第28話「読まれない字」
作業台に、板と革と、新しい鉄片を並べた。
ゆうべの問いには、まだ答えていない。行くとも行かないとも言わずに寝て、朝いちばんで台の前に座ったのだから、半分は答えたようなものだが、残りの半分はこの台の上で作るしかない。読まれない字ができなければ、七層は消される場所のままだ。できれば、通り道になる。
炉端で火を起こしていたボルグが、杖の先で土間を一度突いた。
「支度は、何からだ」
「字からだ」
崩しの手は、六層からの帰り道で三つまで数えてあった。節を足す。始まりを線の腹に隠す。画の順を狂わせる。どれも、引いた本人がなぞり直しに二度迷うところまで崩す。問題は、そこまで崩した線が、まだ付与として働くかどうかだ。字は崩しすぎれば字でなくなる。刻みも同じはずで、効きの残る崩しの幅がどれだけあるのかを知っている者は、世間のどこにもいない。台の上で数を引いて、幅の際を探すしかなかった。
一枚目は崩しすぎた。水弾きのつもりで板に入れた線は、節を五つ足したところで水を素直に通した。効きが死んでいる。二枚目は画の順だけを狂わせた。水は弾いた。だが翌朝なぞり直すと、指は一度も迷わずに線の上を走った。効いて、読める。いちばん残してはいけない出来だ。三枚目からは足す節を三つに減らし、始まりを腹に沈め、順を二カ所だけ入れ替えた。なぞる指が、二度止まった。
効きの確かめ方は、素材ごとに変えた。板は水を落として弾きを見る。革は指で揉んで、ほつれ止めの張りを確かめる。鉄片は床の角に打ちつけて、欠け止めの手応えを聞く。崩して、確かめて、なぞって、削り落とす。昼を回るころには、削り落とした線のほうが台の上で多数になっていた。数を引くというのは、要するに、外れを積み上げる仕事の別名だ。
読めるかどうかを俺の目だけで決めるのは危ない。塔がどう読むのか、俺は知らないからだ。だから読み手を増やした。ニナは図を引く目で線を追う。層の地図を書き溜めてきた目だから、迷い方がはっきりしている。始まりを探して目が二度往復すれば、その線は隠せている。一息に終いまで走れば、隠せていない。ボルグは字を知らない。知らない目は、意味を拾わずに形だけを追う。育ちの違う三対の目が、三対とも迷った線だけを台の端へ移していく。夕方までに、端に残ったのは四本になった。
ボルグはその四本を、指の腹でひとつずつなぞった。長い時間をかけて、途中で二度、指を戻した。
「俺は、字を知らん」なぞり終えて、そう言った。「知らん俺の指が、迷子になる。……七層で、張りが端から解けていくのを見とった俺が言う。その線は、解かれん側だ」
言い切ってから、割に合わん買い物をした顔で鉄片を台へ返した。
日が落ちる前に、ニナに短剣を借りた。
刃の根の一筋を、灯りにかざす。路上で刻んだ日から、ずいぶんになる。一層で使われ、二層ではぐれを受け、そこからこっちの塔通いにずっと差されてきた刃だ。縁は立ったまま、丸みもない。そして、今朝から俺が引いてきたどの線よりも、下手だった。
節が余計に付いている。始まりの当たりは線の腹に紛れて、見つからない。画の順は、なぞってみると二カ所で手が逆を向いた。今なら、こうは引かない。引かない、ではなく、引けない。手が揃ってしまったからだ。
朝から頭で設計していた崩しの形は、腰の高さにずっと下がっていたことになる。手本は最初からあった。教わらなかったころの、俺の手だ。
腕は上がったと思っていた。線が読みやすくなっただけだった。外で使うぶんには、それで構わない。塔の中では、読みやすい線は、消えやすい線と同じ意味になる。
「その一筋、どうかしましたか」
覗き込んだニナに、短剣を返した。受け取る掌に、もう布はない。新しい皮が薄く張っている。
「これを手本にする。半年と塔通いに保った線だ。理屈より先に、実物がある」
「……組合の人は、ありえないって言ったんです。切れない付与なんて聞いたことがない、って」ニナは鞘を払い、根の一筋を自分でも灯りに向けた。「ありえないものの作り方を、隣で見てるんですね、私」
作り方というほどのものではない。下手だったころの手を思い出すだけだ。そう返すと、ニナは短剣を鞘へ戻して、それ以上は訊かなかった。訊かない頷き方をする娘だ。
夜にかけて、三人分の装備を順に台へ載せた。ニナの靴と革帯と袋と外套。ボルグの杖。俺の薄刃と、鏨の包み。縁は立てない。深さも足さない。古い線はそのまま残して、脇へ崩しを重ねていく。重ねの縞は入れた順に働くから、下に古い手の入っている物ほど仕事が早く済んだ。靴底には短く二筋、外套の裾には雨と風のぶんを一周。どれも、入れる場所と効きは今までと変わらない。変えたのは字の姿だけで、姿を変えた線は、引いた端から他人の仕事に見えた。短剣に足すところが見当たらないのは相変わらずで、代わりに鞘の合わせ目へ一本だけ添えた。
「……これで、行くんですね」
袋の口を縫い直しながら、ニナが言った。ゆうべの問いの、続きだ。
「読まれない字ができたら、と思っていた。できたかどうかを決めるのは、俺でも、お前たちでもない」
「塔、ですか」
「六層に、鉄片を三枚預けとる」ボルグが炉端から言った。「取りがてら、検めりゃあいい。数字を読む頃合いだ」
行く順序が、それで決まった。六層で崩しを検めて、通るなら届けを出す。ニナは縫い終えた袋を膝に置き、口の糸目をしばらく揃えていた。揃え終えると、明日の朝のぶんの薪を竈の脇へ運ぶ。手順の積み替えで夜を畳んでいくのは、この娘のいつものやり方だ。
ボルグは炉の火を灰に埋めてから、寝台に横になった。埋め火の始末だけは、どんな晩も順番が変わらない。
俺は最後に、台の上の装備を並べ直した。靴、帯、袋、外套、杖、薄刃。崩した線は灯りの下でも、引いた俺の目でさえ一度では追えない。明日、この列を六層へ持って上がる。
灯りを消した。
土間の床で、線が光っていた。越してきた夜から時々あった、あの淡い照りではない。梁は暗い。扉も、窓板も暗い。台の上の、今日刻んだばかりの装備も暗いままだ。床の線だけが灯りの消えた後も細く白く残って、今までのどの夜より強かった。
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