第31話「七層」
七層へ上がる段の口で、縄を結び直した。
先頭がボルグ、真ん中がニナ、殿が俺。六層までとは並びが逆になる。道を知る者が前へ出る、それだけの理屈だ。理屈の通りに、杖の男が先頭に立つ。段の下から見上げると、ボルグの背は杖ごと段の暗がりに馴染んで、二年ぶりだという足の運びには、迷いの間がなかった。
ここまでの道は、通い慣れた道だった。未明の通りにはまだ触れの余韻が残っていて、塔の入り口の番小屋で、番の男が届けの写しとこちらの顔を三度見比べた。見比べ終えると、何も言わずに通した。言いたいことは顔に全部書いてあったから、読むのに手間はかからなかった。
一層から五層までを一息に抜けた。ニナの足は荷を負っても崩れず、ボルグの杖は段の縁を正確に拾っていく。段の登りで、この男は左足から乗せない。杖と右足で体を運び、左は添えるだけにする。二年かけて出来上がった運び方だから、速さは並の足と変わらなかった。六層の刻印の前を、今日は止まらずに過ぎた。止まらずに過ぎる日が来るとは、預けた鉄片を並べた朝には考えていなかった。塔の都合は変わらない。変わったのはこちらの用件だけだ。
段を三つ上がったところで、軋みの質が変わった。
六層までの軋みには、来る向きがあった。壁なら壁、床なら床。鳴りを数えられたのは、鳴りと鳴りの間に切れ目があったからだ。ここのは切れ目がない。四方から、水の底の圧みたいに押してくる。数え始めた指を、途中で畳んだ。数えられないものを数えても袋は膨れない。代わりの物差しを決める。半段ごとに列を止め、靴、帯、杖、薄刃の順で照りを検める。照りが一つでも動いたら、その場で降りる。物差しはそれで足りる。
「息を深く取れ」と、先頭からボルグが言った。「ここの軋みは、耳より先に胸へ来る。浅い息で上がると、段の数を間違える」
言われた通りに息を取ると、胸の底で軋みが鳴った。骨で聞く音だ。ニナが後ろで同じように息を取り、取った息の数だけ手控えに点を打っていた。数える先を失った指は、点を打つ仕事に回すらしい。この娘の帳面は、どんな層でも埋まっていく。
半段上がって、止まり、検める。照りは動かない。また半段。動かない。動かないことを確かめる作業は、動いた時の作業より神経を使う。異常は目に飛び込んでくるが、無事は目を凝らさないと確かめられないからだ。ニナの点は増え続け、手控えの頁の端で行儀よく列を組んでいた。
「二年前は」と、ボルグが前を向いたまま言った。「この段の半分で、胸当ての張りが切れとった。切れる音は、軋みの中でもよう通る。あの音が鳴るたび、後ろの列が浮き足立った」
今は、音がしない。切れるものを、誰も身に着けていないからだ。俺は薄刃の縁を検めて、列を進めた。
段を上がり切る手前で、軋みが一度、膨らんだ。
切れ目のない圧が、さらに厚くなる。荒れだ。六層なら壁伝いに向きが読めたが、ここでは読む向きがない。ボルグの杖が床を強く二度突き、列がその場で膝を落とした。俺は靴と帯と杖と薄刃を順に見た。ニナは息の点を打つ手を止めずに、目だけで自分の靴の照りを追っていた。膨らみは、息を十ばかり取る間、通路全体を押して、それから元の厚さへ戻った。誰の装備からも、音はしなかった。落とした膝を順に上げて、列を組み直す。ボルグが杖の先で前を指し、それで荒れの検分は終いになった。検分に言葉が要らない列になっている。消されないと決めるのは早い。読まれるのが遅いだけ、ということもある。刻んだ本人が二度迷う字だから、塔が三度迷っても不思議はない。迷っている間に用を済ませて降りる。それで足りる。
上がり切った口の右の柱に、刻み目が三つあった。
石突きで打った目だ。床板の図の上がり口に、ボルグが余分に打っていた印の正体は、これだった。付与の照りではないから、二年経っても消えようがない。石に付けた傷は、塔に読まれない。読まれない字を工房で三日かけて拵えた俺の隣に、最初から読まれない書き方をする男が座っていたわけだ。
ボルグは柱の前で足を止め、刻み目の上へ掌を置いて、しばらく動かさなかった。何の目印かは言わず、こちらも訊かずにおいた。ニナも同じにした。訊く代わりに手控えへ柱の位置だけを写して、写し終えるまで、誰も先を急がせなかった。掌が離れて、杖が先を突いた。それが進めの合図になった。
七層の通路は、六層より天井が低い。
低い分、軋みが近い。壁の石は目が詰んで、継ぎ目に古い鏨の跡が残っている。人の手の入った層だ、と分かる。ボルグは杖の石突きで床を二度、三度と突きながら、突いた音の返りで道を選んでいった。右の壁沿いに桟が続き、桟のひとつに朽ちた縄目の痕が黒く残っていた。ボルグはそこを見ずに過ぎた。見ずに過ぎるのに、桟の切れる位置で正しく左へ折れた。体が道を覚えている歩き方だった。
「靴、平気です」と、後ろでニナが言った。半段ごとの検めは、いつの間にか娘の側の仕事になっている。「帯も、袋の口も。杖の根も。……書くことが、ないです」
手控えを覗くと、頁には息の点の列と、検めた刻の印だけが並んでいた。異常の欄に立てる字が、朝からひとつもない。六層日帰りを始めたころ、この娘は消えた付与の数を頁の表に、残った付与の数を裏に付けていた。今日は裏しかない帳面を付けている。
書くことがないのは、いいことだ。帳面の白い頁と引き換えに、こちらは全員の得物を保って歩いている。ボルグが浅く息を吐いて、それから深く取り直した。
「……空気は、変わっとらん」
それだけ言って、また杖を突いた。二年ぶりの層の空気を、この男は文句もつけずに肺へ入れている。変わったのは空気ではなく、吸いに戻ってくるまでの年数のほうだ。
道が緩く右へ曲がり、天井がさらに下がった。下がった分だけ、三人の影が壁に大きく映る。ボルグの突く音の返りが短くなって、先の道の詰まりを教えていた。
ニナの手灯が先を照らす。灯りの輪の際で、影が段になっているのが見えた。段ではなかった。近づくと、口の開いた荷袋がひとつ、通路の真ん中に転がっていた。麦の板が二枚、袋の口からこぼれて、拾う手のないまま床に並んでいた。
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