第43話「頼み札」
戸に挟まった札を、上から順に抜いていった。七枚ある。昨夜の問いは、答えを持たないまま棚に載せて寝た。幹が書き直されているかどうかは、朝になれば数えられる札とは違う。数えられるほうから先に数える。
朝の卓で、昨夜の男のことを訊く者はいなかった。ニナは一度だけこちらを見て、鍋へ目を戻した。ボルグは粥を啜る音を変えず、若いのは匙を握ったまま、訊いていいのかどうかを量る顔で黙っている。訊かれないことを、こちらから話す筋もない。椀を空けて、戸を開けた。
表には人が五人並んでいる。背負子を下ろした荷担ぎの男、柄の割れた鉈を布に包んだ女、兄弟らしい駆け出しが二人、それに市場の奥で店を出している研ぎ屋の爺さんだ。先頭の荷担ぎが、背負子の肩紐をこちらへ突き出しながら訊いてくる。
「竈の、外一名ってのは、あんたか」
「張り替え屋だ」
荷担ぎは、どちらでもいいという顔で頷いた。七層を抜けた隊に張り替え屋がいる、という話が、ようやく町の奥まで届いたらしい。名前のほうは届いていないから、訪ねる側は通り名で訪ねてくる。三月前までは、頼み札は五日にひと枚だった。塔の中で物が保つかどうかは七層の前から変わっていないのだから、変わったのは話の回り方のほうだろう。
一人ずつ受けた。肩紐の擦れる筋に沿って刻み、鉈の柄の割れ口に一本入れ、兄弟の靴の踵を検める。鉈の女は、七層の人に刻んでもらったら薪も高く売れるかね、と真顔で訊いてきた。薪の値は鉈では変わらないと答えると、それもそうだと笑って、布を畳み直した。払いは品の値ではなく、払う者の懐に合わせる。そうしないと、払えない者から先に帰ることになる。払えない者には、薪か水か、塀の修繕を出す。断る言葉を探すより先に、手が次の品へ伸びている。昼まで持たずに、段取りが崩れた。鏨の研ぎが追いつかず、炭筆は二本とも短くなり、台の上には済んだ品と手をつけていない品が混ざって山になっていく。一人帰るあいだに、一人増える。ニナが市場へ行く刻限は、とうに過ぎていた。
昼の少し前、ニナが帳面を持って戸口に立った。
「札を、お預かりします」
並んでいる者から一枚ずつ札を受け取って、日付の順に綴じ直していく。綴じながら、戸口の全員に聞こえる声を出した。
「塔の外で使う品は、働いて払ってもらっても構いません。急ぎは受けません。明日からの分は、この順番です」
筆頭さん、と列の誰かが呼んだ。ニナの肩が一度だけ上がって、それから帳面の次の頁がめくられる。筆頭と呼ばれるのには、まだ慣れていないらしい。それでも綴じる手は止まらない。
ボルグは杖を突いて列の脇を歩き、並ぶ者の手元と足元を一人ずつ見ていく。荷担ぎの背負子の前で止まり、杖の先で枠の継ぎ目を叩く。
「枠が割れとる。紐に刻んでも、先に枠が折れる。刻む前に大工だ」
兄弟の片方の靴には、縫い目がほどけているだけだと言って靴屋の場所を教えた。研ぎ屋の爺さんの包丁は、刃の欠けを親指で一度撫でただけで返す。研げば済む、あんたの商売だろう、と言われて、爺さんは笑いながら帰っていった。ボルグの断り方には愛想がない。愛想がないから、断られた側も言い返す取っ掛かりを持てずに帰る。帰された兄弟は、夕方には縫い直した靴を履いて戻ってきて、今度は札の順どおりに並び直している。
昼は麦の板になった。市場へ行けなかったぶんを、塔に持って上がる板で埋める。ニナとボルグは戸口に立ったまま齧り、俺は台の前で齧り、若いのは裏の切り株に腰掛けて齧っている。昼の飯が板になる日は、段取りの崩れた日だ。明日は崩さないように、札の束の厚みを先に見ておく必要がある。
