第50話「重ねる」
朝の光の下で、ボルグの脛を検めた。炭の跡を手拭いで落とすと、皮の下に細い筋が、膝から踝へ沈んでいる。一晩たっても薄れていない。膝を横から押しても、揺れは戻ってこなかった。検め終えると、ボルグは自分で裾を下ろし、杖を持たずに裏へ薪の具合を見に行く。
ボルグは八層の話をしない。しないが、朝の検めのときにはこちらが言う前に脚を卓の上へ出してくる。昨夜は路地を杖なしで往復したらしい。八層の段に脚を慣らすには、もう何日か要るだろう。そのあいだに、増えた椀の分を稼いでおく必要がある。
「今日は三層へ上がる。岩這いの殻を取る」
裏で薪を割っていたキトの組の娘が、仕上がったばかりの靴を見下ろして、行けるかなと呟いた。今日は薪の日だと言うと、娘は残念そうに斧を振り上げる。ボルグは工房に残って、札と娘たちの薪を見ることになった。三層へ上がるのは、俺とニナとレイフとトビの四人だ。レイフは腰の袋に、昨夜渡した炭筆を差していた。芯を下に向けて、軸を袋の縁に斜めに掛けている。芯の角が布に当たって欠けないようにする差し方で、誰かに教わらなければ、ああいう差し方は身につかない。
三層は水の層だ。通路のあちこちに水溜まりがあり、壁から細い水が筋になって落ちている。奥の水場は昼から水が上がって、朝のうちに引く。だから右の道は、朝のうちなら乾いた岩床を歩ける。岩這いは蟹のような形をした魔物で、一匹ずつなら鈍いが、群れで来る。殻と鋏は、買取所で値がつく。
一層、二層と抜けて三層へ上がると、足の裏に鳴りが来た。二層より厚い。石の奥で間を置いて低く鳴り、鳴るたびにすれ違う隊の剣の照りが端から引いていく。二層の骨の坂の下を通ったときには、今朝も別の組が骨を拾っていた。その組の刃も、坂を上がりきる前に照りを半分落としていた。
最初の群れは、右の道の入口で出た。岩這いが六匹、壁の窪みから横歩きで這い出してくる。ニナが前に出て、踏み込んではすぐ引く型で鋏の届く間合いを見せ、そのあいだにトビが濡れた岩の上を跳んで、背の継ぎ目を叩いた。濡れた岩の上で、トビの靴は一度も滑らない。鳶の足だな、とレイフが後ろで呟いた。屋根の上を歩く家の生まれだと、昨夜聞いたばかりだ。
群れを片付けたところで、レイフに頼んだ。
「トビの刃に、下書きを置いてくれ」
レイフは炭筆を取り出して、しばらく芯の先を眺めてから、トビの刃の腹に線を置き始めた。まっすぐな線だ。始まりと終わりの太さが揃っていて、間の幅も揃っている。五年かけて手に入れた手の線は、見ていて気持ちがいい。
「丁寧だ。下書きがまっすぐだと、崩す場所が選びやすい」
本心だった。俺の下書きは、曲がるところで勝手に曲がる。まっすぐな線の上なら、どこに節を足して、どこで順を狂わせるかが一目で分かる。レイフは炭筆の先を見たまま、崩す場所、と繰り返した。
「線は、揃ってるほうがいいだろ」
「塔の外ならな。中では、揃った線から先に読まれる。読まれた線は、鳴りに食われる」
レイフは自分の引いた線を見下ろして、何か言いかけ、口を閉じた。
「先に、自分の手で乗せてみてくれ。習った付与を、ちゃんと見たことがない」
レイフはトビの刃を受け取ると、刃の峰に指を沿わせた。指が通ったあとに、照りが一筋ずつ置かれていく。薄く、むらがなく、刃全体に均して乗っていた。乗せ終えるまでに、息を十も吐いていない。早い。
