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第5話「一層」

塔の口は、夜明け前がいちばん混む。潜行は朝いちで入って日のあるうちに戻るのが定石で、門前には既に隊の列ができていた。列の誰もが歩きながら装備を検めている。俺の点検は昨夜のうちに済んでいる。検めるものが、鏨と炭筆と、層札一枚しかないからだ。

列は思いのほか早く流れた。門衛は二人組で、片方が札を検め、片方が荷を目で流す。長物の持ち込みと層札の齟齬だけを見る検め方だ。順番が来て、木札を出した。門衛は層札を受け取ると、焼き印と俺の顔を見比べた。それから札を裏に返し、もう一度表へ戻した。

「単独か」

「そうだ」

「一層から出るなよ」

札が戻ってくる。門衛の目は、次の隊へもう移っていた。単独の付与術士がどうなろうと、覚えておく価値もない。そういう目だった。妥当な目だと思う。帳面の埋め草にもならないと、登録の窓でも言われたばかりだ。

一層は、思っていたより明るかった。壁のところどころに光る石が埋まっていて、塔の外の朝より、中のほうが白い。床は踏み固められ、通路は広い。駆け出しらしい若いのが数人、壁際で薬草を摘んでいる。魔物の声は遠い。浅い層は、塔というより採集場に近い。

探すあてはあった。摘んでいい場所は限られている、と昨日の下見でニナ自身が教えてくれていた。薬草の残る隅は三つ。近い順に回って、二つ目で足が止まった。

ニナは、水場の手前にいた。

しゃがみ込んで、岩の根の薬草を選り分けている。手つきに迷いがない。摘んでいい株と残す株を、見もしないで分けていく。腰の短剣は帯に差し、俺の外套の裾は膝の下に敷き込んであった。汚さない工夫らしい。

近づく足音に、振り向いた。逃げも謝りもしない。立ち上がって、まっすぐこちらを見る。

「……先に、稼ごうと思ったんです」

「聞いてない」

「言ったら、止めたでしょう」

止めたかどうかは分からない。止める筋を探して、見つからなかったかもしれない。ただ、黙って出た理由は分かる。昨夜の銅貨一枚と同じだ。食わせてもらう前に、自分の稼ぎを立てておきたい。借りたままで隣に立ちたくない。そういう順序で生きてきた娘だということは、この三日で分かってきた。

責める言葉を探して、やめた。俺が言えた筋でもない。昨日、確かめたいことがあると言って単独登録をした男が、先に動いた娘を責める。順序としておかしい。

「摘んだ分は」

ニナは袋を開けて見せた。底に、薬草の束が三つ。買取に持ち込めば、銅貨が数枚。粥が二杯と、少し。それがこの娘の朝の稼ぎの全部だった。半年、これで生きてきたのだ。文句をつける筋はない。ただ、二人の飯には足りない。

「二層に行きます」ニナが先に言った。「一層の薬草じゃ、いつまで経っても返せません。装備も、刻んでもらいましたし。……昨日までとは、違うから」

来た道を思い返す顔ではなかった。もう決めて出てきた顔だ。止めるなら理屈が要る。探したが、俺の側の理屈は逆を向いていた。刻んだ装備がどう保ち、どう効くかを、隣で見たい。一層の採集では装備は試されない。二層なら、試される。

「行くなら、俺も行く。確かめたいことがある」

ニナは一度まばたきをして、それから頷いた。止められると思っていたらしい。層札の決まりでいえば、俺は一層までだ。だが札を検める者は門にしかいない。層の境の階段は、誰の物でもなかった。

階段は水場の奥にあった。石段は一層の床と同じに踏み固められている。二層までは、通う者が多いということだ。段を降りるニナの足取りに、ためらいはなかった。初めてではないのだろう。訊くと、二度だけ、と返ってきた。二度とも、隊の尻について入り口を見ただけだという。三度目が今日で、初めて奥へ行く。

二層は、一層と空気が違った。

光る石が減って、通路が狭い。天井が低く、音の返りが近い。壁の色が濃くなり、足元に小さな骨が転がるようになる。駆け出しの姿は消えて、すれ違うのは装備の整った隊だけになった。すれ違いざま、向こうはこちらを二度見していく。荷の軽い男と、駆け出しの娘。組み合わせとして、覚えのない形なのだろう。

ニナの動きは、悪くなかった。狭い通路では壁に背を寄せ、開けた場所では骨を踏まない足場を選ぶ。半年の一層暮らしで覚えた用心が、二層でも生きている。道中、小型を二匹、短剣で片づけた。刃の入りが良い。踏み込んで、すぐ引く。型は我流だが、引き際の早さは長所だ。死なない型というものがあるなら、これがそうだろう。俺は手を出さず、刻んだ装備だけを見ていた。靴は滑らない。帯は暴れない。切れる兆しは、まだどこにもない。

異変は、水音のする角で来た。

先に気づいたのはニナだった。足が止まり、短剣が上がる。角の向こうから出てきたのは、犬に似た形の魔物だった。ただ、大きい。二層で見る型の倍はある。毛の色が濁って、目だけが濁っていない。はぐれ、と呼ばれる型だ。隊にいたころに聞いた。上の層から落ちてきて、浅い層の獲物で肥える。浅層しか知らない駆け出しには、格上も格上だ。

ニナが半歩下がる。俺も下がる——のが正しい。逃げ足なら二人とも軽い。だが、はぐれの足はもっと軽かった。距離が、詰まる。

ニナが前に出た。俺を背にかばう位置だ。順序が逆だと言う間もなかった。短剣が最初の飛びかかりを受け流し、返す二の太刀が浅く入る。浅い。毛皮の下で止まる深さだ。はぐれが身をよじり、ニナの体勢が流れる。押されている。技でも用心でもなく、ただの目方の差だ。受けるたびに、細い腕ごと後ろへ削られていく。あと二合で崩される。

退路は後ろにある。声をかけて下がらせる手もある。だが受けの最中に背中へ声をかければ、半合ぶん腕が遅れる。半合の余裕は、もうない。選べる手が一つずつ消えていって、最後に残ったものを、考えとは呼べない。

手が先に動いていた。

炭筆を握り、ニナの背中へ腕を伸ばす。外套の上からでは届かない。襟の内から、汗で湿った背中、肩甲骨の間。指が着く。刻む場所は考えなくていい。装備に何百回も入れてきた形が、指の中にある。深く。短く。まっすぐに。

物に刻むのと、人に刻むのが同じかどうか。考えたことはなかったし、考える暇も、今はなかった。

指が、離れる。

ニナの踏み込みが、変わった。


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