第22話「読めない文字」
指を、溝から離した。
音は、それきり来なかった。石の中を通った太い一鳴りは、四層の階段の口で聞いたものと同じ低さで、同じように一度きりで終わる。棚場の風が吹き上げ、角灯の火が寝る。それだけだ。
「手を離せ」
離したあとで、ボルグの声が届いた。声が遅れたのではない。声の側が、音のあとで出す形しか持っていないのだ。杖を突いて桟道の付け根まで来た男の顔は、五層の階段の上を検めたときの顔に戻っていた。
指を、もう一度溝へ置いた。
塔は黙っている。三つ数えて離し、置き直して、また黙っている。触れて鳴ったのが一度、触れて鳴らないのが二度。順序が偶然かどうかは、この数では言えない。分からない棚に、また一段積んだ。積むのは簡単で、下ろすのが難しい棚だ。下ろすには確かめる回数が要る。回数を稼ぐには、ここへまた来るしかない。ボルグは二度目の指を止めなかった。止めても聞かないと分かっている顔で、ただ杖を握り直した。
「ニナ、紙と炭を」
写しを取る。溝に紙を当てて擦る手もあるが、当てるのはやめて、目で写した。線は全部で十四本。並びに順序がある。左から右へ一画ずつ置かれていて、置き方に手癖の揺れがない。人の手癖の揺れがない、というのが、人の彫りに見えない理由の半分だ。残り半分は、鏨の当たり口がないこと。ニナが紙を押さえ、俺が炭を持つ。一画写すごとに溝と紙を見比べ、長さと傾きを指の幅で合わせていく。手が慣れている仕事だ。刻む前に、刻む線を頭で写す。その写しを紙に出すだけのことで、違うのは、写す線が自分の線でないことだけだった。角灯を三方から当て、影の出方で溝の断面を読む。丸くも角でもない。石が、そこだけ初めから欠けて生まれた断面だ。
「文字、なんでしょうか」ニナが紙の上から覗く。「線に、しか見えません」
「文字だとして、俺には読めない」
読めないと言いながら、三画だけ、目が止まる線があった。四画目の跳ね。八画目の返し。十一画目の、下へ締める傾き。抜け止めの返しに似ている。滑り止めの逆の傾きにも似ている。締めの筋にも。似ているのは形だけで、俺の線にそう見えるのは、俺がそう刻んできたからだ。組合で術式を習った者なら、術式に載っていない、で終わる話なのだろう。俺は術式を習っていない。だから、線が線に見える。それだけのことだ。線が線に見えるというのは、意味の側から見られないということでもある。読めない者の目には、形しか残らない。形だけ残っているから、三画が引っかかる。引っかかるだけで、先へは行けない。
「留めの筋に、三画だけ似ている。似ているだけだ」
言うと、ニナは炭の手を止めて、それから何も言わずに続きを写した。ボルグは紙ではなく、溝を見ていた。
古さを、最後に検めた。角灯を溝の底まで差し込む。溝の中の石肌が、外の壁の肌と同じ具合に古びている。彫った溝なら、彫った日から中の肌だけが新しく、外と中で古びの差が残るものだ。差がない。縁は崩れていないのに、中は壁と同じだけ古い。彫った跡なら、こうはならない。石と一緒に古びた線だ。塔の壁が積まれたのと同じ日から、そこにある。
そこまで読んで、読むのをやめた。読めるところまで読んだら、その先は棚だ。
帰路は、来た道を戻った。風切りの影が二度落ちて、二度とも薄刃の音で逸れる。桟道の板は鳴らず、五層の柱は唸り、四層の壁は走られず、三層の水場は右。下りの桟道で、ボルグが一度だけ後ろを振り返った。棚場の方角だ。杖を突く間合いは乱れず、それでも振り返った首の動きは、この男にしては長かった。俺は振り返らなかった。振り返って見えるものは、写しの紙に全部入っている。図の白い場所が一つ減り、丸が一つ増えた。丸の隣にニナが小さく「読めない」と書いて、それが今日の図の書き足しの全部だった。書き足しが少ない日ほど、荷が重い。鳴り石は一つも拾わなかった。
工房に戻った頃には、日が落ちていた。
飯を先にした。順序は変えない。椀が三つ、欠けの小さい順。ニナが今日は数えるのをやめなかったのを、俺はむしろ落ち着いて見た。数える手が動いているなら、あの吹き抜けは応えていない。
飯のあいだ、六層の話は誰もしなかった。しないことを、三人で示し合わせたわけでもない。椀が空くまで、話は椀の中身のことだけで足りていた。飯が先で、棚は後。工房の順序は、塔の中でも外でも変わらない。
写しの紙を卓に広げたのは、椀を洗い終えてからだ。ボルグは寝台の縁に腰を掛けたまま、しばらく紙を見なかった。見ないまま、杖の頭に手を重ねている。それから、灰色の目だけ紙へ下ろした。
「……七層の壁のそばで、似たものを見た」
声が低い。指南の声ではなく、五層で「食う」と言ったときの声だ。
「壁の手前の岩に、こういうのが並んどった。一つじゃない。並んどった。読める奴は、おらんかった」
「並んでいた」
「並んどった。それ以上は、今夜は言えん」
ニナが息を詰めたのが分かった。詰めたまま、出さない。言えん、で切れる話を、俺は押さなかった。押す筋がない。二年前の七層の話は、この男の側に順序があって、順序は本人が決める。ニナが図の余白に「七層・壁の手前・並ぶ」とだけ書いた。書く手が、いつもより遅かった。
灯りを落とし、ニナが炉の火を灰に埋める。寝台の軋まない音がして、ボルグの息が長くなり、小部屋の戸が閉まる。俺は作業台の脇の寝台に横になった。目は閉じたが、眠りは来なかった。棚が混んでいると、眠りが遠い。今日は棚に三段積んで、一段も下ろしていない。
風の音が屋根を渡る。梁は鳴らない。刻んである。扉も窓板も、雨風の夜に鳴った覚えがない。鳴らない家の中で、自分の息だけが数えられる。
夜半に、目を開けた。
工房は暗い。埋み火は灰の下で、照り返す明るさを持たない。それでも、床が見える。
刻んだ床板の、線の筋だけが、淡く光っていた。梁の刻みは暗い。扉も、窓板も。床だけだ。息をするような遅さで明るくなり、暗くなり、また明るくなる。残り火の照り返しではない。残り火が、ない。
作業台の上に、写しの紙が広げたままになっている。
紙の上の十四本の線が、床の線と同じ遅さで、同じ淡さで、光っていた。
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