第48話「付与術士」
「人に、消えない線を入れる付与術士なんか、いない」
二度目の声は、呟きではなかった。研ぎ場の水から鏨を上げて振り返ると、レイフが卓の隅で立ち上がっている。両手はまだ卓の縁をつかんだままで、指の節が白い。鏨の先から水が落ちて、作業台の板に小さな染みを作った。卓の向こうではボルグが同じように縁をつかみ、ニナは開いた帳面の上で筆を止めている。炉の脇のトビだけが、何も知らずに寝息を立てていた。
人に刻むのが作法の外だ、という意味なら分かる。刻まれる本人の許しがなければ、俺もやらない。今夜は本人が脚を差し出した。差し出された物に刻むのは、靴でも脚でも変わらない。
「本人が脚を出した。出された物には刻む」
「そういう話じゃない」
作法の話でないのなら、残るのは消えないという言葉のほうだ。訊き返すと、レイフの首が落ちるように縦に動いた。
「消えるぞ。どんな線でも消える。消える前に足すだけだ」
最初の日に靴の線を見せたときも、同じことを言った。あのときのレイフは、狐につままれた顔をしていた。今夜の顔は違う。狐につままれたのではなく、狐の正体を見てしまった者の顔に近い。
レイフは片手を卓から離して、腰の袋の口を開けた。中から出てきたのは、最初の日に見た革の札だ。掌に載るほどの大きさで、端に噛み跡がある。表には焼き印が一つ押してあり、その下に細い字でレイフと彫ってあった。使い込まれた革の角は丸くなっているのに、焼き印と名の溝だけは、指で撫でられた跡がなくて鋭い。撫でずに、しまっておいた札なのだろう。噛み跡のことは訊かなかった。訊かれる前に言う男が、そこだけは言わずに札を置いたからだ。
「年季明けの札だ。師について、五年習った」
卓に置く手が、少し震えていた。
「俺は、付与術士だ」
ニナが帳面から顔を上げた。ボルグは卓の縁をつかんだまま動かない。付与術士という言葉を、自分以外の口から、名乗りとして聞くのは初めてだ。隊にいたころも、町に出てからも、同じ仕事をする者と卓を挟んだことがない。
レイフは早口になっていた。三つの町で五つの隊に入り、どこも半月で出された。最後の隊では付与をさせてもらえず、荷を担がされた。付与は使えない、で話は終わり、理由は訊いても言われない。言わなくても分かるだろう、という顔をされるだけだという。訊かれる前に言う癖が、今夜は止まらないらしい。五年の年季を明けた札を持って、半月ずつ五回出された勘定になる。トビとは街道で会った。鳶の家の三男で、家に居場所がなかった男だ。二人なら隊と呼べるかと思って組んだが、二人では深くは潜れない。二層と三層で食いつないで、稼ぎが尽きかけたころに、七層を抜けた隊に刻む奴がいるという話を聞いた。刻んだ線が、消えないという話だった。
「それで来たのか」
「嘘だと思って来た」
正直な言い方だ。噂の半分は嘘だと思って確かめに来るのは、筋の通ったやり方だ。嘘だと思って来て、三日、薪を割った。割りながら、嘘かどうかを確かめていたのだろう。俺も二層の靴に白が出たと聞いて、嘘かどうかを確かめに上がった。
札を手に取って、焼き印を灯りに寄せる。見たことのない印だ。職人の家が代々使う、組の印なのだろう。師がいて、師の前にも師がいて、手が順に受け渡されてきた証になる。師について習う、というのがどういうものなのか、俺は知らない。隊にいたころ、付与術士は俺一人で、手元を覗き込む相手も、覗き込ませてくれる相手もいなかった。見て覚えて、試して覚えただけの我流だ。俺の手には、こういう札が一枚もない。
「習った手か」
「……ああ」
「師は、どんな線を引いた」
「まっすぐな線だ。揃った、きれいな線を引く人だった」
揃った線は、塔の中では真っ先に読まれる。七層の手前で鉄片に刻んで、鳴りを数えて確かめたことだ。ただ、それは塔の中の話で、塔の外で引く線なら、揃っているほうが見た目もいいし、客も喜ぶ。師の線が悪いわけではない。揃った線を五年かけて手に入れた者の線なら、いつか並べて見てみたい。
「なら、俺の線は粗だらけに見えるだろう。順も作法も知らずに、合うまで試してきただけだ」
レイフの口が開いたまま止まった。言いたいことが喉まで来て、出し口を見失った顔だ。習った者が我流を見れば、言いたいことは山ほどあるはずだ。一つずつ聞けばいいし、聞いて使える話なら使う。
札を返しながら、付与は使えない、という言葉を口の中で繰り返してみた。聞き覚えのある響きだ。宿の一階で、揚げ油の匂いの中で聞いた言葉と、形がよく似ている。
「俺も隊を出るとき、似たようなことを言われた。お前の付与は不要だ、と。役目を果たせなかった者が抜けるのは、順序として正しい。付与術士は、どこへ行っても似た扱いを受けるものらしいな」
レイフの顔から、残っていた色が抜けた。札を受け取る手が、途中で止まる。
「……あんたが、不要」
レイフはボルグを見て、それからニナを見た。本当か、と訊く目だった。ニナは帳面の上で筆を握ったまま、目を伏せている。
「六層で剣が欠けたからな。半年も前の話だ。それより、手伝ってくれ。札が溜まってる。習った手なら、俺より丁寧な線を置けるだろう」
レイフは札を握りしめて、首を横に振りかけ、縦に振りかけて、どちらにも振り切れずに止まった。息を吸う音がした。
「あんたのやってることは、普通の——」
「レイフ」
ボルグの声が、それを切った。卓の縁をつかんだまま、ボルグは顔だけをレイフに向けている。縁をつかむ手の甲に筋が浮いていた。立って二刻と経たない脚で、卓に体を預けずに立っている。
「明日の朝の水が、まだ汲んでない」
ニナが筆を置く音が、ボルグの声に重なった。言い方に愛想がない。昼間、列の客を帰したときと同じ声だ。ニナが帳面を閉じて脇に挟み、立ち上がってレイフの袖を指でつまんだ。
「汲み場、案内します。暗いので」
レイフは袖を引かれるまま、卓から一歩、二歩と離れた。振り返って、まだ言い足りない顔で俺を見たが、ニナがもう一度袖を引くと口を閉じる。ボルグがその後ろにつき、卓の縁から手を離して、杖を突かずに歩き出した。
習った者の小言は、明日聞けばいい。今夜聞いても明日聞いても、線の粗は同じ場所にある。水を汲むのは朝でも間に合うはずだが、ボルグが今と言うなら今なのだろう。夜の汲み場の暗がりは、ボルグのほうが俺より知っている。
作業台に戻って、刻みかけの靴を手に取った。キトの組の娘の、もう片方だ。踵の線が半分まで入っている。刃を水から上げて、続きに当てる。娘は明日の朝、薪を割りに来る。割り終えたら履いて帰れるように、今夜のうちに仕上げておくつもりだった。焼き印の形が、まだ目の裏に残っていた。師の前にも師がいる手というのは、どういう線を引くのだろう。明日、下書きを頼んでみればいい。下書きを置く手が一つ増えれば、札の束は倍の速さで薄くなる。炉の脇でトビが寝返りを打って、火に背を向けた。
裏の戸が閉まる音がした。足音は、三人ぶんだった。
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