第4話「支度」
宿は、軒下で聞いた話のとおりだった。相部屋の隅がひとつと、土間に藁布団がひとつ。二人で押し込んで一人分と少し。帳場の親父は銅貨を数え終えると、それきりこちらを見なかった。相部屋には先客が二人、壁際で既に眠っている。潜行明けの眠り方だ。起きる音では起きない。
隅の寝床をニナに割り当てると、首を横に振られた。
「私が土間でいいです。払ってるのは、あなたなんですから」
「膝から崩れた人間を土間に寝かせる筋はない。三日食っていない体は、まだ三日ぶん借りがある。返すのは戻ってからでいい」
理屈で押すと、ニナは口をつぐんだ。筋で話せば、この娘は引き下がる。恩の貸し借りで話すと、引き下がらない。覚えておくことにした。物覚えの話でいえば、飯屋からここまでの道すがら、ニナは通りの店の値をよく知っていた。どの店の粥が薄いか、どの露店が量りをごまかすか。金のない半年は、そういう地図も残すらしい。
眠る前に、装備を検めた。明日は一層とはいえ、塔は塔だ。浅い層で死ぬ者は毎年いる。死に方の多くは深手ではなく、転倒と、装備の破れと、逃げ遅れだと聞く。防げる側の死に方だ。防げるものは、先に防いでおく。並べさせると、卓の上は寂しいものだった。短剣。革帯。肩掛けの袋。それで全部だという。外套はなく、靴は履いたままのを脱がせた。
つま先の縫い目は、今朝がたより口を開けていた。靴底は薄く、踵の側が斜めに減っている。革帯は留め具の周りにひびが走り、引けば留め具ごと持っていかれそうな深さまで達していた。袋は底の角が擦り切れて白い。塩でも入れれば、そこから漏れる。どれも手入れが悪いのではない。革には油を回した跡があり、縫い目には繕いの糸が二色残っている。直しながら使ってきた物ばかりだ。ただ、手入れでどうにかなる段階を、とうに過ぎている。
「買い替えは、稼いでからだ。それまでは、保たせる」
鏨と炭筆を出した。革物は鏨を使わず、炭筆で線を置いてから爪先の腹で押し込む。硬い物と柔い物では、入れ方が違う。誰に教わった区別でもない。硬い物に浅く、柔い物に深く入れて、それぞれ失敗してから覚えた。まず靴底。滑らないように、減らないように、土踏まずの内へ短く二筋。革帯は留め具の根に一筋、ひびの走りを止める形で。袋は底の角に沿わせて一周。短剣は検めるだけにした。半年前の一筋はまだ深く、足すところが見当たらない。
手が覚えている仕事だ。隊にいたころは、これを休憩のたびに全員分やっていた。六人分の装備を順に回して、ひと巡りしたら最初に戻る。一人分は、その六分の一で済む。蝋燭が一本燃える間の仕事だった。急いだわけではない。刻む場所が、どれも小さかっただけだ。
ニナは向かいに座って、手元を見ていた。最初のうちは訊いてきた。それは何の印か、なぜそこに入れるのか。滑り止めだ、減り止めだ、と答えるうちはよかった。一つ終わるたびに、ニナは自分の持ち物を目で数え直す。革帯のあたりから口数が減り、袋が終わるころには、何も言わなくなっていた。蝋燭の灯りの中で、刻み終わった物が卓の上に並んでいく。ニナの目は、その列と俺の手先を往復していた。
最後に、荷から自分の外套を出して畳み直し、裾と肩に刻んでから渡した。
「外套は、それを使え。俺は土間だ。上掛けは要らない」
「……これも、刻んだんですか」
「ああ」
「短剣と、靴と、帯と、袋と、外套」ニナは指を折った。数え終えた手が、開かれないまま膝に降りる。「私、明日、何も心配しなくていいんですね」
「転ぶ心配は減らした。それ以外は、お前の腕の話だ」
「腕、ですか」
「半年、一層で死ななかった腕だ。俺は買っている」
世辞ではない。装備がこの有様で半年保ったのなら、保たせたのは腕のほうだ。ニナは何度かまばたきをして、それから外套の角をまた揃え始めた。
「雨を弾くのと、裾がほつれないのを入れた。転ばない、濡れない、破れない。それだけだ。大した手間じゃない」
ニナは外套を膝に載せたまま、しばらく動かなかった。それから、畳んだ端をもう一度畳み直した。整える必要のない角を、指で何度も揃えている。
「明日は一層に潜る。稼ぎは俺が立てる。だからお前は——」言葉を選び直した。死ぬな、では広すぎる。無理をするな、では狭すぎる。「俺が稼ぐまで、死なないでくれ。頼むのはそれだけだ」
食わせる、と決めた相手に頼むことが一つだけあるとすれば、これしかない。死んだ人間には、飯を食わせられない。
ニナが顔を上げた。口が開きかけて、閉じる。開きかけた形と、出てきた言葉が別物なのは、聞けば分かる。
「……おやすみなさい」
おやすみ、と返して蝋燭を消した。暗がりの中で、隅の寝床が二度ほど寝返りを打ち、それから静かになった。眠りの浅い呼吸がしばらく続いて、やがて深くなる。三日ぶりの飯と、初めての寝床だ。眠りが深くなるまでの時間は、それでも短くなかった。
藁布団に横になると、天井の梁が黒く太かった。古い宿だ。この梁も、どこかの誰かが手をかけて保たせてきたのだろう。物は、手をかけたぶんだけ保つ。人がどうかは、知らない。試したことがないからだ。
土間は冷えたが、軒下よりはましだった。壁の向こうで、遅く戻った探索者の足音がしばらく続いて、やんだ。明日の稼ぎは薬草と小物で、大きくはない。それでも、刻んだ靴と帯がどう保つかを、初めて隣で最後まで見られる。切れるなら、切れる瞬間ごと見る。確かめたいことの一つ目が、明日から始まる。
目が覚めたのは、戸の音でだった。
朝と呼ぶには早い。窓の外はまだ藍色で、帳場に灯りもない。相部屋の先客二人の寝息は続いている。隅を見ると、藁布団がきちんと畳まれていた。逃げた者の畳み方ではない。角が揃っている。畳んで、揃えて、それから出て行く。順序を踏んだ出て行き方だ。
卓の上に、外套はなかった。短剣もない。革帯も、袋も、靴も。昨夜刻んだばかりの装備が、そっくり消えている。代わりに、卓の隅に銅貨が一枚、置いてあった。粥一杯ぶんに足りるかどうかの額だ。何のつもりの一枚かは、数えるまでもなく分かる。この娘は、借りを返しに行った。
銅貨を握って、戸口へ出た。通りはまだ暗く、塔だけが藍色の空を黒く抜いている。人影はない。行き先を、考える必要はなかった。
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