第46話「足場」
ボルグは返事をしなかった。杖を壁に立てかけ、半分浮かせていた腰を椅子へ戻す。それから、ベルタの置いていった五つ目の椅子を足で引き寄せて、左脚をその座面に載せた。両手で持ち上げて、載せる。昨日と同じやり方だ。触らせなかった脚を、今夜は座面に載せて差し出している。返事は、それで足りていた。
ニナが黙って灯りを取りに立った。持ってきたのは、帳面を付けるときの小さな灯りではなく、炉の脇に掛けてある大きいほうの灯りだった。トビは炉の前に屈んで、埋み火をもう一度起こしている。何が始まるのかと小声で訊くトビに、ニナは首を振っただけで答えなかった。レイフは卓の端の椅子に座ったまま、動かない。
ズボンの裾を膝の上までまくり上げる。脛の前に、古い傷が一本走っていた。膝の下から足首の上まで、縫い合わせた跡が太く盛り上がっている。七層から引き上げるときに上から受けた一撃の跡だと、前に聞いた。塔で二十年歩いてきた脚の皮は、使い込んだ革の手袋のように厚い。そのくせ脛の肉は薄く、二年ぶん目方を受けなかった脚は、右の半分ほどの太さしかなかった。
刻む前に検める。掌を当てて、上から順に確かめていく。膝は曲がるが、横から押すと、蝶番の外れかけた戸のように揺れる。動くのに、動きの芯がない。脛の中ほどには、皮の下に固い塊がある。潰れた骨が、潰れた形のまま固まったものだ。足首は硬く、指で押しても返ってくる力が弱い。目方を受けて立つための筋が、脛のどこにも通っていなかった。
治すところは、一つもない。骨は潰れたまま置いておく。要るのは、目方の行き先だけだ。人の脚は、刻み直しの利かない物ではない。線が合わなければ、脇へ足して直せばいい。直せる仕事なら、始めるのに迷う筋はない。
刻む前に、手を洗った。桶の水は、夕方トビが汲んできた分だ。爪の間の炭と鉄の粉を落としてから、もう一度脚に触る。
炭筆を取って、脛に下書きを置いた。膝の外と内に一つずつ、支点の印を置く。足首の上に吊りの掛かり、脛には膝から足首まで縁を一本通す。縁は古い傷の上を避けて、傷の脇に沿わせた。傷の上に線を置くと、傷の硬さに線が引っ張られる。二層で齧られた脛当てに入れたときと同じだ。卓の端で、レイフが息を詰めたのが聞こえる。皮の上に炭筆を走らせる職人を、見たことがなかったのかもしれない。
「……二年、誰にも触らせなんだ」
ボルグが言った。天井を見たままの声だ。触っているのは俺の手より先に炭筆の先だが、それを言う筋でもない。ニナが唇を結んで、灯りの芯を指先で少し上げた。
灯りを持ったニナが、脚の横へ屈む。炎の向きを手で整えて、下書きの線に影が落ちないように光を寝かせた。帳面を持たない手で灯りを持つのは、ニナには珍しい。
鏨を取って、刃を灯りにかざした。欠けはない。人の皮に欠けた刃を当てるわけにはいかない。人の体に刻むときは、刃を立てない。刃の腹で押して、線を皮の下へ入れる。木や革に入れるときの半分の力で、倍の時間をかける。深く、短く、まっすぐに。二層でニナの背に入れたときも、手はそう動いた。あのときは一瞬のための線で、今夜のは、毎日立つための線になる。刃の腹の下で、線が皮の奥へ引き込まれていく。木よりも柔らかく、革よりも深いところへ入っていく手応えだった。
