第42話「塔に刻んだ者」
「中で聞く。湯くらいなら出せる」
男は首を横に振った。頭巾の縁が揺れただけで、足は敷居の外の半歩から動かない。腹を空かせて来た人間なら卓に座らせればいいし、話をしに来た人間なら座らせて聞けばいい。どちらにしても戸口で済ませる用ではないと思ったが、敷居を越える気のない客を引き入れる筋は、それよりもっとない。
「外で済む。長くはかからない」
俺は外へ出て、後ろ手に戸を引いた。閉め切らずに半分で止めると、卓の灯りが敷居の上へ細い帯になって落ちて、男の靴の先だけを照らす。中で鳴っていた匙の音が、そこで止んだ。
半分の隙間から卓の端が見えた。ボルグは埋み火の前に屈んだまま火箸を止め、若いのは四つ目の椅子から腰を浮かせかけた形で固まっている。ニナの姿は戸の陰に隠れているが、札を並べ直す手の音がしないところをみると、手を止めたまま聞いているのだろう。聞くなと言う筋もないから、戸はそのままにしておいた。
通りは暗く、塔の上のほうに灯りが二つ揺れている。夜の潜行か、下りそびれた隊だろう。昼に来れば、戸口には札を握った客が並ぶ。夜を選んだのは並ばずに済むからかもしれない。男の靴は、歩いた道のりのわりに減りが浅かった。泥のよけ方を知っている靴だ。外套の留め具にも頭巾の縫い目にも付与の照りはなく、塔へ上がる者の身なりではない。
「帳場の綴りの余白に、あんたの言葉が一行書き留めてある」
よく通るのに、声は大きくない。人に聞かせる用向きに慣れた喉の出し方で、男は続けた。
「足場を整えた。手本は壁にあった」
言った覚えはある。七層から下りた日に、ダグの前で問われて返した言葉だ。あの日、ダグの筆はその返事を聞いたところで止まっていた。止まったあとで余白へ回ったのなら、書いたのは俺たちが帰ってからだろう。書かれていたとは知らなかったが、書かれて困る中身でもない。
「壁の字は、読めたか」
「作りだけだ。中身は、十年眺めても無理だろう」
男はしばらく黙った。踏破の記録を書き終えたダグが、綴りの前で黙ったときの黙り方に似ている。問いの答えを帳面のどの欄へ書くか、決めかねている者の黙り方だ。男の目が一度だけ戸の框へ動いて、また戻った。前に来た晩、暗がりで扉の刻みを探しもせずに見つけた目だ。框の刻みには、あの晩から二度足してある。それから男は、今夜ここへ来た用件の話を始めた。
「古い帳面に、一つ記録がある。塔が開いて間もないころ、塔の口に刻み手が一人座っていた」
書いてあることを、書いてある順に読む声だった。足さず、削らず、帳面の行の幅のまま話す。
「上がる者の得物に刻み、下りてきた者の得物を、また刻んだ。記録にあるのはそれだけで、名も出どころも書いていない」
「何で刻んでいた」
「書いていない」
鏨か炭筆か、それだけでも知りたかったが、書いていないものは仕方がない。上がる者に刻み、下りてきた者にまた刻む。塔の中で傷んだ物を次に上がる前に直しておくのだから、順序としてはそうなる。今なら鐘楼の立っているあたりか、番小屋の軒下か。一人でそこに座って、上がる者と下りる者の得物を全部引き受けていたのなら、刃の減りは相当なものだったろう。一日に何本の得物を検めたのかと数えかけて、手首のほうが先に重くなった。腕のいい張り替え屋が、昔もいたらしい。そういう話として、俺は聞いた。
「その刻み手が死んだ年に、塔が初めて鳴った」
塔の上の灯りの一つが、ちょうど下へ動いた。男の声の調子は、そこでも変わらない。書庫で開いた帳面のことを思い出す。八層と九層の買取の行が、値をつけたまま並んでいた古い帳面だ。その行が途切れる少し手前に、塔鳴り、初めて記さる、とだけ書かれた年があって、その年から事故の行が増え、やがて閉層の布告が綴じ込まれていた。
