第37話「突破」
壁の字を、指でなぞった。手を置いた場所から一画ずつ、始まりを探し、節を数え、順を追う。読み方の作法など知らないから、工房で崩しを検めた時と同じやり方で読む。
節の足し方に、癖がある。始まりは画の腹へ沈めてあり、順は、なぞる手が二度も三度も逆を向く狂わせ方をしている。読めない、と普通は言う字だ。俺の指は、二度迷って、三度目に通った。迷い方に覚えがあるからだ。工房で三日かけて拵えた崩しと、この壁の字は、同じ側にいる。向こうがずっと先で、ずっと深い。手本は、最初からここにあった。腰の高さの短剣で一度やった思い違いを、壁一面ぶんの大きさで、もう一度やっている。
「読めるのか、それが」と、ボルグが後ろから言った。
「中身は読めん。字としてなら、読める」
意味は取れない。何を言っている字なのかは、十年眺めても取れないと思う。だが、どこで画が始まり、どこで節が働き、どの順で引かれたかは、指が拾える。字の言い分と、字の作りは別の話だ。作りのほうなら、こちらの商売の内にある。
壁は、生きた画と消された画の縞でできていた。深く彫られて照りの残る画と、均されて浅くなった消し跡が、幾重にも重なっている。彫って、消して、また彫る。この壁は、書き直され続けている帳面だ。そして生きた画は、どれだけ目を凝らしても、白を出していない。軋みは、この壁の字を食わない。手入れというものは、自分の字を食わないのだ。
なら、道はある。食われない字がこの世にひとつあって、その字の作りが指で拾えるなら、やることは決まっている。
壁の隅の、生きた画の並びが切れる場所を選んだ。並びの癖に合わせて、節を足し、始まりを沈め、順を狂わせて、支点の一本を刻む。俺の崩しではなく、壁の手の写しだ。手本を指でなぞり、なぞった通りに鏨を運ぶ。刻み終えて、息を数えた。ここには荒れの谷がない。圧は退かずに、ずっと押し続けている。二十数えて、白は出なかった。五十まで数えて、ニナが表へ、出ない、と書いた。ボルグが指の腹でなぞって、二度迷い、それから頷いた。
「通す」と言った。ニナが担ぎの前へ、カリンが傷の側へ、ボルグが吊りの後ろへ、言い終わる前に持ち場が埋まった。
芯の間は、壁の字がいちばん密な区間だった。圧は骨の芯を越えて歯の根まで届き、足しながら進む列の、足す手が追いつかない厚さになる。だから足すのをやめて、写すことにした。壁沿いに、写しの字で縁を打ち、支点を打ち、担ぎ縄の掛かりを打って、列の通る足場を作っていく。娘の靴が縁を踏み、爺の杖が支点を拾い、担ぎの吊りが掛かりを渡る。俺は半歩先で手本をなぞり、なぞった先から刻んだ。手は考えるより先に動く。考える仕事は、壁がとうに済ませてくれている。
芯の間の半ばで、一度だけ、写しの手が止まりかけた。手本の並びに、見たことのない節の使い方が出たからだ。三画ぶん先まで指でなぞり直して、使い方の理屈を拾ってから、続きを刻んだ。拾った理屈は、崩しの三手のどれでもない四つ目の手で、覚える気のないまま、手が覚えた。
縦の段差がひとつあって、担ぎはそこで一度吊った。カリンが傷の側を抱え、ニナが上で縄を取り、ボルグが下で吊りの振れを杖で殺す。ゲイルの息が段の途中で詰まり、上がり切ってから、長く吐かれた。吊りの掛かりに打った写しの字は、五人ぶんの目方を受けて、画のひとつも痩せなかった。
段を越えた先で、圧が引いた。退き方は、潮のそれに似ていた。骨の芯の鳴りが一段浅くなり、もう一段浅くなり、歯の根から抜ける。壁の字は絶えて、素の石の通路が先へ延びている。突き当たりに段があり、段の上に、枠のない口が開いていた。口の敷居は膝の高さの石で、長年の靴に磨かれて鈍く光っている。磨いた靴の数だけ、ここを跨いだ者がいた時代があるということだ。
ボルグが、先頭のまま敷居の前に立った。立って、すぐには跨がなかった。敷居の石の面を杖の先でひと撫でして、面の減り方でも確かめるような間を、ひとつ置いた。
石突きが先に敷居へ載り、右足が続き、左足が杖に引かれて渡った。それだけだった。言葉はなく、振り返りもしない。ただ、渡った先で杖が床を突く音が、今日一日のどの音より深く、床の奥まで通った。
七層を、抜けた。抜けた、という言い方をこの口はまだ使っていないが、並びの全員が敷居の内側にいて、圧は背中の側にしかない。事実の置き場所として、そう言うしかない場所に立っている。
敷居のこちら側で、カリンの手の照りが、初めて食われずに傷へ沈んだ。塞いだ端が、開かない。カリンは二度、三度と張りを重ねて、それから息を長く吐いた。吐いた息の長さが、七層のあの窪みからの道のりの長さだった。ゲイルの顔から、詰めていたものが少し抜けた。抜けたままの顔は、触れの板の前で見たどの顔よりも、年相応に見えた。
休みを取って、水を回した。麦の板の残りをニナが割って配り、ゲイルの分はカリンの手を経由して口へ届いた。噛む音が五人ぶん、素の石の通路に並んだ。塔の中で聞いた音のうち、いちばんまともな音だと思う。
「越えたんですよ」と、ニナが手控えを胸に抱えたまま言った。「七層。……誰も越えられなかった層です」
「足場を整えただけだ」
娘の目がこちらを見たままなので、続けた。手本が壁にあった。写しただけだ。写しで越えられる層なら、道具と手本の問題で、越えた越えないの話ではない。ニナは何度か口を開きかけて、結局、手控えに一行だけ書いた。何を書いたかは見なかった。書く先を選ぶのは、帳面の持ち主の仕事だ。
八層の口へ、段を上がった。上がりながら、ニナは新しい図の頁に敷居と段を描き足し、ボルグは杖の音の返りで先の広さを測っていた。仕事の中身は七層のどの区間とも変わらない。変わらないままの仕事が、誰も来たことのない場所で続いている。
口の先は通路ではなく、吹き抜けだった。塔の内側が、上へ向かって開いている。壁の面に沿って、光る線が一本、太く、途切れずに上へ延びていた。幹のような線だ。枝も葉もまだ見えない。ただ、線の照りは床の刻みの白い光と同じ淡さで、目で追える限りの高さまで続いて、暗がりの先へ消えていた。
読んで下さりありがとうございました!
★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!
Youtubeにて作品公開中!
http://www.youtube.com/@mizukara-h2z
ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。




