第58話「書き足し」
細い線を見失わないように、灯りの覆いを閉じたまま回廊を回り込んだ。
吹き抜けの向こうへ行くには、螺旋をもう半巡り上がるしかない。ボルグが先に立って石突きで段を叩き、ニナが丸の図に段の印を打ちながらついてくる。鳴りが来るたびに三人で壁へ肩をつけ、過ぎるのを待ってまた進んだ。苔の光で足元は読める。灯りを開けば幹の脇の線は見えなくなるから、目の慣れたまま歩くほうが早かった。
半巡りを上がりきると、幹が手の届く所にあった。
太い線だった。壁の石に刻まれた溝の幅が、俺の掌を広げたほどある。溝の底は深く、灯りの外でも内側から照っていた。その溝の縁にも、照り苔が糸のように並んで光っている。
細い線は、幹の右の脇を通っていた。幹から指一本ぶん離れて、幹と同じ向きに上へ延びている。幅は炭筆の先ほどしかない。ボルグが石突きを桟に立てて場所をあけ、俺は壁に顔を寄せた。灯りの覆いを指一本ぶんだけ開けて、線に光を寄せる。
溝の縁が立っていた。削った石の角が、まだ丸まっていない。溝の底には埃が一粒も溜まっておらず、縁には苔が一本も生えていない。幹の縁にはあれほど並んでいる苔が、この線の縁には一つもなかった。新しい、と思った。
それでいて、入り方は幹と同じだった。分かれ目で一度だけ深くなり、そこから二本に割れていく、生きた画の作りだ。線の上をどこまで灯りでたどっても、消し跡がない。前にあった線を削って、そこへ入れ直したのではない。幹は一画も削られずにそのまま通っていて、その脇に一本が増えている。
書き直しではない。足してある。
線をたどって、灯りを上へ滑らせた。細い線は人の背丈三つぶんほど幹に沿って上がり、そこで幹の腹へ沈むように入って終わっている。下へたどると、始まりのほうも同じように幹の腹から出ていた。始まりと終わりを幹に預けて、その間だけ脇を走っている。
「何ですか、これ」
ニナが後ろから小声で訊いた。帳面を胸に抱えたまま、図には書きかけていない。
「手入れの跡だ」
石に刻まれた線を、指では触れずに見た。触れる筋のある線ではない。
「消える前に、足したように見える」
隊にいたころ、休みのたびに皆の得物でやっていたのと同じ形だった。古い線は消さずに残しておいて、薄れかけたところの脇へ、新しい線を一本足す。足した線の始まりと終わりは、古い線に預ける。そうすれば、古い線が生きているうちは二本で持つ。腕のいい職人なら、誰でもそうやるだろう。ただ、幹の線はどこも薄れていない。照りはむしろ前より強い。薄れていない線の脇に足す理由は、俺には分からなかった。
ボルグが、壁から目を離さないまま言った。
「塔が、返事をしとる」
何への返事なのかを、ボルグは言わなかった。俺も訊かなかった。ボルグの声は、七層の層の癖を語るときと同じ低さだった。分かっていることを言う声ではない。分からないまま、聞こえた通りに言う声だ。ニナは二人の顔を見比べて、帳面を開き、細い線の位置を図に一つ打った。印の脇に、新、とだけ小さく書く。
丸の図の上で、その一つだけが他の印と形が違う。ほかの印は段の数と木か石かを示すもので、図を見る者の足のために打ってある。新、の印だけは、足のための印ではない。ニナは書いてから少しのあいだ、その一字を指で押さえていた。押さえた指の下で、炭の字はもう乾いている。
そのとき、幹が鳴った。
これまでの鳴りとは、来る場所が違った。胸ではない。もっと奥の、骨の芯に来た。壁に寄せていた肩から、背骨を伝って、膝の裏まで低い音が降りていく。耳で聞く音ではなかった。体の中を、上から下へ通り抜けていく重さだ。
幹の照りが、鳴りに合わせて一度だけ揺れた。揺れはそのまま、溝の中を下へ流れていく。目で追うと、照りの揺れは幹を伝って螺旋の下の暗がりへ落ち、底の見えない吹き抜けの奥へ沈んでいった。少し遅れて、下のほうの壁から、同じ低い音が返ってくる。それがさらに遅れて、もっと下からも返ってくる。
鳴りは、ここから落ちていた。二層で聞いた薄い鳴りも、三層の水面に皺を寄せた鳴りも、町の屋根まで届いた鳴りも、たどればこの幹から下へ落ちてきたものなのだろう。降りてきているとは思っていた。その出どころを目で見たのは、これが初めてだ。
鳴りが抜けきるまで、三人とも壁に背をつけて動かなかった。ボルグの左の脛に、ニナが一度だけ目をやる。俺も見た。足場の線は、照りを一筋も落としていない。
灯りを開けて、残りを検めた。油は、行きに足した分の半分を切っている。水の革袋は、三つのうち一つが空になっていた。麦の板は十一枚。帰りの分を引けば、八層で使える余りはもうほとんどない。籠には照り苔が、半分より少し上まで溜まっている。背負うと、背中の側だけが淡く明るい。
幹の脇の線は、もう見た。鳴りの出どころも、見た。分からないことは増えたが、増えた分を検める手立てを、今の荷では持っていない。
「降りる」
声は据わっていた。ボルグが石突きを取り直して頷き、ニナが帳面を閉じる。螺旋を下りるのは、上がるより早い。生きた段はボルグが行きに一度叩いてあって、ニナの図にも印が打ってある。根の外れた木の段は、三人とも跨いで過ぎた。
下りながら、ニナが一度だけ口を開いた。
「新しい線のこと、組合にはどう書けばいいですか」
「見たとおりに書けばいい。幹の脇に一本、足してある。新しい。それだけだ」
「理由は、書かなくていいですか」
「紙に載るのは、お前の名だ。分からないものは、分からないと書いておけばいい」
ニナは頷いて、帳面の端に何か短く書き足した。ボルグは前で石突きを鳴らしながら、一度も振り返らない。
縁へ出て、八層の口から七層へ下りた。軋みが、全方位の圧に戻る。胸の骨に重さが乗って、浅い息では段を数え違える。ボルグが出の敷居を、今度も左の脚から越えた。芯の間に入ると、壁一面の字の前に、写しの足場がそのまま残っている。行きと同じく、足場の上を歩いて抜けるだけでいい。
壁の字は、行きと同じ顔で芯の間を埋めている。どの字も消し跡と生きた画の縞のまま、一画も動いていないように見える。足場の上では、圧の濃い側が遠い。ボルグは足場の真ん中を、石突きを浮かせて歩いていく。ニナはその背の後ろで、行きに打った印の上を一つずつ指でなぞる。
それでも、縁だけは検めておくことにした。行きに検めたのは一度で、その一度で足りると決めて通った。帰りにもう一度見ておくのが、隊にいたころからの順序だ。灯りを寄せて、足場の縁を端から指でたどっていく。打ったときの深さのまま、画はひとつも痩せていない。
縁の終わりまでたどったところで、指が止まった。
足場の縁の脇に、細い線が一本、添えてあった。俺の入れた線ではない。幅は炭筆の先ほどで、縁から指一本ぶん離れて、縁と同じ向きに走っている。始まりと終わりは、縁の腹へ沈むように入っている。溝の角はまだ立っていて、底に埃が溜まっていない。
行きには、なかった。
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。
Youtubeで朗読版を投稿しています!
https://www.youtube.com/@mizukara-h2z