「書庫の帳面にある年か」
「同じ年だ。あちらの帳面とこちらの帳面が、別々に同じ年を書いている」
刻み手がいなくなった年と、塔が鳴り始めた年が、帳面の上で同じ行に並ぶ。二冊の帳面が別々の手で同じ年を書いたのなら、年の数え違いではなさそうだった。それでも、並んでいるだけなら、ただの並びかもしれない。並びでないのだとしても、二つをどうつなげばいいのか、俺には見当がつかない。分からない棚に、一つ載せておく。このところ空きの多かった棚に、久しぶりに物が載った。載せたものを下ろすのは、下ろし方が分かってからでいい。
男の目が、今度は俺の手に落ちた。灯りの帯の端に、右手が入っていたらしい。爪の間には、今日の靴二足ぶんの炭の粉が残っている。男はそれについて何も言わず、目を俺の顔へ戻した。見られて減るものでもないから、手は隠さなかった。昼に若いのが手元を覗き込んできたときも、同じように放っておいた。
「探せ、という一行も読んだだろう」
「読んだ。挑戦の冊の、綴じ足しの頁だった」
十四画の写しの下に、余白を惜しむような小さな字で書かれていた一行だ。墨が冊の地の色に沈みかけていて、書いた者の手の癖までは読み取れなかったのを覚えている。
「綴じたのは、この話を前に預かっていた者だ。書いた手は、それよりも古い」
「前に、ということは、今は」
男は答えなかった。聞こえなかったことにする顔を、前にも一度見ている。こちらの帳面が誰のものなのかと訊いても、名を訊いても、同じ顔で流された。答えないと決めてある問いに二度目を重ねるのは、閉まっている戸を叩き続けるのと変わらない。叩くなら、開いている戸のほうが筋だ。
「綴じた者は、探して、見つけずに終わった」
男はそれだけを付け足した。惜しむ声でも責める声でもなく、帳面の最後の行を読み上げる声だった。探せと書かれていたのは、塔に刻んだ者だ。それが塔の口に座っていた刻み手のことなのか、十四画を刻んだ手のことなのかを、男は言わなかった。訊いても、さっきと同じ顔で流されるだけだろう。戸の内側で、鍋の蓋が一度だけ小さく鳴った。
「次に上がるのは、いつだ」
「決めていない。上がる前に、明日のパンの山を数え直す。相棒が熱を下げて出てくれば、飯の数がまた一つ増える」
八層は逃げない、と七層の帰りに思った。逃げるのはこちらの余力のほうだ、とも。いま余力の行き先を決めているのは、塔の高さではなく卓の椅子の数だ。湯は本当に要らないのかと訊くと、男は頭巾の奥で、要らない、とだけ言った。飯の話を聞いたあとで湯を断る客は、腹ではなく用のほうで来ている。
戸の内側で、椅子の脚が床を擦る音がした。若いのが身じろぎしたのだろう。男は頷いたのか、頭巾の影が一度だけ沈んで、それで用は済んだらしかった。敷居の外の半歩を、そのまま後ろへ延ばすように下がり、背を向けかけて、そこで止まる。
「幹は」
振り返らずに、男は言った。
「まだ一度も、書き直されていないか」
幹、というのは、八層の口で俺が勝手につけた呼び名だ。ニナの報告を通って、綴りにまで載っていたらしい。載ったのは呼び名のほうで、つけた者の名ではないはずだ。答えは持っていなかった。八層の口で幹を見たのは一度きりで、あのときの目は、消し跡がないことを確かめただけだ。今も無いのかどうかは、上がってみなければ分からない。分からないものは、上がって確かめればいい。確かめに行くには、その前に明日の飯を回しておく段取りが要った。
男は、答えを待たなかった。外套の背は通りの暗がりへ入り、塔の灯りの下を一度も振り返らずに遠ざかっていった。
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