第55話「【sideトビ】飯場」
冷めた椀を両手で持って、板の間を出た。
粥の表に張った膜が、歩くたびに縁へ寄っていく。椀は今日ニナが市場で買ってきた新しいやつで、底を叩くと高い音がする。レイフはこれに一口もつけないまま、札の束を抱えていつの間にか消えていた。鍋番のおばさんは椀が一つ戻らないのを見て、俺の顔を見た。それで俺が持って出ることになった。誰も何も言わないのに、そういうことは決まる。この飯場では、だいたいのことがそうやって決まる。
小屋の戸口の敷居は、膝の高さほどある。炭小屋だったころの名残で、炭袋を引きずり込むために高くしてあるらしい。ボルグさんがさっきそこを、右足を残したまま左から上がっていった。杖は持っていない。左の膝が、迷わずに体を持ち上げる。俺がここへ来た日には、ボルグさんは杖なしで工房の土間を歩くこともしなかった。今は段を上がる。上がった先で振り返りもしない。
足元を見る。履いているのは、熱を出していたころにあの張り替え屋が刻んでくれた靴だ。鳶の家にいたころは、靴は月に一度履き潰した。屋根の上は瓦も板も靴の裏を削る。それがこの靴は、屋根を毎日歩いても踵が減らない。縫い目の脇の線は、今も灯りの下で細く光っている。減らない靴というのを、俺は生まれて初めて履いた。
張り替え屋は、今夜も椀を受けるのが最後から二番目だった。板の間に来る前に、裏で皆の斧と桶と靴を並べて、一つずつ見ていた。見終わるまで座らない。座ってからも、椀の湯気が半分になるまで匙を取らない。鍋番のおばさんはおばさんで、椀を数えてからでないと注がない。数えているのはあの二人だけで、ほかの誰も数えない。数えなくても飯が出る。最初の晩、俺はそれがいちばん分からなかった。
飯場の夜は、寝る場所から先に埋まっていく。入口の隅ではスヴェンさんが麻袋を二枚重ねて横になり、足先が敷居にかかる。キトの組は反対側の壁際に、四人で固まって眠る。奥の壁際は、今日から鍋番のおばさんの場所だ。おばさんは鍋を洗い終えるまで横にならない。俺は工房の炉の脇で、レイフは卓の隅で寝るから、飯場に俺たちの寝床はない。それでも飯は、ここで食う。椀は十で、十の椀が毎晩全部空になる。今夜だけは、それが九つで止まっていた。
工房の裏へ回ると、薪の山の陰に灯りが一つ置いてあった。
レイフは薪割りの台に腰を下ろして、足元に端切れの鉄を並べていた。親指ほどの切れ端が七つ、板の上に一列になっている。左の端から右の端へ、照りが少しずつ強くなっていく。いちばん左のはもう灰色で、いちばん右のは灯りより白い。真ん中の三つは、灰色と白のあいだの、日の暮れぎわの空みたいな色をしている。並べると、照りが抜けていく道筋を目で追える。
「何してんだよ」
「乗せて、待ってる」レイフは顔を上げない。「昼に一つ乗せて、半刻ごとに一つ足した。消える順を見てる」
いちばん右の切れ端に、レイフはまた指を沿わせた。指が通ったあとに照りが薄く置かれて、むらなく均される。息を十も吐かないうちに終わる。三層で見たのと同じ、きれいな手だ。乗せ終えると、レイフは手を膝に戻して、並んだ鉄を左から順に眺めていった。
俺は椀を薪の山の端に置いた。
「おばさんが、持ってけって顔してた」
「顔は、言わないだろ」
「言わないけどな。そういう顔だった」
レイフは椀を見て、それからまた鉄を見た。手は伸ばさない。
塔の外なら、乗せた照りは数刻もつ。レイフに聞いた話で、俺も見て知っている。二層や三層では、鳴りが通るたびに剥がれて、もっと早く消える。ここは塔の外だから、七つの切れ端は日の暮れまでかかって、ゆっくり灰色になっていく。それを、レイフは札の合間に何度も見に来ていたらしい。
「あの人のは消えない」
レイフが言った。札の数を読み上げるときと、同じ言い方をする。
「俺のは消える。それだけの違いで、俺はここで札を綴じてる」
返す言葉を探して、薪の山を見た。山の高さは、俺の背丈の倍ある。今朝、スヴェンさんとキトの組が割った分だ。割った薪は乾いた順に端から使って、使ったぶんだけまた割る。山の高さが変わらないのは、誰かが割り続けているからで、それはこの家の誰も数えていない。
「お前はいいよな」レイフが言った。「屋根に上がってりゃ、それで足りる」
「足りるかどうかは知らないけどな」
鳶の家では、親父と兄貴二人が屋根に上がる。三男は下で材木を渡す役だ。上へ行けるのは兄貴のどちらかが寝込んだ日だけで、そういう日は年に二度もない。下から見上げる屋根は、いつも誰かの背中で塞がっている。ここの屋根には誰も上がらないから、俺が上がる。継ぎ目を数えて、錆びた釘を数えて、それを言えば張り替え屋が頷く。足りるかどうかは知らない。ただ、上がって叱られたことは一度もない。
俺は薪の山のてっぺんの一本を拾って、手の中で回した。木の目が素直で、よく割れた一本だ。
「薪割り、嫌いじゃないけどな」
レイフは何も言わなかった。鼻から短く息を抜いて、いちばん左の灰色の切れ端を指でつまみ上げ、灯りにかざした。照りは、もう一筋も残っていない。それを板の上の元の場所へ戻すと、レイフはやっと椀を取った。冷めた粥を、匙を使わずに縁から一口すする。それきり椀を膝に置いて、また鉄のほうを向いた。
俺は先に戻ることにした。戻る前に、小屋の屋根に上がった。夜に屋根へ上がるのは、鳶の家にいたころからの癖だ。上がると、町の高さが分かる。軒の線を目でたどると、路地の曲がり方も、どこの屋根が一段低いかも分かる。夜なら、灯りを数えれば起きている家の数になる。
板の継ぎ目に腰を下ろした。張り替え屋が浅く刻んだという継ぎ目は、靴の裏で踏んでもびくともしない。路地の向こうには、塔の影がまっすぐ立っている。上のほうに、夜に残っている隊の灯りが二つ見えた。
夜が更けて、町の灯りが半分ほど消えたころだった。
最初に吠えたのは、遠くの犬だ。一匹が吠えて、すぐに隣の路地の犬が続いた。それから、ベルタさんの店の裏の犬も、通りの向こうの鍛冶屋の犬も吠え出して、町じゅうの犬が塔のほうを向いて吠えていた。屋根の下で、誰かが寝返りを打つ音がする。
足の裏に、震えが来た。
板の継ぎ目が、ほんの少しだけ鳴る。屋根の板を通って、尻の下から腹のほうへ、低い音が上がってくる。音というより、重さに近い。太鼓を遠くで鳴らしたときの、鳴る前の空気の膨らみに似ていた。それが一度来て、間を置いて、もう二度来た。
塔が、鳴っていた。
三層で聞いた鳴りと、同じ低さだった。違うのは、ここが塔の外だということだけだ。工房の裏の灯りの下で、レイフが立ち上がるのが見えた。向かいの家の窓に灯りが一つ点いて、誰かが顔を出し、すぐに引っ込む。鳴りが止んでも、犬の声はしばらく続いている。朝になれば、町はこの話で持ちきりになるだろう。
町の中まで届く鳴りは、俺の知る限り、初めてだった。
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。




