第53話「【sideニナ】手控え」
「七層と八層の口の図、写しを一冊。銀貨百枚」
男は縁台に腰を下ろすより先に、そう言った。名乗りは戸口でキトにしたきりで、私にはまだ言っていない。値が名より先に来る人なのだと思った。丸い顔に、よく動く目をしている。上着の袖口は少しも汚れていなくて、帯には掌ほどの小さな秤が下がっていた。
「仲買のファルクだよ。ここの筆頭さんだね」
名は、値のあとから来た。
連れてきたキトは、飯場の戸口まで下がって、そこから首だけをこちらへ伸ばしていた。ファルクさんは縁台に座る前に、通りの左右を一度ずつ見た。工房の戸を見て、隣の小屋の屋根を見て、最後に私の膝の帳面を見た。見る順番に迷いがなかった。値をつける人は、品より先に、品の置いてある場所を見るのだと思った。
縁台は工房の表の壁に沿って置いてある。朝の配膳を終えたばかりで、板には椀を並べた輪の跡がまだ湿って残っていた。背中の壁の向こうからは、鏨の音が細かく刻んで聞こえてくる。スヴェンさんの籠手だ。粥を配り終えるとすぐ、あの人は作業台の端からそれを引き寄せた。鏨の音は、こちらの話の間も一度も途切れない。
銀貨百枚、と口の中で繰り返してみる。
頭の中で帳面の麦の欄を開いた。飯場の椀は十で、工房の棚にあるのは五つ。足りない五つを買う値も来月の麦の値も、私は銅貨で書いている。銀貨の欄はない。百枚という数は、私の帳面のどの欄に入れても桁があふれる。
膝の上の帳面に手を置く。七層の図はこの中にある。綴じ目から数えて後ろの三分の一に、炭で引いた線と小さな字で、段の数も床の抜けも桟の根も書いてある。八層の口の縁で書いた最後の線は、頁の裏まで回り込んでいた。
「写しでいいんだ。原本を寄越せとは言わない。書き写す手間賃も、百枚のうちに入れてある」
ファルクさんは膝の上で指を組んだ。笑うと目尻に皺が三本寄る。
図を写すのは難しくない。線を写して、字を写すだけだ。写しを持った誰かが七層へ上がるところを、私は思い浮かべてみた。図のとおりに段を数えて、図のとおりに床の抜けをよける。そこまでは図が連れていってくれる。図が連れていけないのは、その先だ。七層では張りが端から解けていく。乗せた照りも治癒の張りも、層に食われる。二年前のボルグさんの隊がそうで、暁刃もそうだった。図は道を教えるけれど、食われない靴は教えない。
あの日、私は半段ごとに自分の靴を見下ろした。縫い目の脇の線は、一度も照りを落とさなかった。ボルグさんの杖の根も、ゲイルさんを吊った担ぎ縄も、白が浮きかけるたびに、休みのうちに元へ戻っていた。戻していた手を、私は隣で見ていた。私たちが七層から帰れたのは、図のおかげではなかった。
この町に着いて最初の月に、塔の口の鐘を三度聞いた。三度は死んだ人がいるときの鐘だ。数え鐘は、欠けた人の数だけ撞く。あの頃の私は、鐘が鳴るたびに指を折った。今は折らない。折る代わりに、帳面の端に日付と数を書く。
写しが百冊出回ったら、鐘はいくつ鳴るのだろう。
その数を、私は数えたくなかった。
それに、この帳面には図だけが書いてあるのではない。五層から休みのたびに、あの人がどの靴の何本目を刻み直したかを付けてきた。線を一本足すたびに、帳面にも一本足した。図の横には、その数が並んでいる。七層の頁は、ほとんどがその数で埋まっている。図を写せば、その数も写すことになる。数を抜いて線だけを写せば、図は嘘になる。どちらにしても、あの人の手を紙にして売ることに変わりはない。
「迷ってるね」ファルクさんが言った。「迷うのは、値が合ってる証拠さ。合ってない値には、人は迷わない」
迷ってはいなかった。数えていただけだ。
「椀も、足りてないだろう」ファルクさんは飯場の戸口のほうへ顎を向けた。「椀が十要る飯場に、五つしかない。それじゃ昼は回らない。椀なら、明日にでも安く回せるよ。百枚の話とは別にね」
椀の数を、この人は数えてから来ていた。昨夜の夕餉を、どこかの軒から見ていたのかもしれない。足りない五つは、私の帳面にしか書いていないはずの数だった。
「椀は、自分で買います」
「そうかい。筆頭さんは、しっかりしてる」
市場の古道具屋に、品を手に取るより先に値を言う目利きのおじさんがいる。この町に来てすぐの頃、短剣を売るかどうか決められずに、値だけを訊きに行ったことがあった。おじさんは私に売る気がないのを見抜いて、値の代わりに一つ教えてくれた。仲買が一人で張れる値は、せいぜい銀貨二十枚までだ。それより上を言う仲買の後ろには、たいてい別の財布がある。
百枚は、二十枚の五つぶんだった。
「名がね」ファルクさんは目尻の皺を深くした。「筆頭さんの名は、紙に載ってるからね。話が早くて助かる。名の載ってない相手とは、こうはいかない」
背が丸くなるのが、自分で分かった。筆頭さん、と呼ばれるたびに肩が一度上がって、それから背が丸くなる。今朝からこれで四度目になる。一度目は戸口のキトで、二度目からはずっとこの人だ。数えている自分がおかしくて、それでも数えるのをやめられない。
紙に載っているのは私の名で、あの人の名はどこにも載っていない。隊の届けの欄にあるのは、登録の番号だけだ。この人はそれを知っていて、私のところへ来たのだろう。名のある者のところへ行けば、話が早い。たぶんそれは本当のことなのだ。
壁の向こうで、鏨の音が一度止まって、また始まった。
「売りません」
言ってから、丸くなっていた背を伸ばした。
ファルクさんは笑ったままだった。笑ったまま、首を少しだけ傾ける。
「理由を、聞いてもいいかい」
「数え鐘を、増やしたくないので」
それ以上は言わなかった。言えば、図がなぜ人を死なせるのかを話さなければならない。それを話せば、なぜ私たちは死ななかったのかを話すことになる。その先は、壁の向こうで鏨を握っている人の話になってしまう。
「そうかい」ファルクさんは膝を一つ叩いて立ち上がった。「なら、今日はこれで。値は下げないよ。上げもしない。百枚は、筆頭さんの気が変わるまで置いておく」
五度目だ。背は、今度は丸くならなかった。
見送る前に、私は帳面を開いた。昨日の頁の下に、今朝の分を書き足していく。左の欄に、飯場の椀、十。足りない分、五。右の欄に、籠手、一。スヴェンさんの名は書かない。品の名と本数だけを書くのが、五層からの決まりだ。左と右は同じ高さの行に並ぶ。椀の数と刻み直しの数を並べて付けるようになったのは、竈の名を届けた頃からだったと思う。どちらも、あの人が自分では数えないものだ。
ファルクさんは通りへ出かけて、足を止めた。工房の隣の、炭小屋の前だった。板壁に拳を当てて、二つ叩く。乾いた音が、朝の通りに二度返った。耳を板に寄せるように首を傾けて、返ってくる音を最後まで聞き届けてから、何も言わずに通りを下っていった。
小屋の戸の取っ手には、あの人の書き付けの板がまだ下がっていた。
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