第49話「【sideレイフ】乗せる」
戸が閉まると、裏は真っ暗になった。
ニナが手探りで桶を二つ取り、一つを俺に押しつける。汲み場へ案内すると言ったのは本当らしい。路地を二つ曲がった先に、町の共同の汲み場がある。ボルグは杖を突かずに後ろからついてきた。さっきまで足の悪い爺さんだった男の足音が、俺の足音と同じ速さで鳴っている。路地の石の段差を、爺さんの足は一度も杖で探らなかった。探らずに越えていく足音を、俺は背中で聞いていた。
汲み場は、石を丸く積んだ井戸に釣瓶が一つ下がっているだけの場所だった。夜の石の縁は冷たい。その縁に桶を置いて、ニナが振り返る。暗くて顔は見えない。
「言わないでください」
声だけが、帳面を読み上げるときのように平らだった。
「なんでだ。あの人は、自分が何をしてるか分かってないだろ」
「分かってないです。だから刻めるんです」
ニナは釣瓶の縄をたぐりながら、順番に言った。あの人は自分の値を知ったら刻まなくなる。タダで刻む人が刻んだ物の値を知れば、遠慮を覚える。遠慮を覚えた手は止まる。止まった手で救える数は減る。言い終えると、汲み上げた水を俺の桶に移した。縄をたぐる手つきに迷いがない。この話を誰かにするのは、俺が初めてではないのだろう。
「気づく日まで、番をする」
ボルグが言ったのは、それだけだった。
「気づく日って、いつだ」
ボルグは答えずに、自分の桶を縁に置いた。答えない爺さんの顔を、汲み場の暗がりが隠していた。隠れていなくても、たぶん同じ顔をしていたと思う。
付与は、乗せるものだ。刻むのは石屋の仕事だ、と師は言った。
師の工房は、刃物の油と煤の匂いがした。弟子は俺を入れて四人いて、五年のあいだ、朝から晩まで乗せる手を覚えさせられる。刃の峰に指を沿わせて、照りを一筋ずつ置いていく。置いた照りは刃の上に薄く乗って、斬るたびに少しずつ剥がれる。数刻で消えて、消えたらまた乗せる。だから隊の付与術士は、休みのたびに乗せ直す役を負う。初めて自分の照りが半刻もったとき、俺は師の前で飛び跳ねた。半刻で飛び跳ねる手だ、ということを、今夜までは恥ずかしいと思ったことがない。
乗せる先は武器だ。防具や靴に乗せる者もいるが、すぐ剥がれるから割に合わない。動くたびに曲がる革は照りを振り落とす。刃のようにまっすぐで硬い物でなければ、照りは座らない。
重ねて乗せてはいけない。一年目に師に隠れて一度だけ試した。乗せた照りの上にもう一筋乗せると、上の照りが座った途端に下の照りが黒く濁り、二筋とも刃から落ちる。重ねれば下が死ぬ。死んだ下は、上も道連れにする。
人の体には乗せない。それも一度だけ、自分の腕で試した。半刻で消えて、乗せた場所の皮が三日赤かった。息をするたびに体は動くから、照りが座る場所がない。師は赤い腕を見て、何も言わずに軟膏を投げてよこした。年季が明けた日、師は弟子に一枚ずつ札を焼いて渡した。受け取った札を、俺は袋の底にしまった。どこの隊に入っても、見せる気でいた。
あの男は、全部を逆にやっている。
最初の晩、あの男は俺の靴の縫い目の脇に線を入れて、消える前に足すだけだと言った。俺はその場で笑いそうになって、こらえた。笑えなかったのは、線の照りが、乗せた照りとは照り方からして違っていたからだ。
乗せずに刻む。消えないものを、消える前に足すと言う。武器だけでなく、靴にも縄にも背負子にも、工房の梁にまで刻む。トビは一度も滑らないと言って足踏みをしたし、三日割った薪の山の向こうでは、雨漏りのしない梁が鳴りもせずに屋根を受けている。二層の骨の坂では、白の出た古い線の脇に新しい線を重ねた。下の線は死なずに、二本で坂を噛んでいた。そして今夜、人の脚に刻んだ。一瞬のためではなく、毎日立たせるために。
刻むのは石屋の仕事だ、と言った師の顔が浮かぶ。あの男は石屋ではない。石屋の手つきで付与をしている。
「言ったら、どうなる」
もう一度訊いた。ニナの釣瓶が、井戸の底で水を打つ音がする。
「言ったら、あの人は考えます。考えて、自分の手を数え始めます。数え始めたら、今みたいには刻めません」
「数えたほうがいいだろ。あれだけのことをして、自分の値も知らないなんて」
「あなたが数えたいなら、数えればいいです。私も数えてます。五層から、ずっと」
ニナの声は怒っていなかった。怒らずに、帳面の頁をめくるように言う。数えている者に、数えろとは言えない。ニナの帳面に何が書いてあるのかは知らない。知らなくても、五層からずっと、という言い方で、帳面の厚みは分かる。
腰の袋の上から札を押さえた。革の札の端に、噛み跡がある。
三つ目の町の、四つ目の隊でのことだ。隊長は俺の乗せた剣を一度振り、照りが半分剥がれたのを見て、付与は使えないと言った。理由は言わず、言わなくても分かるだろうという顔をしていた。分かっていた。数刻で消える照りのために、取り分を一人分割くのは割に合わない。分かっていたから、言い返す言葉が喉に詰まる。詰まった言葉を吐き出す代わりに、袋から札を出して端を噛んだ。噛んだ革は、油と汗の味がした。
言いたいことを噛み殺すのは、慣れている。四つ目の隊を出た翌月、五つ目の隊でも同じことを言われた。そのときは、もう噛まなかった。噛んだ跡の上を、もう一度噛む気にはなれなかった。
「……分かった」
分かったと言った口の中に、言わなかった言葉が残っている。普通の付与は、と言いかけた続きだ。続きは、喉の奥にしまっておくしかない。言うと、ボルグが桶を持ち上げた。爺さんの肩で、水が揺れない。
従う理由は、数えればいくつもある。トビの熱を下げたのは、この家の粥だ。最初の晩、ニナが鍋の残りを椀に移して、相棒の分だと持たせてくれた。四つ目の椅子に座らせてもらったのも、俺だ。それから、あの男の手をもう少し見ていたい。見ていれば、いつか分かるかもしれない。習った五年の外に、何があるのか。
帰りの路地で、ニナは一度も振り返らなかった。前を行くのは十六の娘の背中だ。この娘が筆頭だと、触れの紙には書いてある。ボルグも黙っている。俺だけが、桶の水の重さを数えながら歩いた。路地の角で見上げると、塔の上の灯りが一つ消えた。夜に上へ残っていた隊が、ようやく下りたのだろう。
工房の戸を開けると、トビは炉の脇で丸まったままで、あの男はまだ作業台にいた。娘の靴の踵を仕上げたところらしく、刃を布で拭いている。爪の間が、灯りの下で黒い。俺たちの桶を見て、遅かったな、とだけ言った。それから作業台の端の箱を探って、こちらへ来る。
「明日から、下書きを頼めるか。習った手の線を見てみたい」
差し出されたのは、炭筆が一本だった。外で何を話していたのかは訊かずに、あの男は作業台へ戻り、次の靴を手に取った。
受け取った炭筆を、灯りに寄せる。自分のより軽い。芯の先は斜めに二度落としてあって、角が三つ立っていた。どの師の工房でも、見たことのない削り方をしていた。
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