支点から入れた。膝の外と内に一つずつ、節を三つ足し、始まりを線の腹に沈め、画の順を二カ所で入れ替える。崩しの三手を、一本ごとに全部かけて入れる。塔の中でも使う脚だから、塔に読まれない字で書く。七層の芯の間で壁から借りたのは足場の形だけで、字までは借りない。膝の内の支点を入れているとき、ボルグの左手が椅子の縁を握り直した。線が皮の下へ沈むたびに、掌の下の膝の揺れが少しずつ収まっていく。物は刻まれても黙っているが、人の脚は、線が一本入るたびに筋が小さく縮んで、それから緩む。緩むのを待ってから、次の線に移る。
「痛むか」
「……痛まん。くすぐったいだけだ。ゼムが見とったら、笑うとるわ」
ボルグは歯の間から息を吐いた。額に汗が出ているのは、痛みのせいか、くすぐったさを堪えているせいか、顔を見ても分からない。
脛の縁は、いちばん長い。膝の下から足首の上まで、傷の脇を一息では通せない。途中で三度、鏨を置いて手を振った。刃の腹で押し続けると、指のほうが先に痺れてくる。ニナの灯りの油が一度尽きかけて、トビが黙って継ぎ足した。継ぎ足しながらも、トビの目はボルグの脛から離れない。継ぎ足す音のほかは、埋み火の爆ぜる音しかしなかった。縁を通し終えたころには、窓の外で、塔の上の灯りが一つ消えていた。
足首の上の吊りの掛かりは、最後に打った。縁で集めた目方を、ここで一度吊ってから踵へ下ろす。七層の足場なら、吊りの掛かりは壁の上の出っ張りに打った。人の脚には出っ張りがないから、踝の骨を借りる。踝は潰れていない。借りられる骨は、借りればいい。
支点と縁と掛かりの三つが揃ったところで、最後にもう一度上から検めた。膝を横から押す。揺れない。脛の塊の上を指でなぞると、目方の通り道は塊の脇を回っている。足首を押すと、指が押し返された。
線は皮の下へ沈み、表には炭の跡と細い筋が残っているだけになった。炭の跡は、明日の朝に手拭いで落とせる。落としたあとに残る筋のほうが、この先の検めの目印になる。ニナが灯りを少し離して、それから床に置いた。置くときに、皿の縁が一度だけ鳴った。
卓の端で、椅子の脚が床を擦る音がした。レイフが立ち上がりかけて、座り直したらしい。振り返ると、レイフは卓の縁を両手でつかんで、俺の手元ではなく、ボルグの脛を見ていた。顔から色が抜けている。灯りを床に置いたから、そう見えるのかもしれない。昼に二層で炭筆を探していた指は、今は動かずに卓の縁をつかんだままだった。
「終わった」
鏨を置いた指が、しばらく開かない。一本ずつ開いてから鏨を布で拭いて、袋に戻す。ボルグは天井から目を下ろして、自分の脛を見た。炭の跡をなぞる指が、途中で止まる。
「……何をした」
「足場を打った。膝と足首に支点を置いて、脛に縁を通した。重さは骨の中を通らずに、外を回る」
ボルグは黙っていた。長い黙り方だった。ニナは床に置いた灯りの横で膝を抱えたまま、ボルグの顔を見上げている。帳面を付けるときの目ではない。
「いつ、思いついた」
「七層で足場を打ったとき、と言いたいところだが、今日の夕餉のあとだな。椀を空けたあとの、あんたの言い方を聞いてからだ」
ボルグは鼻から長く息を抜いた。笑ったのかもしれない。
「歩けるようにしただけだ。朝と晩に検める。薄れたら足す。靴と同じだ」
それだけ言うと、ボルグは五つ目の椅子から左脚を下ろした。両手で持ち上げずに、脚のほうから下りた。床に踵がつく。ボルグは壁の杖へ手を伸ばし、二年そうしてきたとおりに、杖と右足で体を持ち上げ始めた。
半分まで上がったところで、左の踵に目方が乗った。ボルグの顔が、一瞬だけ変わる。
ボルグが、立ち上がった。杖が、床に倒れる音がした。
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