第32話「押し上げ」
荷袋の口を、縛り直した。落ちてからそう経っていない袋だ。砂のかぶり方が浅く、革の湿りもまだ残っている。
こぼれていた麦の板は、二枚とも拾って袋へ戻した。砂を払うと、板はまだ食える硬さの音を立てた。焼き締めの板は安くない。安くない物を落として、拾いに戻らない足の速さで、先の隊は歩いている。落とし主の見当は、届けの日取りを考えれば絞るまでもない。ニナが袋を自分の荷の上へ括り、増えた重さのぶんだけ帯を締め直した。食い物を通路へ置いていく理由は思いつかないから、これは預かりだ。会ったら返す。それで済む話にしておく。腹の減った人間の前に食い物が落ちていて、拾わない習慣のほうを、俺は持ち合わせていない。
「荷を捨てる隊は、速さを買っとる」と、ボルグが先を向いたまま言った。「買った速さの払いは、帰り道で来る。……行くぞ」
検めの間隔を、半段から三歩に縮めた。進むほど軋みの厚みが増していくから、物差しの目もそれに合わせて細かくする。それだけの理屈だ。
胸の鳴りは絶え間なくなって、骨がそれに慣れるということを初めて知った。ここでは日の高さが分からない。刻の代わりになるのは、ニナの手控えの点の数と、手灯の油の減りだけだ。壁の継ぎ目の鏨跡は密になり、削って直した跡の上へ、さらに削った跡が重なっている。この層の壁は、誰かが何度も手を入れた壁だ。手を入れた理由までは、壁は言わない。三歩、止まる、検める。靴、帯、杖、薄刃。照りは動かない。動かないことを確かめて、また三歩を進む。無事の検めは異常の検めより手間がかかると昨日知ったが、手間の中身は同じ検めの繰り返しだから、列の足は昨日より速い。
通路の砂には、靴跡が幾つも重なっていた。上がり口の近くでは揃った列の跡が、進むにつれて幅を乱していく。歩幅も乱れて、右の壁に手をついた跡が続くようになった。壁を頼る列は、目より先に足が参っている列だ。
はぐれの出た跡は、どこにもない。この道の乱れは、外から来たものではなく、列の内側から出たものだ。
桟に新しい擦り傷が続き、曲がりの角には縄の切れ端がひと巻き、投げ捨てたかたちで落ちていた。切り口は刃物で、結びをほどく手間を惜しんだ切り方だ。その先の床に、指の先ほどの触媒がひと粒転がっていて、拾って灯りに透かすと、照りは死んでいた。張りの切れた触媒は、同じ石でもただの石より軽く見える。少し行くと、革の指当てが片方だけ落ちていた。装備が順に体から離れていく道を、俺たちは後ろから読みながら歩いている。ニナが黙って手を出すので、拾った物はどれも袋の脇へ預けた。この娘の帳面では、拾い物は全部、返すまでの預かりで付くことになっている。
道が、幅半間ほど抜けていた。床板ごと、下の暗がりへ落ちている。落ち口の縁は新しく、砂がまだ乾き切っていなかった。先を行った隊が越えたのか、落としたのか、縁の傷だけでは読み切れない。
ボルグの杖が縁を短く突いて回り、残った床の生きた部分を音の返りで選り分けた。ニナは返事を待たずに縄を出し、輪を二つ作って寄越す。俺は桟の根に膝をついて、滑り止めと欠け止めを一画ずつ、崩した形で刻んだ。軋みの押しの中で鏨を使うのは初めてだが、手順は工房と変わらない。変えたのは画の速さだけだ。刻む間、二人は手元へ灯りを寄せて、誰も口をきかなかった。縄が張られ、ニナが先に渡り、ボルグが杖を投げ渡してから縄を頼りに渡る。杖のない間のこの男の重さは、縄と桟が黙って持った。俺が殿で渡って縄を解き、刻んだ桟の位置はニナの手控えに残させた。帰りも使う支点だからだ。全部で、息を三十ばかり取る間の仕事で済んだ。言葉は最初から最後まで、ひとつも要らなかった。
「……七層のただ中で刻む奴は、初めて見た」渡り終えたボルグが、杖を突き直しながら言った。「下で刻んで、持って上がるもんだ。普通はな」
持って上がった刻みで足りない穴が開いていた、というだけの話だ。そう返すと、ボルグは返事の代わりに先へ杖を向けた。
次の曲がりの手前で、その杖が止まった。
「ここまでだ。俺の図にあるのは」
床板に引いた図の、端だった。二年前にこの男が踏んだいちばん先へ、いま三人で立っている。ボルグは曲がりの先の暗がりを長いこと見た。見ている間、杖は床を突かず、息だけが深く出入りした。それから一歩ぶん、脇へ寄った。道を譲ったのではない。先頭は変わらず、この男の杖の音が務める。譲ったのは図のほうだ。ニナが手控えの新しい頁を開き、上がり口からここまでの道を線で起こし始めた。ここから先は、この娘の手控えが初めての図になる。図のない場所を図にしながら進む列に、いつの間にかなっている。
「圧に向きが出る場所までは」と、ボルグが暗がりから目を戻して言った。「二年前も、来とらん。ここから先は、俺も客だ」
客と名乗った男の杖は、それでも図のある区間と同じ調子で床を突いていった。音の返りで道を読む技に、図は要らないらしい。ニナは三歩ごとに線を足し、曲がりの角度を指の幅で測っては頁に写した。写す手の速さが、下の層で綱を張っていたころより上がっている。図のない場所は、この娘の手の中で、歩いたそばから図になっていく。
曲がりを越えると、軋みの押しに、濃い側ができた。四方から等しく来ていた圧の中に、厚い向きがある。三歩ごとの検めで確かめると、厚い向きは毎度同じで、道の先と重なっていた。ボルグの杖の返りが硬くなり、ニナの点を打つ間隔が短くなる。息の取り方も、教わった深さのまま三人で揃えた。変わっていくのは層のほうで、こちらの手順は朝から何ひとつ変えていない。変えずに済んでいる装備の照りだけが、朝と同じ顔で並んでいた。
砂の上の靴跡は、もう列のかたちをしていなかった。歩幅はばらけ、壁の手つきの跡は途切れ、代わりに床のあちこちへ深い踏み込みが残っている。走った跡だ。走る理由のある場所だということを、跡だけが先に教えてくる。
先の暗がりで、鋼の折れる音がした。
短く、乾いた音だった。付与の張りが切れる音なら、ボルグの話で覚えがある。これは違う。物そのものが折れる音だ。音の残りへ、悲鳴が重なった。
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