↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/23

第20話「【sideニナ+ボルグ】気づかせない」

洗い終えた椀を、欠けの小さい順に伏せた。

三つ並べて、布巾で水気を押さえて、竈の残り火から遠すぎず近すぎない場所に置く。半年前の私は、椀を並べる場所のことで頭を使ったりしなかった。並べる椀がなかったし、並べる家もなかった。数えるものが借金と空腹しかなかった頃の数え方を、今でも指が覚えている。今夜数えているのは、もっとややこしいものだ。

並べ終える頃には、作業場の隅から寝息が届いている。アルドさんは今夜も、研ぎの手を止めた素振りのまま寝台に倒れて、灯りを消して百も数えないうちに眠った。働いた人の眠り方だと思う。起きない、とボルグさんが火の側から言う。あの寝息は、鐘でも起きん、と。

それでも私たちは、声を低くした。

炉の火を灰で半分埋めながら、昼から数えていたことを口に出した。今日、市場で二度訊かれた。あんたの短剣、五層でも照りが引かないって本当かい。一度目は魚屋のおかみさんで、声は世間話の高さだった。二度目は知らない探索者で、こちらは世間話の高さを作っていた。作った声のほうが、指を折る側の手を強張らせる。

「二度とも、もらい物なので、で通しました。通った顔ではなかったです」

ボルグさんは新しい寝台の縁に腰を掛けて、杖の頭に両手を重ねている。買取の列で係が聞き回っていたのを、この人も見ていた。三層の床の刻みの主に話を聞きたい、というのが係の言い分で、帳面の余白の名前だけでは上の人たちは足りないらしい。

「名前は割れとる」ボルグさんが言った。「割れとらんのは、顔と居所だけだ」

「ベルタさんが言ってました。窓口の人は、係に訊かれて帳面を閉じたそうです」

「ダグの帳面は、閉じても長くは保たん。暁刃が落ちて、組合は七層に上がれる目を探しとる。消えん付与の話が、銭の匂いを帯び始めた。探しとるのは、じきに組合だけじゃなくなるぞ」

雨の夜の、あの外套の人のことを、二人とも口に出さなかった。出さなくても、同じ場所を思い出しているのは分かる。あの人はもう、探し当てて、帰っていった側だ。あの夜、私は書きかけの図を掌で隠した。隠す側の手つきは、あの晩からもう始まっていたのだと、いまになって分かる。

「それで」ボルグさんが言った。「娘は、どうしたい」

どうしたいか。昼からずっと、数えていたのはそれだった。

昼のあいだ、頭の中で何度も試算をした。教えたらどうなるか。あなたの刻みは切れません、五層でも照りが引きません、組合が探し回るくらいの値打ちです、と全部並べて言ったら、あの人がどうするか。私の靴も短剣も外套も、あの人はタダで刻んだ。銅貨三枚の貸しを、食っていけの一言で流した人だ。安い物だと思っているから、あの筋は通っている。値打ちを知ったら、こんな物をただで渡す帳尻が合わないと、あの人の側の帳簿が狂う。狂った帳簿を、あの人は自分の側を削って直す。何度計算し直しても、同じ答えに落ちた。

「教えたら、遠慮します」口に出すと、答えは余計にはっきりした。「刻まなくなります。少なくとも、今みたいには」

ボルグさんは、長いこと黙っていた。炉の埋み火が、灰の下で一度だけ息をする。

五層の休みで、あの人が鏨を出したときのことを、ボルグさんは口にした。刻みの縁をひと皮ずつ立て直す手つきを、この人は最初から最後まで黙って見ていた。手間賃の出ない研ぎ直しを、癖で、全員の分やる手。

「あれはな、娘。値を知らん手の動きだ」杖の頭の上で、指が一度組み直される。「値を知った職人は、ああは動かん。……ああいう手は、値札を下げた日に止まる」

「止めたくないです」

「なら、答えは出とる」

気づかせない。口に出すと、悪いことの相談みたいに聞こえた。実際、半分はそうなのかもしれない。私は膝の上で指を折って、それでも数え直す。隠すのは、騙すのと同じ列に並ばないか。恩を隠したまま返すのは、返したことになるのか。借金の取り立てから逃げていた頃、私は隠し事の値段をよく知っていた。隠し事は利子が付く。返す日が遅くなるほど、返す額が膨らんでいく。この隠し事の利子は、誰の帳簿に付くのだろう。

「騙すのとは、違うんでしょうか」

「隠すんじゃない。急がせんだけだ」ボルグさんの声は、層の癖を教えるときの声だった。「あの男はいずれ気づく。確かめる男だからな。切れん刻みを、切れるまで見張るつもりの男だ。いつか自分の答えに自分で行き着く。その日まで、卓の飯が続いとればいい。番をするのは、飯を食わせてもらっとる側の仕事だ」

番をする。その言い方なら、私の帳簿にも書ける。貸しでも借りでも隠し事でもなく、仕事の欄に書ける。窓口に立つのも、驚かない練習をするのも、椀を並べるのと同じ列に並べていい。そう思えた分だけ、指を折る手が軽くなった。

決め事は、指を折れる形にした。一つ、噂はこの家に持ち込まない。二つ、買取と組合の窓口は私が立つ。三つ、短剣を訊かれたら、もらい物なので分かりません。四つ目を折るところで、少しだけ迷った。

「それから——本人の前で、驚かない」

「最後のが一番難しいの」

「ボルグさんは元から驚かない顔です」

「娘は顔に出る」

「練習します」

息だけで笑う音が、火の側でした。作業場の隅の寝息は、間合いを崩さない。半年前、銅貨三枚を返しに来た私に、あの人は椀を出した。椀の側から数え始めた暮らしが、いまは椀を並べる側になって、並べた椀の数だけ守る物が増えている。約束の形は、それで全部だった。証文もなければ、指切りもない。ただ、欠けた椀が三つ、伏せて乾いていく音のない音が、判子の代わりみたいに土間にあった。

炉の灰を最後まで均して、ボルグさんが寝台に脚を上げるのを待ってから、灯りを消しに立った。新しい窓板は、隙間が指の幅しかない。閉め忘れの確かめに寄っただけで、外を見るつもりはなかった。

気づかせない、じゃなくて。気づく日まで、私たちが番をする。そう数え直したとき、窓板の隙間を、通りの暗がりが横切った。

横切って、止まった。

火明かりの届かない通りの際に、人が立っている。動かない。窓のこちらではなく、工房そのものを見上げるように、じっと。肩の線に、見覚えがあった。

外套——


読んで下さりありがとうございました!

★★★★★評価と[[[ブックマーク]]]、リアクションお願いします!

Youtubeにて作品公開中!

http://www.youtube.com/@mizukara-h2z

ご感想やご質問など、ぜひコメントでお聞かせください。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。