二人が戸口に立ってから、台の上の山が減り始めた。受ける品が減ったというより、並ぶ順が決まったのだと思う。順が決まれば、手は迷わない。次に取る品が分かっていれば、鏨を置く場所まで先に決まってくる。
「札の順が決まると、手が早くなるな」
そう言うと、ニナは帳面から目を上げずに、そうですね、とだけ答えた。ボルグは返事をせず、次の品を見に列の尻へ歩いていく。二人の目が戸口で一度だけ合ったのは、見えた。何の目配せかは分からない。分からないことを考えるより先に、鉈の柄が台に載った。列が短くなったおかげで、夕方までに鏨を一度研ぎ直す間ができた。研ぎ場に水を張って刃を当てるのは、今日はこれが初めてだ。列の引けたあとの台の上は、朝より片付いている。
裏では、若いのが二日目の薪を割っている。割り方は昨日より少しましになった。労働払いの欄に書くからとニナが名を訊くと、若いのは斧を止めた。
「レイフ。姓はない」
姓のほうは訊かれていない。訊いてもいないことを先に言う癖は、今日も変わらないらしい。書き終えた欄を、レイフは首を伸ばして覗き込み、自分の名の綴りを確かめてから斧に戻った。
昼過ぎに、相棒が来た。熱の引いた顔で、昨日刻んだ二足のうちの一足を履いている。背丈はレイフより低いが、薪の積みの上を塀の縁でも歩くような軽さで渡ってきて、レイフの隣へ下りた。
「トビだ。靴の礼を言いに来た。朝から町をひと回りしたけど、一度も滑らなかったよ」
その場で足踏みをしてみせてから、トビはレイフの斧を借りて割り始める。礼の続きが薪割りになる男らしい。二人の割る音が、裏で交互に鳴るようになった。割る合間に、昨日の夜は誰が来たのかとトビが訊き、レイフが肩をすくめるのが研ぎ場から見える。レイフはそれきり答えず、次の丸太を台に立てる。
夕方、ベルタが椅子を提げてきた。脚が一本だけ短く、背もたれの端が欠けた古い椅子だ。表に列ができていると店まで聞こえてきた、と女将は言った。
「また出てきたよ。要らないのが」
卓の脇に椅子を置き、鍋の塩を見て、何も足さずに帰っていく。頼んだ覚えはない。相棒の話は、昨日の昼にでも聞いていたのだろう。ニナが短い脚の下に割った木片を噛ませて、がたつきを止めた。卓の椅子が、五つになる。鍋は五つに分ける算段で、トビの椀には棚の奥の欠け椀を出せばいい。明日の麦は、今日の分に一人ぶんを足して量ることになる。ボルグは卓に着くとき、左の脚を両手で持ち上げて椅子の下へ入れた。一日、列の脇を杖で歩き通した脚だ。本人は何も言わずに座り、座ってから杖を壁に立てかけた。
札の束の一番上には、朝いちばんの欄が空いたまま残っている。読めない字の一枚だ。書いた本人に読ませる段取りだったが、本人は朝に来なかった。ニナは欄を埋めないまま、昼にも夕方にも一度ずつ戸口を見ている。
日が傾くころ、戸口に駆け出しが一人立った。息が上がっていて、底の抜けかけた古靴を履き、右手に別の靴を一足提げている。朝いちばんの欄の主だと、ニナが先に気づいた。朝は塔の荷の仕事で来られなかったと、駆け出しは頭を下げ、四人で組んでいる組の頭だと言って、キトと名乗った。
ニナが札を差し出すと、キトは受け取って、自分の字を指でなぞりながら読み始めた。早口で、何度も自分の字につっかえる。
「……二層で、線が、白くなった」
提げていた靴を、台に置く。三月前に俺が刻んだ靴だ。縫い目の脇に入れた線の端が、白く浮いていた。
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