、まだ今朝の炭が残っている。二層で刻んだぶんだ。洗っても一日は落ちない。
それきり、ボルグは何も言わなかった。匙を持ち直して、残りを食い始める。訊きたいことを飲み込んだ顔ではなく、確かめる順番を考えている顔だ。何から訊けば話が通るかを、こちらの出方を見ながら組み立てている。飯屋で椀ひとつ食う男の考え方ではない。
ニナが俺の袖を引いた。声を落として言う。
「あの人、たぶん、ただの人じゃないです」
「飯屋にいる人間は、たいてい、ただの人だ」
「そうじゃなくて。座り方が、うちの……その、隊にいた人たちと似てます。試験のとき見た、上の層に行ってる人たちの座り方」
言われて、見直した。壁を背にして、店の入り口が見える位置。左脚が動かないぶん、右膝が常に立っている。逃げる算段のできる姿勢だ。飯屋で椀ひとつ食うのに、この座り方をする人間は多くない。
ボルグが椀を置いた。底まで浚ってある。木の匙で掬えるだけ掬って、それでも縁に残った分を指で拭う手前で止めた男の椀だ。
「うまかった」
それだけ言って、卓に手をついた。体を起こそうとして、右脚に力が入る。左は使えない。腕の力で押し上げるやり方だが、その腕も、二日か三日ぶんの飢えのぶんだけ足りていない。一度で立てず、二度目で膝が笑った。
ニナが立ち上がりかけたのを、手で止めた。ボルグは、支えられて立ちたい男ではない。それは今の座り方を見れば分かる。
三度目で、ボルグは立った。壁に手をついて息をつく。立つのに要した手間を、こちらに見せまいとする素振りもなかった。隠せるものではないと知っているのだろう。隠さないことに決めた人間の顔だった。
「借りは返す。金ができたら、この店に置いておく」
置いておく、という言い方だった。自分で持ってくるとは言わない。次にここへ来られる保証を、この男は自分に出せずにいる。
「返さなくていい」
「そういうわけにはいかん」
「返す相手を間違えている」俺は椀を三つ、店の者に返しながら言った。「この飯は、この娘が稼いだ金で買った。二層のはぐれを一匹倒して、それで足りた」
ボルグの動きが止まった。壁についた手はそのままで、首だけがゆっくりとニナのほうへ向く。細い腕。手入れの行き届かない革帯。半年間ほつれるに任せた靴。どこからどう見ても、二層で格上を倒す娘には見えない。ボルグの目が、その靴のつま先で止まった。縫い目の口が開いたまま、それでも今日一日、一度も破れなかった靴だ。
「……いつからだ」
「昨日からです」ニナが答えた。「一昨日まで、私、三日食べてませんでした」
ボルグは答えなかった。壁についた手が、拳の形になっている。
そのまま出口へ向かうのだろうと思った。だがボルグは戸口の手前で止まり、卓に残った俺の手をもう一度見た。爪の間の、黒いもの。
「その刻み方」
低い声だった。
「どこで習った」
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
Youtubeにて作品公開中!
http://www.youtube.com/@mizukara-h2z
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。




