第6話「【sideニナ】あの人が何をしたのか」
背中に、指が触れた。
それだけだったと思う。熱くも冷たくもない、爪の先で一度なぞられたくらいの感触。なのに次の瞬間、足の裏が床を掴んだ。掴んだ、としか言いようがない。踏ん張っているのではなく、床のほうから足を支えてくるみたいに、体の重さがまっすぐ通る。
受けていた短剣が、押し返せた。
腕の力は同じはずだ。私の腕は細いままで、はぐれは倍のままで、それなのに刃を挟んだ押し合いが、削られていかない。はぐれが身を引いた。今まで、引かせたことなんてなかったのに。
体が勝手に前へ出た。踏み込みが、軽い。いつも半歩で止まる足が、一歩ぶん奥まで入る。短剣を振ると、手に吸い付いて、狙った線の上を刃が通った。毛皮に当たって、止まらない。毛皮の下、肉の奥、骨の間。半年間ずっと浅かった私の刃が、初めて深く入った。
はぐれが吠えた。牙が来る。見えた。今までなら見えないまま受けていた速さが、見えて、避けられて、避けた先に次の足場がもうある。すれ違いざまに、もう一度刃を入れた。今度は迷わなかった。はぐれがよじれて、床に落ちる。二度、足で床を掻いて、動かなくなった。
静かになってから、自分の息の音に気づいた。荒いのに、苦しくない。半年間、一層で小物を相手にするときでさえ、終わったあとは膝が笑っていたのに。
倒した。
私が、倒した。二層のはぐれを。一層で薬草を摘んで、小物を拾って、それで半年生きてきた私が。パーティの試験に三回落ちて、盾にもならないと言われて、水場の隅の薬草の場所だけ詳しくなった私が、二層で、格上を。
短剣を握ったまま、指がほどけなかった。震えているのは分かったけれど、怖くて震えているのか、それとも別の何かなのか、自分でも区別がつかない。振り返ると、アルドさんは炭筆を仕舞っているところだった。仕舞い終えて、私ではなく、私の短剣を見た。
「刃こぼれ、なし。良い引きだった」
「……今の、何をしたんですか」
「転ばないように、足元を整えただけだ」
足元。私が訊きたいのは、そういうことではない。踏み込みが変わって、腕が押し返せて、刃が深く入った。足元どころか、体ぜんぶが別物だった。でもアルドさんは、それ以上何も言うことがない顔で、はぐれのそばに膝をついている。
「怪我は」
「……ないです。どこも」
「なら良かった」それで済ませて、アルドさんははぐれの顎を持ち上げた。「牙と毛皮は取っていく。はぐれは高い。剥ぎ方は見て覚えろ」
手際が良かった。隊にいたころ覚えたんだと言う。刃を入れる場所、引く方向、毛皮を傷めない順番。教えられながら、私は途中で気づいてしまった。この人は、はぐれを倒したことよりも、私の短剣が欠けなかったことのほうを喜んでいる。
帰り道の二層は、行きより短く感じた。すれ違う隊が、私たちの担いだ毛皮を見て道を空ける。行きは二度見されて、帰りは道を空けられる。半日で、通り方が変わってしまった。
買取所の窓で、係の人が毛皮を広げて、手を止めた。
「二層のはぐれか。……どこの隊だ」
「隊じゃありません。私が、その」
言葉に詰まった私の横で、アルドさんが層札を出した。木の札。焼き印は一。係の人は札と私たちを三回くらい見比べて、それから何も言わずに秤を出した。何も言わない、という言い方が一番近い。言いたいことを全部呑み込んだ顔で、銀貨を三枚、台に置いた。
銀貨。三枚。
私の半年ぶんより多い稼ぎが、半日で台の上に載っている。受け取る手が少し遅れた。アルドさんは秤の目盛りのほうを確かめていて、係の人の顔は見てもいなかった。
昼は、昨日の飯屋にした。私が選んだ。理由は決めてある。
「二人分、お願いします。粥と、干し肉も」
店のおばさんが私の顔を覚えていて、それから注文の言い方で、少しだけ眉を上げた。昨日は食べさせてもらう側の席にいた娘が、今日は頼む側に座っている。
注文を言うのが私で、お金を出すのも私だ。昨日の粥と干し肉の分、今朝の宿の分、それから置いてきた銅貨で足りなかった分。ゆうべのうちに、全部数えてあった。銀貨から払って、お釣りを受け取って、残りをアルドさんの前に置く。
「稼ぎは、山分けにしてください。私だけじゃ倒せませんでした」
「お前が倒した。俺は刻んだだけだ」
「じゃあ、刻んだ分です」
アルドさんは少し黙って、それから半分を取った。まけても、突き返してもこなかった。貸しにしておくとも言わなかった。ちゃんと、受け取ってくれた。この人のそういうところが、私はもう分かり始めている。借りたままにさせない。返させてくれる。施しじゃなくて、勘定にしてくれる。
粥をすくいながら、向かいを見た。アルドさんは自分の椀より先に、卓に置いた私の短剣をまた検めている。溝を指でなぞって、頷いて、それから思い出したように匙を持つ。
買取の人のあの顔も、門衛の顔も、この人は見ていない。銀貨三枚にも驚かない。二層のはぐれを駆け出しが倒したことの意味も、たぶん考えていない。刃こぼれがないことだけを、確かめている。
この人は、自分が何をしたのか、分かっていない。
組合の人は、付与は数刻で切れると言った。半年もつ付与はありえないと言った。あの言い方だと、戦いの最中に人の背中へ、触れただけで刻めるものでもないんだと思う。思うけど、確かめる相手がいない。本人に訊いても、足元を整えた、しか返ってこないのだから。
それが分かって、なんだか粥の味が変わった。すごい人に助けられたのとは、違う。すごさの分からないすごい人が、私に飯を食わせるためだけに、隣で匙を動かしている。誰かに言いたいような、誰にも教えたくないような。
食べながら、明日の話をした。もう一度二層に行くか、それとも三層の入り口を見るか。アルドさんは装備の様子を見てから決めると言った。刻んだものが今日一日でどう保ったか、宿で検めるらしい。私の靴と帯と袋は、朝と同じ顔で私に付いてきている。半年間、ほつれて、ひび割れて、すり切れていく一方だった物たちが、今日は一つも減っていない。
椀が半分になったころ、店の隅が目に入った。
大男の人が、壁を背にして座り込んでいた。座っている、より、置かれているに近い。武具も荷もない、身ぐるみ売り払ったあとみたいな軽さで、左脚だけが投げ出されて、動く様子がない。目の前の床に、空の椀。店の人が遠くから、困った目で見ている。
アルドさんの匙が、止まった。
立ち上がる。
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