第52話「前衛」
「治療院を出る日に、カリンに、ここへ行けと言われた」
大男は、それだけ言って口を閉じた。工房の前の通りの真ん中に、両手を脇へ下ろしたまま立っている。肩幅が戸口の半分を覆い、夕日がその背から長く伸びて、隣の小屋の板壁まで届いていた。腕には使い込んだ籠手を着けている。治療院を出たその足で、外さずに歩いてきたらしい。
名は知っている。スヴェン。二年のあいだ六層の桟道で先頭を行くこの男の背中を見てきた。ただ背中の記憶より、いま目の前にある体のほうが一回り薄い。頬の肉が落ち、首の筋が浮いて、革帯の穴は内側へ三つ詰めてある。寝床の上で過ごした月日の分だ。
「スヴェン」
呼ぶと、肩が一度だけ動いた。
「隊は、解けた。行く先が、ない」スヴェンは足元の石畳に目を落とす。「カリンが、ここなら飯が出ると。……それで、来た」
言葉が二度、途中で止まった。止まった先は、探しても出てこないらしい。話が終わったのかどうかを、こちらから確かめる筋もない。鍋の取っ手に巻いた布が、掌の中で湯気を吸って重くなっていく。
「飯は、食ったか」
「治療院で、朝に」
「なら、鍋が冷める前に来い。話は椀のあとでいい」
通りの先を、潜行帰りの隊が下りていく。先頭の剣は照りが抜けて鈍く、列の誰も口をきかない。今日は数え鐘が鳴らなかったから、欠けた者はいないのだろう。町の付与屋に乗せてもらった照りが、半日も保たなかった顔をしている。塔の上のほうには、夜に残る隊の灯りがもう一つ二つ点き始めていた。
工房の戸が開き、ボルグが出てきた。杖はなく左から先に敷居を越えて通りへ降りる。小屋の屋根では、トビが片膝をついて下を覗いていた。スヴェンの目が、ボルグの左脚に一度だけ落ちて、すぐに戻る。
ボルグは何も言わず、大男の周りを一周した。肩の幅を見て、手首の太さを見て、足の開きを見る。籠手の留め具の前で足を止め、革の減り方を指の背で撫でた。前衛が前衛の体を検めるときの、無駄のない回り方だ。回り終えたところで、ボルグは顎で小屋の脇を示す。
「担げるか」
そこには、キトの組が今日割った薪が束にして積んである。スヴェンは束を二つ取った。一つを肩に載せ、一つを脇に抱える。持ち上げるときに膝が沈み、沈んだぶんだけ戻る。小屋の戸口まで十歩を歩いて、同じ十歩を戻ってくる。歩幅は最後まで揃っていた。屋根の上でトビが口笛を吹きかけて、やめた。
ボルグは頷かず鼻から息を抜いて籠手から目を外す。
「水汲み場は、路地を二つ先だ」
それが承知の返事らしい。スヴェンは薪を戸口の脇にそっと下ろして、手を叩いて木屑を落とした。小屋の戸口からは、キトの組の四人が顔を出している。いちばん年下の娘は、大男の背丈と戸の高さを目で比べて、でか、と呟いた。鴨居を見上げたスヴェンが、潜れるのかどうかを量る顔になる。ボルグが、潜れる、とだけ言った。夕日が籠手の上を滑って手の甲の側の革に通っている線が目に入る。見覚えのある線だった。六層の桟道の休みに、順番に回して入れた一本だ。
「六層で、あんたが休みのたびに刻んでたのは、俺の籠手もだった」
スヴェンが言う。籠手を着けた腕を、体の前に上げている。
「その後、剥がれたか」
訊くことは、それしかなかった。刻んだ物が刻んだあとにどうなったのかを、隊にいたころの俺は一度も見ていない。今の問いは、ただその続きだ。隊にいたころ、休みのたびにこの男は黙って籠手を差し出し、俺は黙って受け取った。入れた線が残っているのかを見る暇もなく、次の者の得物が回ってきて、次の休みにはまた次の一本が上から入る。そういう順番が、二年続いた。
スヴェンの口が開く。開いたまま、言葉が出てこない。喉が一度鳴り、目が籠手の線のあたりで止まって閉じた口がまた開きかけ、また閉じた。
答えにくいのなら、剥がれたということだろう。剥がれたなら、足せばいい。
「見せてくれ。明日の朝でいい。鍋が冷める」
スヴェンは籠手を外さなかった。何も言わずに踵を返して小屋の裏へ回っていく。裏には、キトの組が割り残した大きな丸太が積んである。立て掛けてあった斧を取り、丸太を一本据えて、振り下ろす。一撃で割れた。割れた薪が左右に飛び、次の丸太が据えられる。粥を食う気があるのかどうかを訊く前に、斧の音が一定の間を置いて鳴り始めた。
夕餉は小屋で食った。粥の鍋を板の間の真ん中に置き、椀を二つ洗っては回していく。麦の粥に干し魚をほぐして入れた、いつもの味だ。キトの組の四人は、順番を待つあいだ、裏の斧の音にそろって耳を向けていた。いちばん年下の娘が、音の止まらない裏へ椀を持っていこうとして、ボルグに襟をつかまれる。
「割り終えたら、向こうから来る」
言ったとおりになった。日が落ちきる前に斧の音が止み、裏には、四人が半日かけて割る量の薪が積み上がっていた。スヴェンが戸口に立つ。粥を注がれた椀を両手で受け、一杯目を二口で空けた。二杯目に手を伸ばしかけて、止まる。椀が足りない。回ってくるのを待つあいだ、大男は膝の上で空の椀を持ったまま、小屋の梁を見上げていた。娘たちのひとりが、自分の椀をそっと差し出しかけて、隣に肘で突かれて引っ込める。
ニナが帳面を開き、明日の市場の欄に書いてあった数を線で消して、書き直した。椀、四つ、が、五つになる。麦の減り方を、俺は今日の分と明日の分に頭の中で分けた。粥の濃さは変えない。薄めて足りるのは今夜までで、薄い粥を出して口をつぐむ者が出る前に、麦を買い足すほうが先になる。
寝場所は、小屋の入口の板の間の隅に決まった。キトの組とは反対側の壁際で、ボルグが麻袋を二枚、黙って放ってよこす。スヴェンは二枚を重ねて、その上に長い体を横たえた。足先が板の間からはみ出して、戸の敷居にかかる。炭の粉の黒い床の上で、大男の寝息はすぐに深くなった。
翌朝は、斧の音で目が覚めた。夜明け前の暗がりで薪の割れる音が一定の間を置いて続く。それが止むと桶の鳴る音が路地のほうへ遠ざかり、やがて戻ってきた。桶は四つでそれを一人で提げている。これまでトビとレイフが二つずつ分けて運んできた数だ。水と薪の担い手は、誰が決めるまでもなく決まっていた。ニナの帳面の水汲みの欄には、その朝から一人の名しか入らない。トビは屋根の継ぎ目へ、レイフは札の束へ戻っていく。人が一人増えれば、鍋に入れる麦も増える。量り直す手間は、麦の袋の口を開けるところから始まった。
作業台の端には、外された籠手が置いてある。留め具の革に、朝露の湿りが薄く残っていた。検めるのは、鍋の粥を配り終えてからでいい。窓の外では、夜明けの塔の腹に、まだ消えない灯りが一つ残っている。
戸口に、キトが駆け込んできた。息が上がっていて、自分の言葉に二度つっかえる。
「表に、仲買の、ファルクって人が来てます。筆頭さんに、会いたいって」
帳面を綴じていたニナの肩が、一度だけ上がった。
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