第30話「届け出」
届けの紙を、台の上で表に返した。
六層の検めは、未明に出て朝のうちに済ませてある。刻印の前に預けた鉄片三枚を回収して、代わりに崩しを重ねた新しい一枚を軋みの通り道へ置いた。前に崩した線が鳴り九つで無傷だったのに合わせて、こちらも九つまで数えてから引き上げた。縁は欠けず、照りも痩せない。置く前と置いた後の姿を、ニナが手控えに二枚並べて写し、ボルグが指の腹でなぞって確かめた。三対の目の見立てが揃って、それで検めは終いになった。読まれない字は、六層では読まれなかった。あとに残るのは紙の手続きだけで、紙の手続きというものは、塔よりも先の読めない場所で行われる。
その紙の前で、ダグの手が止まっている。台に置かれてから、まだ一度も紙に触れていない。
「七層、で間違いありませんか」と、ダグは紙ではなくこちらを見て訊いた。
「間違いない」と返した。
「規則を先に読みます」ダグは台の下から綴りを一冊引き上げた。「深層への挑戦は、隊単位の届け出に限る。隊の登録には、筆頭一名と、隊員二名以上。筆頭は、隊登録を持つ探索者に限る。……ここまでで、止まります」
止まる理由は、こちらでも分かった。俺の登録は単独だ。半年近く前に、この男が様式の欄外へ書き足しを作って通した登録で、隊の枠がそもそもない。単独登録のまま筆頭には立てず、様式の上では、隊員の欄へ移す先例すらない。作った本人が、作った穴に落ちている。ダグは綴りを二冊目、三冊目と繰って、繰るたびに指の速さが落ちていった。規則の海のどこにも渡し板がないことを、指で確かめている速さだった。
「単独登録を隊へ移す様式は、ありません」ダグは綴りを繰る手を止めずに言った。「作れと言われれば作りますが、審査で月をまたぎます。急ぎですね」
急ぎだ、と返すと、ダグは綴りを閉じて、道はひとつです、と言った。新しい隊を、別の筆頭で登録する。筆頭はどなたに、と。
考えるまでもなかった。読み書きの速さ、数の速さ、手控えの正確さ。この場の三人で紙の仕事に向くのは一人だけだ。隣のニナを見ると、ニナは一拍おいて、自分の鼻先を指さした。私ですか、と言う声が半分裏返っていた。適任だ、と返した。
ニナは口を結んで、それから帳場の筆を受け取った。動揺は、この娘の場合、手の速さに出る。筆頭の欄を埋め、生まれと年を埋め、書き損じのないきれいな字で隊員の欄にボルグの名を書き、俺の名を書こうとして、ダグに止められた。帳場の奥で書き物をしていた別の職員が二人、手を止めてこちらを見ていた。見られる届けを出しているらしい。
「そこは、書けません」綴りのほうを向いたまま、ダグが言った。「単独登録者は、隊員欄に名では載せられません。登録番号での付記になります。触れと掲示に出るのは隊名と筆頭名だけですから、どのみち表には出ませんが」
「……名前が、載らないんですか」とニナが訊き、番号は載ります、とダグが答えた。
ニナが俺を見た。載らないのは構わない。触れに名が載って増える飯はないし、減る手間なら思いつく。番号でいい、と言うと、ダグは頷いて、俺の登録の写しから番号を引き写した。十一年この台にいて初めて書く欄です、と手を動かしながら言った。半年前にも似たことを言わせた覚えがある。この男の初めては、だいたい俺の紙の上で起きている。
隊名を、とダグが筆の先で欄を指した。筆を持ったまま、ニナが三拍だけ考えた。
「竈、でお願いします」
ダグは聞き返さなかった。竈、と書き、写しを取り、綴りに挟んで、正面から俺たちを順に見た。規則の確認をする目ではなかった。
「六層日帰りの記録は、この台で全部受けてきました。記録に間違いがなければ、止める規則は、もうありません」それから綴りを閉じた。「明日の朝、触れに載ります」
写しの一枚は、その場で掲示の板に貼られた。貼ったのはダグで、貼り終えると何も言わずに台へ戻った。
板の前の人だかりが、貼り紙の乾く前にざわついた。三人で七層、という声。筆頭は荷運び上がりの娘だ、という声。足の悪い爺と張り替え屋だぞ、という笑い。笑いのほうへ、別の声がかぶさった。五層で綱を張るのを見た、という声と、六層日帰りの綴りを見せてもらえ、という声だ。声と声は板の前でしばらく押し合って、どちらも勝たないまま人だかりの厚みにだけなった。俺は荷の算段があったから、勝ち負けを見届けずに板の前を離れた。ニナは写しをもう一枚もらって、四つに畳んで胸元へしまった。畳み方が、いつもの手順の畳み方だった。
帰り道、ニナが一度だけ口を開いた。隊の名前、勝手に決めてしまいました、と前を向いたまま言う。いい名だ、と返した。
「……うち、竈から始まったので」
それきり、名前の話は終いになった。始まりの場所を名にするのは、帳面の付け方として正しい。ニナの帳面はいつも、最初の行から順に埋まっている。
工房に戻って、支度を並べた。並べ終わるまで、誰も余計な口をきかなかった。
靴、帯、袋、外套、杖、薄刃、鏨の包み。崩しを重ねた列が台の上に揃う。水と飯は二日ぶん、縄は新しいのを一巻き。飯は焼き締めた麦の板と干し肉で、ニナが重さを量りながら三人の袋へ振り分けた。ボルグは杖の石突きを検めてから、七層の道順を炭で床板に引き直した。二年前の記憶の図だ。引き終えて、消さずにそのまま寝ろ、と言った。朝までに覚えろという意味らしい。図の上がり口には印がひとつ余分に打ってあって、それが何かは訊いても答えず、行けば分かる、とだけ返ってきた。
崩した線は、灯りの下では黒い筋にしか見えない。効きは目に映らない。映らないものを三人ぶん担いで、明日は二年間誰も踏んでいない層へ上がる。量りに載る重さは、袋を持てば分かる。載らないほうの重さは、上がってみるまで分からない。
日が落ちて、通りに触れ役の声が立った。鐘を二つ鳴らして、人を集めてから読む、いつもの型だ。
「隊、竈。筆頭、ニナ。明日未明、七層に挑む」
一つ目が読まれ、通りの向こうで足音が幾つか止まった。触れ役は息を継いで、二つ目を読んだ。
「暁刃、七層に再び挑む。日は、同じく明日未明」
ボルグは床板の図から顔を上げなかった。ニナは胸元の写しの上へ手を置いて、それきり動かさなかった。触れ役の声が次の辻へ移って、同じ二つを読み上げるのが聞こえた。先に読まれるのは、向こうの辻でも暁刃だった。
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