第21話「六層」
夜の明けきらないうちに、塔の口をくぐった。
未明の門に列はなく、門衛が一人、角灯の火だけ検めて通した。六層まで上がって日のあるうちに戻るなら、この刻限に出るしかない。言い出したのは俺で、道も俺が出す。五層までの検め直しが済んだ図の、次の白い場所が六層だというだけの話だが、六層なら、俺は道を知っている。半年通った仕事場だ。
ニナは今朝、戸口を出る前に通りを両方向へ検めた。今までにない動きだったが、訊く筋も見当たらないので、そのままにしてある。ボルグは何も言わず、いつもの倍の割合で後ろを振り返りながら歩いた。二人とも寝が足りない顔をしていて、寝が足りない理由は訊かれるまで言わない顔でもあった。
一層から四層までは、通い慣れた道になった。壁走りの帯は静かで、刻んだ壁は今日も走られていない。五層の鳴りは、前より膚に馴染んで聞こえた。馴染むな、というボルグの声が背中から来て、隊の足がひとつ締まる。柱の間を抜けるあいだ、ニナの短剣は鞘の中で薄く唸り続け、照りは引かなかった。
六層への階段は、五層の柱の外周の、図に丸を付けた彫り跡から数えて三十歩の壁にある。上がるほど風の音が増え、鳴りの底に風が混ざって、音の層が二枚になった。桟道の入り口で、俺は先頭を代わった。
「ここから棚場までは、右の桟を使う。左は遠回りだ。双角のときは左だったか」
「左だ」ボルグが桟の下を覗く。「右は、儂らの頃は板が浮いとった」
「浮いた板は留めてある。半年前に、俺が」
六層は、吹き抜けの層だ。塔の芯を貫く大きな縦穴の壁に、棚場と桟道が段になって取り付いている。風が下から吹き上げ、角灯の火が横に寝る。獣は上から来る。風切りという翼のある奴で、影が落ちてから爪が来るまでが一呼吸しかない。ニナには壁側を歩かせ、胸当ての紐を確かめさせた。上からの爪には、覚えた型がまだない。今日は覚えに来たのではないから、鳴り石用の薄刃で桟の縁を叩き、音で風切りの居場所をずらしながら進んだ。ボルグのやり方だ。音の癖は二年経っても変わっていないらしく、影は二度落ちて、二度とも遠ざかった。
桟道は幅が肩二つ分で、山側に手すりの綱、谷側は角灯の光が届かない深さだ。留めた板は、どれも足の下で鳴らなかった。半年前に留めた俺より、留まっている板のほうが落ち着いている。ボルグの杖の音が一定で、ニナの足音がそれに揃い、俺の足音が最後に混ざる。三人分の音が揃うと、風切りの影は寄りにくいのだと、これもボルグの受け売りだ。
棚場は、覚えているとおりの場所にあった。
覚えているとおりでないのは、そこに火の跡が二つあることだ。古いのと、新しいの。古いほうは俺たちの——暁刃の中継の跡で、新しいほうは、先週の暁刃のものだろう。切れた荷紐が風防の陰に丸まり、割れた瓶の底が水瓶の台に残っている。出ていくときの慌ただしさが、物の散り方に出ていた。拾って直す筋の物でもないので、そのままにする。
石積みの高さも、杭の並びも、荷掛けの梁の反りも、手が覚えているとおりに残っている。ここで半年、飯を炊き、装備を並べ、張りの補助をやった。夜番の順番も、風の強い晩に石積みのどこが鳴るかも、まだ言える。思い出す、というほどの距離がない。仕事場は、離れても仕事場の顔で立っている。
風防の石積みに、手を置いた。
崩れ止めの刻みが、通っている。杭の抜け止めも、荷掛けの梁のたわみ止めも、桟道の付け根の滑り止めも。撤退の相談が始まっていた頃、手の空くたびに入れて回った刻みだ。夜番の合間の、灯りの乏しい、浅い仕事。指の腹で縁をなぞると、五層の「ひと皮」より深く丸められてはいるが、線は全部、底まで立っていた。
浅かったはずだ。
あの頃の俺は隊の張りの補助で手一杯で、設営に入れる刻みは余り時間の仕事だった。浅い刻みは早く切れる。そう思って、切れる前にと思って、回るたびに入れ直していた。それから季節が半分回って、ここは齧る層で、それでも残っている。
隣の岩肌に、暁刃の新しい張りの跡があった。七層へ上がる前に掛け直したのだろう補助の付与が、剥がれた漆喰の縁みたいに白く粉を吹いて、もう骨だけになっている。張って七日の跡だ。手際は良い。良い手際で張った物が七日で骨になる場所で、余り時間の浅い仕事が残っている。
噛み合わない。
浅いのに残るなら、俺の浅さの目算が違うのか、この層の齧り方に癖があるのか、そもそも張りと刻みでは食われ方が別なのか。順に考えて、どれも今日ここで確かめきれる話ではなかった。分からない物は、分からない棚へ置く。置きながら、その棚がこのところ混み始めているのには、気づいていた。
「……齧る層だぞ、ここは」
ボルグが石積みの前に立っていた。杖の先で崩れ止めの線をなぞり、桟道を一度突く。
「これは、いつのだ」
「春の前だ。浅い仕事だった」
ボルグは黙った。ニナが口を開きかけて、閉じた。閉じてから、荷の紐を締め直した。高い場所が応えているのかもしれない。吹き抜けの風は、慣れない者の口数を減らす。
図の書き足しを済ませ、帰りにかかる前に、刻みの残りを検めて回った。入れた場所は全部覚えている。石積みから杭、杭から梁、梁から桟道の付け根へ。指で数えながら辿っていって、桟道の付け根の岩で、数が合わなくなった。
一つ、多い。
滑り止めの線の並びの端に、俺の入れていない刻みが混ざっていた。
しゃがんで、角灯を寄せる。深さは俺の線と同じくらいで、だから遠目には紛れていた。近くで見ると、別の物だ。鏨の当たり口がない。刃を入れた起点も、抜いた終点もない。溝の断面が、道具の形をしていない。彫った線ではなく、最初から石にそう走っていた筋のような——いや、それなら風化で縁が崩れるはずで、縁は崩れていない。人の彫りに、見えない。
ニナとボルグを呼ばず、まず自分の目で三度検めた。見間違いなら呼ぶだけ無駄で、見間違いでないなら、呼ぶ前に言い方を決めておきたい。三度見て、言い方は決まらなかった。五層の外周で見た古い彫り跡が頭をよぎったが、あれとも違う。あれには道具の癖があった。これには、ない。彫りの癖がないというのは、彫らずに刻む方法があるということか。ないものの説明は、あるものの説明より難しい。
指の腹を、溝に置いた。
塔が、軋んだ。
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