トビがその刃で、次の群れの先頭を割った。殻の継ぎ目に刃が入り、岩這いは鋏を振り上げたまま沈む。トビは刃を見て、軽いな、と言った。乗せた照りは刃の表に薄く広がって光り、刻んだ線の照りは溝の底から細く光る。並べて見たことがなかったから、その違いを目で覚えておくことにした。
鳴りが三度通ったころ、照りの端が引き始めた。
レイフの顔が、刃の照りを追って動く。鳴りが通るたびに、照りは一筋ずつ刃の縁から剥がれていく。一刻も経たないうちに、半分が消えていた。レイフの右手が、刃の峰に沿う形のまま宙で止まっている。乗せ直すかどうかを、頭より先に手のほうが迷っているらしい。
「三層で、こんなに早く剥がれたことはない」
レイフが言った。言い訳の声ではなく、帳面に書き付けるような声だ。
鳴りのせいだろう。二層でも、町の付与屋の照りが三度で半分引いていた。乗せた本人の手のせいではない。消えかけているなら、消える前に足せばいい。
「足しておく」
トビの刃を受け取って、残っている照りの脇に鏨を当てた。照りの下に、レイフの下書きの炭の跡がまだ見える。その線に沿って崩しを入れていく。節を三つ足し、始まりを線の腹に沈め、画の順を二カ所で入れ替える。レイフの引いたまっすぐな線は、俺の線が入ったところで、少しずつ曲がっていった。
入れ終えて、刃を灯りに寄せる。
残っていた照りが、剥がれるのをやめている。俺の線の溝に沿って、レイフの照りが座っている。二筋の照りが、一枚の刃の上に並んで光っていた。
レイフの手から、炭筆が落ちた。
拾おうとして屈んだまま、レイフはしばらく動かなかった。顔から色が引いている。昨夜の灯りの下と同じ顔だが、ここは三層の通路で、灯りは床に置いていない。
重ねるのを、見たことがなかったのだろう。習った手には習った手の順序があって、順序の外のやり方は、初めて見れば驚くものだ。照りが溝に座ったのは、乗せた照りにむらがないからだと思う。むらのある照りなら、溝からこぼれる。
「お前の照りが、溝に座った。むらがないからだな」
レイフは炭筆を拾って立ち上がる。何も言わない。炭筆を握る指の節が、白くなっていた。ニナが横から刃を覗き込み、二筋の照りを見比べてから、開きかけた帳面を閉じる。書き付ける前に閉じるのは、今日はこれが初めてだ。
トビが刃を一振りして、笑った。
「さっきより軽い。なんだこれ、刃が勝手に入っていくぞ」
その刃で、トビは岩這いを十二匹割った。十二匹ぶんの殻と鋏なら、五つの椀の麦が三日はもつ。ニナが殻と鋏を数えて袋に詰め、帳面の端に、殻の数と鳴りの通った数を並べて書いていく。レイフは黙って袋を担いだ。担ぐ前に、一度だけトビの刃に目をやった。二筋の照りは、鳴りが何度通っても、そのまま並んでいた。
早めの昼に、麦の板を乾いた岩の上で齧った。トビは板を半分に割って、残りを腰の袋にしまう。キトの組の娘に持って帰るのだという。娘が今朝、行けるかなと呟いたのを、トビも聞いていたらしい。
殻の袋が三つ埋まったところで、水場へ下りて刃と手を洗うことにした。昼前なら、右の道はまだ乾いている。乾いた岩床の先に、洗い場にちょうどいい浅い溜まりがあるはずだった。
水場へ下りる段の途中から、足音が変わった。乾いた岩を踏む音のはずが、浅い水を踏む音になっている。先を歩くトビが足を止めて、灯りを前へ突き出した。
段を下りきると、昼前なのに水が抜けていなかった。いつもなら朝のうちに引いている右の道が、膝まで浸かっていた。
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