第27話「軋みの正体」
鉄片を三枚、同じ寸法に切った。
厚みも揃え、面も同じ砥石で均す。違いは線だけにする。それが検分の作法だ。一枚目には、揃えられるだけ揃えた線を入れた。深さを合わせ、間を合わせ、始まりと終わりを立てる。教本は知らないから、教本のつもりで引いた線だ。二枚目には、いつもの線。揺れも節も、手癖のまま。三枚目には、崩した線を入れた。節を余分に足し、始まりを線の腹に隠し、画の順を狂わせる。引いた本人の指が、なぞり直しに二度迷う線になった。迷いながら引く線は、刻みの作法の逆さまで、逆さまの手応えは、思ったより悪くない。
ニナが三枚に紙札を結び、ボルグが荷の順を検めた。行き先を言うと、二人とも黙って支度をした。黙り方に、賛成の形はなかった。反対の形もなかった。剥がれた靴は、線を入れ直してある。入れ直した線は、今度は縁を立てなかった。
六層までの道は、三度目で足が覚え始めている。覚え始めた頃がいちばん危ない、とボルグが前を歩きながら言った。層は生きとる、足の覚えは先週の層の覚えだ、と。桟の綱の結び足しを一本ずつ検め直し、風切りの影のない刻限を選んで、昼前に桟道の付け根へ着いた。
十四画の前に、三枚を並べた。
置き方も決めてある。刻印から同じ距離、同じ向き、板の下に布を敷いて石の癖を切る。触れない。触れるのは俺の指の仕事ではなく、今日は塔の側の仕事だ。ボルグは棚場側の桟に立ち、杖を突ける板の上で耳を風上に向けている。撤退線は先に決めた。鳴りが間を詰め始めたら、鉄片を置いたまま戻る。物は拾いに戻れるが、拾いに戻る足は替えが利かない。昨日までの授業料で決めた線だ。
「数、取ります」
ニナが紙と炭を構えた。掌の布は、今日は薄い。
待つあいだ、誰も喋らなかった。角灯の火が立ち、蝋燭の目盛りがひとつ縮む。吹き抜けの風は今日は素直で、頬の流れが絶えない。絶えているあいだは、荒れは来ない。来ないはずだ、という当てにならなさごと、風を頬で数える。
間遠の鳴りが、石の中を通る。一つ。
一枚目の線が、白んだ。
鳴りが通り抜けた、その後ろから、揃えた線の縁に粉が立つ。目で追える速さではない。気づいたら白んでいる、という速さだ。二つ目の鳴りで、白みが線の半ばまで走った。三つ目で、一枚目の線は縁がめくれ、四つ目で、深さの半分が消えた。二枚目は、五つ目の鳴りでようやく縁が曇り始める。三枚目は、まだ何ともない。
「……数、合ってます」ニナの炭が動き続けている。「鳴った数だけ、剥がれてます。一枚目、鳴り四つで半分。二枚目、鳴り五つで縁だけ。三枚目、鳴り九つで、変わりなし」
鉄片は、拾わなかった。置いたまま数を浴びせ続けたほうが、次に来たとき読める数字が増える。布の上の三枚は、そのまま塔への預けにする。一枚目の消え残りの断面だけ、角灯を寄せて目に入れた。縞はない。一息に入れた線は、一息で消えていく。重ねの縞が保った時間の意味も、これで裏が取れた。
鳴りと剥がれが、同じ帳面に載った。五層で他人の刃を見たときは、照りの引く速さまでしか分からなかった。今日は数がある。数のある話は、仮説の側から事実の側へ、一段降りてくる。
読める線から、読めた順に、鳴りの数だけ消える。
軋みは、消す働きの音だ。
そこまで数えて、顔を上げた。十四画が、角灯の光の際にある。壁が積まれた日からそこにある字。誰にも読めない字。読めない字は、残る。この字だけが特別に残っているのではない。この字は、消す側の字だ。
書庫の帳面が言っていたことと、壁の粉の帯が言っていたことと、二年前の順序と、今日の数取りとを、頭の中で一列に並べる。並べて、余る事実がないかを先に探した。余りが出れば仮説は削り直しだ。探して、出ない。出ないなら、言葉にする番だ。
順に並べると、こうなる。塔の壁は積まれた。積んだ誰かがいる。積まれた壁に、壁と同じだけ古い字が走っている。字は七層の壁の手前に並び、六層に一本紛れ、たぶん探せばまだある。字と字のあいだで塔は鳴り、鳴った数だけ、他人の線が消える。
彫り損じを潰すとき、俺は同じ線を逆になぞる。面に残したくない線を、読んで、なぞって、潰す。塔がやっているのは、それだ。規模が違うだけで、手つきは同じだ。自分の面に入った他人の線を、読めたものから潰して回る。潰す働きが、彫りの密なところほど強い。
「塔は、自然の物じゃない」
口に出すと、風の音が一段遠くなった。
「塔ぜんたいが、誰かの一枚の彫り物だ。層も、壁も、この字も、一つの彫りの中身だ。軋みは、その彫りの手入れの音だ。面に入った他人の線を、潰して回っている。五層で舐めて、六層で齧って、七層で食うんじゃない。五層は手入れが薄くて、七層は濃い。それだけの話だ」
ボルグが、桟の上で動かなくなった。
杖の頭を握る手の、指の背が白い。四層の階段の口で見た白さだ。長い息が一つ、風下へ流れた。
「……壁じゃ、なかったのか」
問いの形をしていたが、誰かに向けた問いではなかった。杖が桟を突き直し、動かない左脚が半歩、置き直される。置き直す音だけが、しばらく桟の上にあった。
二年、この男は壁に負けたと思って生きてきたのだろう。壁なら、越えられなかった側の話になる。消される場所なら、話が変わる。誰の腕の話でもない。読める字で入った者から、順に消されただけだ。双角の付与術士の腕も、暁刃の張り直しの手際も、良し悪しの欄に載る話ではなかったことになる。載る欄が、最初からなかった。
「七層の壁は、壁じゃない。消される場所だ」
言ってから、三枚目の鉄片を見た。崩した線は、鳴り十いくつを浴びて、まだ立っている。崩し方は今日の思いつきで、粗い。粗くてこれなら、崩し方を仕事にすれば、もっと保つ。
「消される場所なら、消されない刻みで通ればいい」
言った俺の側では、順序の話をしたつもりだった。消される場所には、消される字で入るから消される。消されない字で入れば、場所は場所に戻る。床を直すのと、並びとしては同じ話だ。
ニナの炭が、止まった。
ボルグと、顔を見合わせている。見合わせた二人の目が、同じ速さでこちらへ戻ってきた。先に口を開いたのは、ニナだった。
「……行く気ですか、七層」
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